強引な契約
セーシェル諸島の、バード島南東の十キロメートル沖にある海中ドーム・シティの、シエラホテルの第一小会議室にテーブルが並べられ、その前に椅子が一つ置かれていた。
「ここに座って、しばらく待ってください」
フライラは、紺色のスーツにノーネクタイで小ざっぱりと身支度をしたミューラにそう伝えてから、会議室中央に置かれた、たった一つの椅子にミューラを座らせた。そして、ミューラが座った椅子の左側にフライラが直立不動の姿勢で立った。
ミューラはまんじりもせず、あたりをキョロキョロと見回していると、会議室の奥の扉が開いて幹部たちが入って来た。幹部たちの先頭はアミタブで、部屋に入るなり踵を返して扉に張り付き、四人の幹部たちをそれぞれ、テーブルの席に誘導した。最後に白髪で白い髭を蓄えた男が会議室に入ってきて、テーブルの中央、ミューラの正面の席に座った。アミタブは幹部たちが席に座り終えたのを見届け、会議室の扉を閉めてからミューラの右側に立った。
アミタブが位置に着いた途端、アミタブとフライラは同時に素早く九十度近く頭を下げて一礼をした。ミューラはそれを見て臆したのか、ミューラも軽く頭を下げた。
幹部の中央に座った白髪の男を、ミューラは見たことがあった。それは、環インド洋連合会議のテレビ中継だった。白髪の男が、その時も今のようにテーブルの中央に座っていたのを記憶していた。そして、その白髪の男は環インド洋連合の総長、アリ・ムハンマドであったことを思い出したのだった。圧倒的な財力と並々ならぬカリスマ性、そして環インド洋一の頭脳を持つといわれ、彼に逢った者は必ずひれ伏してしまうとさえ言われた男だった。
その白髪の男、アリ・ムハンマドが口を開いた。
「遠くからご足労いただき、感謝しておる。大筋は、そこに居るアミタブとフライラから聞いていることと思う。ライナス・ミューラ君、君の持っている有能な力を我々は是非、借りたいのだ。協力していただけるかな?」
ミューラは、何かの暗示に掛かったかのごとく、ひれ伏すように頭を下げて、うやうやしく言った。
「もったいないお言葉をありがとうございます。こんな私でよろしければ、及ばずながら精一杯に尽力させていただきます」
アリ・ムハンマドは、ミューラのその言葉を聞いてうなずいた。
「そうか、協力してくれるか。では、よろしく頼む」
そう言い終わると、アリ・ムハンマドは立ち上がり会議室の奥の扉から出て行った。
その様子を見ていたミューラは拍子抜けた感じがしたが、すぐに緊張感が戻った。アリ・ムハンマドの右に座っていた、環インド洋宇宙開発機構の最高指令長官のチャンドラの声が会議室の空気をピーンと張り詰めさせたからだ。
「ライナス・ミューラ博士との契約は、これで採択された。以後はこの契約に基づき、両者は契約を履行しなければならない。よろしいですな、ミューラ博士?」
ミューラはあっけに取られていた。実際のところ、ミューラはアミタブとフライラからは何も聞いてはいなかったからだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。私には何が何だか……」
ためらうミューラをよそに、チャンドラは顔色一つ変えずに話を続けた。
「大丈夫ですよ、ミューラ博士。全ては上手くいくはずだ」
チャンドラは書類に目を落とした。
「ミューラ博士、まず一番目に、あなたの身の安全は我々が完全に保証しましょう。いかなる方法の『死』をも退けることができるでしょう。もっとも、我々は博士を危険な場所へ外出させることはまずないと思いますが」
チャンドラは一瞬、ミューラの顔を見た。
「二番目に、ミューラ博士には、ご自身の論文である『宇宙工学的生命維持装置』につながる研究を私達のバックアップで継続してもらいたいということだ。その研究の成果については、スポンサーである我々『環インド洋宇宙開発機構』が占有的に、また独占的に全ての権利を有し、他への転用や応用は一切認めてはならない」
ミューラはその文言を聞いて、激しい口調で言った。
「そんなバカな。自分で考えたことなのに、自分で使えないなんてどうかしてる!」
チャンドラは、ミューラを凝視したままで言った。
「そんなことを言える立場じゃないと思いますがねぇ、ミューラ博士」
怒りで席を立とうとしたミューラをアミタブが押さえた。その時、アミタブはミューラの耳元でささやいた。
「ミューラ博士、あなたには常に黒い影が付きまとっています、特に人体実験の。人権団体や動物愛護団体からの攻撃を受けているのは周知の事実なんですから」
アミタブの耳打ちでミューラが少し大人しくなった様子を見ていたチャンドラは、一息入れてからゆっくりと話し始めた。
「もし、契約をしないというのであれば、先程の条件はご破算どころか、ここから出た途端、命の保証は無いと思ってもらった方がいい」
アミタブの腕の中で、ミューラは暴れるのを止めた。それを見てチャンドラは言い切った。
「我々は、幸いにして『証拠』を持っている訳ではないが『確証』を持っています。今すぐに国際刑事機構、もしくは国際人権擁護連盟に連絡をしたっていいんですよ、もちろん『確証』を添えてね」
ミューラはガックリと膝から落ちていった。
チャンドラは再び質問した。
「我々に協力する気はありますか? もしそうなら契約の内容はこのままでよろしいですな?」
間を置いてから、チャンドラは商売臭く問い掛けた。
「破格の条件だと思いますがねぇ」
ミューラは、大きくうなずいた。そして、その場にへたり込んでうなだれた。
「では、後で契約書にサインを」
チャンドラがそう言い終わると、チャンドラ以下四人の幹部は、アリ・ムハンマドが出て行った扉から同じように退出していった。
「博士、博士ご自身の研究が続けられるだけでも良しと思ってください」
アミタブとフライラは、ミューラを立たせて抱えるように会議室から連れ出したのだった。