ミューラの実験データ
「博士にお使いいただく専用のオフィスはこちらです」
フライラに案内された部屋は、それ程広くないが資料室と書斎は充実していた。だが、ミューラはオフィスをキョロキョロと見回してから、フライラに訴えた。
「実験室は何処だ? 何処にあるのだ?」
フライラは静かに答えた。
「専属の実験室はありません。全て実験指示書によって実験専門棟で専任スタッフが実験を行います」
ミューラは驚いたと同時に不満をもらした。
「それでは実験の成果が得られない。実験途中での結果を見ながら実験の変更が出来ない。これでは効率が落ちる」
フライラは軽く会釈をした。
「申し訳ありません。博士ご自身での直接実験は禁止になっています。それは上層部の意向ですし、契約書に書かれている事項ですから」
ミューラは、うぅと唸った。その様子を見て、フライラはニコリとして付け加えた。
「ただし、博士には実験をモニタする権利があります。直接実験は出来ませんが、途中結果の閲覧、検討そして実験の変更は可能です」
ミューラは、ふうと溜息をついた。
「仕方がないか」
ミューラは、書斎の椅子に座った。
「このコンピュータはネットに接続出来るかね?」
フライラはデスクの際に立って応えた。
「えぇ、もちろん」
フライラはデスクに手を付いてミューラに迫った。
「博士のデータ提供をお願いします。こちらにダウンロードしてもらったら、研究所のメインコンピュータにアップロードしてください。もちろん、これは契約書に基づいた……」
ミューラはフライラの目の前に手のひらをすっと差し出して、フライラの発言を制した。
「あぁ、解っているよ。それが条件だっていうんだろう。いちいち言わなくてもいい」
ミューラは、自分のデスクに座ってコンソールを操作し始めた。
「えーと、パスワードは……っと。……あっ、間違えた。入力し直しっと。……よし、ログインしたぞ」
ミューラの不器用なキーボード操作を微笑んで見ていたフライラの、右耳に着けたマイク付きイヤフォンから音声が聞こえてきた。
マイク付きイヤフォンにつながったトランシーバーは、フライラに内部極秘情報を伝えるためのもので、今は研究所の情報管理部門から情報が伝えられたのだった。
「ミューラのバックアップサーバーの探知完了。IDとパスも入手しました。このIDとパスから推測されるキーワードで、更に探査を開始します」
それを聞いたフライラは小さくうなずいた。
「フライラ、ダウンロードはどうやってすればいいんだい?」
フライラは、デスクのミューラ側に回ってミューラのコンソールを操作した。
「そうだ。このフォルダとこのフォルダだ。あとはプライベートだからいい」
ミューラはフライラに指示して研究所のメインコンピュータに保存させた。
「データと論文を見るかい?」
ミューラはフライラに得意気に言った。フライラはにこやかに笑って応えた。
「えぇ、是非。博士の口から直接説明してほしいですわ」
その言葉にミューラは気を良くして、フォルダを開いて展示した。そして、自分の論文の講義を始めたのだった。
「私の『宇宙工学的生命維持装置』の骨子は二つだ。一つ目は生命維持に欠かせない空気と栄養の自己補給、そして二つ目が外因的影響を排除するための放射線の防御だ」
ミューラは、それぞれ二つのフェーズを説明した。
「一つ目の『空気と栄養の補給』は、簡単に言うと葉緑体を人体にぶち込むんだ。いわゆる植物で行われている光合成と同じことを動物である人体にも持たせる訳だ。具体的なプランは、葉緑体の作用を模したナノプラントを人体の皮膚層に分布させる。一つの細胞に一個の割合でな。一個のナノプラントでその部分の人体深部の細胞まで酸素とエネルギーを行き渡るような性能を持たせてあるから、見た目の外観は緑になるという訳ではない。ここが一番苦労したところなんだがな」
ミューラは、ちょっと照れるような仕草をしてコンソールに見入った。しかし、フライラは表情を変えずに鋭い指摘をした。
「でも、博士。そのナノプラントは未完成なんでしょ?」
フライラの言葉に、ミューラはドキッとしてフライラをにらんだ。
「何を言うんだ! ちゃんと最終段階のテストに達成している。……まぁ、安全性には多少問題を含んではいるがな」
「それを『未完成』っていうんですよ、博士」
フライラがしたり顔で反応した。ミューラは不機嫌になって、コンソールの方を向いて聞こえないふりをした。
「もう一つの『放射線の防御』はどうなんですか?」
フライラは、リセットされたかようにミューラに語り掛けた。
するとミューラも、リセットされたかようにフライラの方へ急に向きを変え、にこやかに話を戻した。
「あぁ、そうだった、そうだった。こちらの『放射線の防御』はちょっとプロセスが違うんだ」
ミューラは、コンソールから身を戻して、得意げに話し始めた。
「ナノプラントを皮膚層に分布させる工程は同じだが、原理と作用と効果が違う。似非葉緑体ナノプラントは恒常的に機能しなければいけないが、似非金属蒸着化ナノプラントは随意的に働ければ十分なんだ。放射線を重金属で吸収・遮蔽するのだが、こちらは重金属を使うので、生体に対しての反応抑制が難しくて、難しくて、うん」
ミューラの言葉にフライラはまた、したり顔で応えた。
「そちらも、まだ『未完成』なんでしょ?」
フライラに同じ言葉を浴びせかけられたミューラだったが、今度は偏屈な態度を取らなかった。
「そうなんだ。機能は十分なのだが、安全性がまだまだ確保されていないんだ」
ミューラのその言葉に、フライラはちょっといらついた。
「それじゃあ、シッカリと研究してもらわないと」
ミューラは頭を抱えていた。
「あぁ、分かっているよ」
そう言って、ミューラは椅子をリクライニングさせて悩みこんだ。
その時、フライラの右耳のイヤフォンに音声が入ってきた。
「ミューラの隠しデータを探知完了。まだ三ヶ所ほどあります。南アフリカとチャイナ、そしてベネズエラです」
その報告を聞いたフライラは、ミューラの肩にそっと手を置いた。
ビクッとしたミューラは、慌ててフライラの方向を向いた。
「何だよ、フライラ。ビックリするじゃないか」
フライラの顔に笑いは無かった。
「博士、まだデータを出し惜しみしてませんか? それでは契約違反になりますけど?」
ミューラはビクビクしながらコンソールに向った。その姿を見て、フライラは付け加えた。
「三ヶ所ほどあるんでしょ? それとも四ヶ所かしら?」
ミューラはジロリとフライラを睨んだ。
「現在、データを取得中……取得終了。解析に先立ち、各データをベリファイします。……それぞれに違うデータが混在しています。引き続き解析します」
フライラの右耳には、新たな情報がどんどんともたらされていた。
「博士、とにかく誤魔化さないでください。我々はいつでも何でもお見通しなんですからね」
それなりに優しい口調だったが、フライラは少しも笑ってなかった。それ故に、強気だが小心者のミューラは怖気付いたのであった。