09 お馬が領にやってきた
春の訪れと共に黄金丘の館はほんの少しだけ賑やかになった。四年ぶりに私の誕生祝が行われるのだ。
アークシア王国では、年に三回誕生祝に当てられる時期が存在する。春の畑興し後と、夏の降臨祭の次の満月から朔にかけて、それから秋の収穫の後だ。冬の終わりに生まれた私の誕生祝は春の畑興し後になる。
前世の記憶がある私としては誕生祝などいまさらではないかと思うが、領主の誕生祝は領内全土で行われるので、建前を抜いて言えば領民のご機嫌取りにうってつけのイベントなのだそうだ。お祝いにかこつけて領民に酒や食事をばら撒いて飴と鞭のアメにする、と。
領民達が楽しめるというのであれば、ほぼ三日に渡ってじっとし続けねばならないという、主役という名の苦行も喜んで受けよう。
誕生祝の諸々の準備はテレジア伯爵が行ってくれるらしい。
最近、その仕事ぶりを間近で見る機会が増えてきて思った事がある。もしかして私は仕事させすぎによる老人虐待を行っているのではないだろうか。今彼に過労死されると非常に困るのだが……。
そもそも彼がここで私の後見について領主代行などを行っているのは、領内が安定した後の利権を得るための筈だ。身を削るような働き方をする必要があるのだろうか。打算的な思惑から働いてくれるならいざ知れず、テレジア伯爵はどう見ても損得を抜きにカルディア子爵領の復興に尽力してくれている。そんな人を仕事で潰すのも如何なものなのか。
かといって私にはその仕事を肩代わりする能力も無ければ、補佐できそうな人材を用意できるような力も無いので、今出来る事に精一杯励む、つまり大人しく彼の教育を受ける以外に手を出せる事など無いのだが。
その教育の賜物として、今最も目立つ結果が馬術と言える。
近年の大陸では、騎馬兵隊を用いる戦術がかなりの速度で進化している。
軍事利用に向いた戦馬の改良が使用段階になったのと、革の輪で出来た簡易の鐙が広まった事が理由だろうか。七百年ほど前に大型の歩兵集団戦術が確立されて以来、騎乗は軍の指揮官のみに許された物だったが、貴族がそれぞれ軍を育てるようになって以来は騎馬兵の利用を始め様々な戦術が用いられるようになった。
ちなみに、それまでの戦は統率の無い群集と群集の殺し合いでしかなかったらしい。更に蛇足として、最初に軍隊を編成したのは、二千年以上前にあった古代イニャトリスカの王イルハーンだったそうだ。
軍というシステムが広まる前にイニャトリスカが滅亡したため、七百年前、神聖アール・クシャ法皇国が国家防衛の為に指揮系統を持つ軍を作るまではそれまでの非統率的集団戦闘が継続されたという。
閑話休題。
アークシア王国における戦争とは防御戦とイコールであり、そのため会戦を避ける傾向にある。
そもそもアークシアは西と北を海に、西南部と東北部は赤の山脈と黒の山脈を国境としている為、騎馬兵隊を持つ軍隊自体が少ない。現状では東南部の国境に位置するユグフェナ王領、ジューナス辺境伯領、ルクトフェルド伯領、フレチェ伯領の四領のみが一個小隊規模の騎馬兵隊を保有している。
諸々の理由から現在貴族院ではユグフェナ地方に位置する諸領の軍備拡大計画が進められているらしい。
そしてこのカルディア領では、徹底的に軍が崩壊していた事ために、試験的に領軍を騎馬兵隊として育てていこうという試みが上がっているという。
テレジア伯爵が熱心に領軍の強化を行っている事もあって、恐らくユグフェナ地方の軍拡を訴えたのも伯爵ならカルディアで騎馬兵隊設立の試験を言い出したのも伯爵なのだろう。怖い人だ……。
冬を迎えてすぐの頃、貴族院の決定に従って、領軍用に三体の戦馬がまず配備された。来年には30頭の戦馬が配備される予定だ。それで領軍60名のうち、二小隊へと分割し、半分を騎馬兵として転用するのである。
