お払い箱
火星の公転軌道に到達し、そして火星表面にまで到着した「アグニ号」ではあったが、ランディングは「軟着陸」ならぬ「難着陸」となってしまった。それ故に「アグニ号」は、もう離陸が出来る状態ではなくなっていた。
胴体着陸でしかも二度もバウンドしたために機体下部の損傷が激しく、左側の主翼は無残にも千切れて跡形も無くなっていた。しかし、幸いにもキャビンとコックピットには損傷がなく、更に与圧関連の機器だけは正常に働き続けていた。そして、離陸用の燃料タンクも無傷だったようで、爆発の危機は避けられた様子だった。
機体の損傷も致命的であるが、一番の損害はアストロノーツが欠員したことだった。
パイロット二名とナビゲーター一名が着陸時の衝撃で即死していたのだ。残りのアストロノーツは、アミタブとミューラ、他はミッションスペシャリストとエンジニアが一名ずつで、例え機体が正常であっても、実機でマトモに操縦訓練を受けた人間はいなくなっていたのだ。
途方に暮れていた四人だったが、エンジニアが何とか通信装置を回復させた。
「こちら、アグニ号。聞こえますか?」
エンジニアは根気強く呼び掛けて、二日目にようやく地球とのコンタクトが出来た。
「こちらはムーンベースだ。遭難の件は了解した。だが、君達を救う手立てについては、極めて困難な状況だ。すぐに火星に出発できる宇宙船を用意できないのだ。仮に宇宙船を用意できたとしても、そちらに着くのは一年以上先になるが……」
アグニ号は、長期滞在計画ではなく二週間ほどの滞在計画であったために、地球とコンタクトをすればするほど、アグニ号に残された四人は絶望的になった。
難着陸して五日が過ぎた頃、アミタブはひどい形相でミューラの胸倉を掴んでこう言い放った。
「おい! お前は宇宙服無しで、火星で生活できるんだろ?」
ミューラはたじろいだ。
「な、何を言い出すんだ、急に」
アミタブの態度は全然変わらなかった。
「お前の自慢の『宇宙工学的生命維持装置』の出番だぜ」
アミタブは不気味な笑いをミューラに浴びせた。
「俺達は生身の人間だ。この宇宙船の外では生きられない。だが、お前は違う。お前に施した『装置』は素晴らしいはずだ。さぁ、ここで、この火星で、この船の外で、実証するんだ」
アミタブは、ミューラをエアロックに追い詰め始めた。
「お前が居なくなれば、お前の分の酸素と食料が増える。少しは貢献してくれよ、この俺様に」
アミタブは、強烈な目付きでミューラを睨んだ。
「もう、お前の監視はもうお終いだ! いつまでもここに居るんじゃねぇ! さっさと船から出て行け!」
ミューラがそのままの格好でエアロックに入ろうとしたところで、アミダブが制止した。
「おっと、待て。殺したと疑われるのは心外だからな。宇宙服くらいは着て行ってもいいぜ、冥土の土産にな。もちろん、酸素の量は最低限だがな、イヒヒヒ……」
アミタブはニヤニヤと笑っていた。
それでもミューラは逆らわなかった。それはアミタブが今まで自分にしてくれたことに対する敬意でもあったが、ミューラの本心は違うところに移りつつあった。
ミューラは、そそくさと宇宙服を着てからエアロックに足を踏み入れた。
「苦しくなったら、宇宙服を脱ぎな。火星の空気は美味しいかもしれねぇぞ。フフフ……あばよ」
アミタブは捨てゼリフを言うと、ミューラの私物が入ったバッグをエアロックに投げ入れ、ハッチをガッチリと閉ざした。
ミューラは未練もそこそこにアグニ号を振り返ることもなく、私物のバッグを持ってトボトボと火星の地表を歩き出した。
ふと、足元を見ると火星地表面に不思議な図形が描かれていた。二本の平行線がずっと続いていた。時々円を描いて、平行線がその円から放射状に延びていた。ミューラは、その図形を辿ってみることにした。
しばらく辿ると、その図形はスワンの形をした何かの塊のところで終わっていた。近寄ってよく見ると、金属の塊だった。車輪が付いていて、片側の車輪は外れて近くに転がっていた。スワンの羽のような部分は太陽電池で、首だと思っていたところはカメラだった。
「これは、ひょっとして『オポチュニティ』か?」
ミューラはいとおしく、その金属の塊を撫でた。
「そうか、お前もお払い箱になったんだったな。私と同じように」
ミューラは、寄り添うようにオポチュニティの脇に座り込んだ。
ただでさえ赤い空を更に真っ赤に燃やした火星での夕陽を見たミューラは、薄暗くなってもまだオポチュニティの脇に居て、くたびれたTシャツように佇んでいた、その時だった。
アグニ号の方角から爆音のような大気の振動が、ミューラの宇宙服に届いたのだ。
ミューラは急いでその方向を見ると、アグニ号が爆発炎上していた。
おそらく、燃料タンクが誘爆したのだろう。アミタブの態度から、何が起こったかは想像に難くなかったミューラだった。
「アミタブのヤツ、拳銃を隠し持っていたからな……」
アグニ号が爆発炎上してから火星時間で三日ほどの間ずっと、ミューラはオポチュニティの脇でボンヤリと佇んでいた。
だが、その日の明け方のミューラの顔はキリリと引き締まっていた。
ミューラは、自分の私物が入ったバッグの中から小ビンを三つ取り出して、繁々と眺めた。
「私は、次のミッションに進まなければならないのだ」
そう呟いてから、ミューラは宇宙服のヘルメットの留め金に、そっと手を掛けた。
地球では、忽然と音信不通となったアグニ号に対して、世界中のあらゆるメディアが大騒ぎをした。しかし、メディアが無責任に騒いだだけで、地球側からアグニ号に対して救いの手を差し伸べることなど出来るはずもなく、只ひたすらにアグニ号を静観することしか出来なかったのであった。
その後、地球ではいろいろな憶測が取り沙汰されたのだが、最終的には「アグニ号の電源の寿命が尽きて、そのために音信不通になった」と結論付けられた。
七名のアストロノーツ全員の消息は絶望視され、音信不通になった一年半後、ちょうど月に帰還する予定だった日に宇宙葬が執り行われたのであった。