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ほとんど拉致

 その男は、バーのドアを静かに開けた。

 そこは、ベネズエラのカラボボ州にある港町プエルトカベジョの、歓楽街の片隅にある小さなショットバーだった。

 ドアを開けた時に鳴る音で、バーのマダムは反射的にあいさつをした。

「いらっしゃい」

 その声にビクついた男は、目深に被った帽子を取った。全く手入れがされていない長髪で顔の半分は隠れていた。そこから見える顔は、頬がこけて尖った顎が印象的だった。だが、細くて鋭い眼光がボサボサの髪の間からチラチラと見え隠れした。

 元は白かっただろう黄ばんだワイシャツに、元は濃紺だっただろう黒く汚れたネクタイ、元は黒のスーツだったのだろうが、今はもうヨレヨレで、埃で汚れて灰色になっていた。男の手足は細かったが、おそらく栄養失調か飲酒のためだろう、腹が少々膨れていた。

 男は、用心深く後ろを振り返り、辺りをキョロキョロと見回しながら、カウンターの一番奥の席に着いた。

 バーのマダムに驚いた様子はなかった。いつもの、訳の分からない客だと思っただけで、マダムの関心事は「ちゃんとお金を払ってもらえるか」ということだけだった。くたびれてドレープが無くなった赤いドレスを着たマダムは、アンニュイな声で男に話し掛けた。

「何にする?」

 伏せ目がちな男は、一瞬マダムの方を見た。

「バーボン。ワンフィンガー」

 マダムは返事もしないで振り向き、酒棚からラベルに四つのバラが印刷されているボトルを取り出し、ワンフィンガーという注文にも係わらずショットグラスに並々と注いだ。そして、男の前に無言で差し出した。

 男は、それを一気に飲み干した。だが、バーボンの量が多かったためだろう、男はゲホゲホとむせていた。

 バーのマダムは、むせている男の顔をじっと眺めていた。そして、マダムの頭の中で何かが閃いた。マダムはカウンターに肘を着き、タバコを吸いながら男に話し掛けた。

「あなた、どこかで見たことがあるわ」

 マダムはタバコの煙を吐き出した。

「そうよ、テレビのニュースで見たのよ」

 そして、タバコの灰を灰皿にトントンと落とした。

「何でもすごい発見をして、宇宙へ簡単に行けるらしいって」

 マダムはタバコの火を消して、男の顔を覗き込んで言った。

「でも、殺されそうになったって話だったわ」

 マダムは声を落として、男にささやいた。

「あんた、大丈夫?」

 その時、男は只ならぬ気配を感じて、ショットグラスから手を離してカウンターの椅子をスルリと抜け、トイレに駆け込んだ。

 それと同時に、黒いサングラスを掛け、黒尽くめのスーツに身を包んだ若い男と女が、バーのドアを勢いよく開けた。若い男は周りを物色しながらカウンターの方へ、若い女はマダムに真っ直ぐに向っていった。若い女はマダムに顔を近づけて、ある男のことを丁寧な言葉で尋ねた。

「ヨレヨレの黒っぽいスーツを着た、ボサボサ頭の男を知りませんか?」

 だが、マダムは紆余曲折、修羅場を抜けてきた酒場の主である。全てを心得ているように言った。

「さぁ。どうだったかしら」

 若い女もその程度は想定済みのようだった。すると、若い男の方が、若い女の肩を叩いて奥を指差した。若い男と若い女は店の奥へ駆け寄り、扉をドンドンと叩いた。

「出て来てください」

 若い女は呼びかけたが、若い男がドアを叩く音でかき消されていた。

「ちょっと、アンタたち! トイレのドアを壊さないでおくれよ!」

 マダムはカウンター越しに大声で怒鳴っていた。

 トイレのドアはヒンジが半分壊れかけていたらしく、若い男が力ずくでドアを揺すると、簡単にドアは外れてしまった。トイレの中では、ヨレヨレの男がトイレの狭い窓から抜け出そうとして、大騒ぎをしていた。だが、少々膨らんだ腹部が窓枠に引っ掛かって外に出られずにもがき苦しんでいた。

「助けてくれー。私は死にたくない。だ、誰かー。誰か、助けてくれぇー」

 若い男は、大声で騒ぎながらもがき苦しんでいる男の両足をつかむと一気に引っ張った。すると、男は傾れ落ちるように体制を崩し、その弾みで便器でしこたま頭を打ったようで、そのまま気絶して動かなくなった。

「ちょうど良かった。大した騒ぎにならなくて済む」

 若い男はそう言って、気絶した男を肩に担いだ。

「もう十分、騒ぎになっているわよ」

 若い女は、呆れたように言い放った。

 気絶した男を担いだ若い男は、スタスタと突き進んで、バーのドアを勢いよく開けて出て行った。若い女は若い男の後を歩き、カウンターの前で足を止めた。そして、カウンター越しのマダムにそっと札束を手渡した後、マダムにこう言った。

「ごめんなさいね、ご迷惑をお掛けして」

 受け取った札束を早々に数えていたマダムは若い女の方を向いて、とびきりの営業スマイルで答えた。

「あ、あ、あぁ、いい、いいのよ。大丈夫よ、えぇ。大したことなくってよ。……これだけもらえれば」

 それを見た若い女は、左側の唇だけでさげすむようなニヒルな笑いをマダムに向けた。そして、すぐに踵を返して、若い男が開け放したままのバーのドアから出て行った。

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