既に届いた三頭のうちの一頭は比較的体格の小さい騸馬であり、私の訓練用だった。もう二体は騎馬隊を率いる予定であるカルヴァンとアジールという軍古参の兵士に与えられた。馬術を私に叩き込む為の師はルクトフェルドの退役騎馬兵が用意され、時間がある時はテレジア伯爵手ずから指導を行うという力の入れようだった。平行してまだ成熟してないラスィウォクへの騎乗訓練も行われたが、ラスィウォクの知能が高いのでこちらは殆ど訓練の必要が無かった。
「よし、いいだろう」
一の月の満月を二日ほど過ぎた日。その日の乗馬訓練の終わりに、テレジア伯爵が合格のサインを出した。
あと一月ほどで始まる私の六歳の誕生祝は、馬に乗って領軍を率いて華々しく村を行進するという派手なイベントから始められるという。狼竜に騎乗できるという事実はまだ伏せておきたいとの事で、ラスィウォクには今回は館で大人しい愛玩動物のふりをさせるらしい。
「ありがとうございました」
忙しい中、テレジア伯爵は本当に熱心に馬の操り方を教えてくれた。これほどに指導に時間を割いてくれたのは、私の乗馬スキルを誕生祝までに最低限使える程度に引き上げる為だ。今日で一区切り、と思えば自然と深く頭が下がった。
その、下げた頭に節くれ立った手が一瞬触れる。あ、と思って顔を上げた時には、テレジア伯爵の背中は既に離れていた。
部屋に戻るとベッド横の床でラスィウォクが寛いでいた。最近は池の傍にずっといたので気分的には珍しく思えたが、よく考えると結構な頻度で侵入されている。
「お前、また勝手に入って……ええ?」
この頭の良い獣は容易く扉を開ける事が出来るので、最早部屋にラスィウォクが居ても驚かない。だが、今日は話が違った。
何やら薄い皮のようなものがラスィウォクの傍に散乱しているのだ。
「な、なんだこれ?病気?」
ラスィウォク自体は涼しい顔をしているが、皮膚病にでも掛かっているのだろうか。すぐさま彼の滑らかな鱗肌に異常が無いか確認した。艶のある鱗には傷も無く、綺麗なもので、周囲の薄皮が無ければ病気を疑うのも馬鹿馬鹿しいくらいだ。
お手上げだったのでカミル大先生を呼んだ。こういう事はあいつに聞くのが一番早い。
「ラスィウォクが病気かもしれないっていうから来てみたら……っ!ツァーリ、これは脱皮だよ」
ツァーリのあの心配そうな顔と言ったら、なんて言いながら腹を抱えて笑いを抑えるカミルの膝裏に蹴りを入れた。不敬は許してはいるが、どうしてこいつはいつも人の苛立ちを最大限に煽ってくるのだ。蹴りを入れてもそのダメージはたかが知れているのに更に腹が立つ。
それにしても、脱皮か。蛇や蜥蜴に脱皮があるという事をすっかり忘れていた。形が狼なので、狼竜が蜥蜴と同じように脱皮するとは思いもよらなかった、という事もある。
そういえば最近白っぽくなっていた気もする。ここ数日は中庭に放ったままにしていたから、きちんと見た訳では無いが、遠目からみて違和感を感じた覚えはあった。
「大丈夫大丈夫、これはラスィウォクがちゃんと成長してる証拠だから。狼竜は体が出来上がってくると脱皮を始めるんだってさ。それにしても……聞いた話の通りなら、ラスィウォクは今の二倍以上の大きさになる筈。大規模な利用は難しそうだな……」
確かに、これ以上の大きさの肉食獣を民間で飼育するのは不可能に近い。コストに対して収益が見込めないからだ。個人が運用するには無理がある。今のラスィウォクは、私が乗っても問題ない程度には既に大きいのだ。
「本当に狼竜騎兵隊が編成されるとしても、分隊規模になるだろうな」
「それ、利用効率悪そう」
「だが狼竜が人を乗せて飛べれば、制空権を取れる」
「え、なに?何を取れるって?」
カミルが困惑した表情で首を傾げたが、聞こえなかったフリをした。制空権、という口をついて出たその響きが、自分だってよく分からない単語だったからだ。
前世の記憶もごく普通に薄れていく。最早父はいないのだから、別に構わない事なのだが、時たまこうして意味の曖昧な単語が飛び出してくる事だけは問題かもしれない。