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追放された貴族令嬢の三日間サバイバル生活

掲載日:2026/04/29

「ブリジット・ローゼンタール!ベアトリス嬢へ向けられた悪意と悪行、もはや見過ごす訳にはいかぬ!君を辺境地へ追放する!生きるだけで辛い日々の中で悔やみ続けるがいい!」


 異世界の王都、セント・レガリスの城内。ヘンリー第三王子の怒号が、若い男女が集う城内のホールに響き渡る。身に覚えが全く無いブリジットは、狼狽することしか出来なかった。


 だが貴族社会において、火のない所に煙を立てる事は、さほど珍しいことでは無い。それはブリジット自身もしてきた事だった。ただ自分の番が回ってくることに対して、想像力が働いてなかっただけである。


「そんな、急に何を言い出しますの!?や、やめて!離して!」


 一方的な叱責、ベアトリス嬢の勝ち誇った笑み、そして周りの蔑むような目と衛兵による拘束が、ブリジットの高潔な精神と高いプライドを傷付けた。


 数日後。責任回避のために親からも見捨てられた彼女は、無口で愛想のない従者カインと共に、辺境の廃村へと至った。


「こんなところで暮らせと言うの……?」


 ブリジットの声が絶望で震える。まだ18歳の乙女である。ヘンリー王子の婚約者として厳しい貴族教育を受け続け、遊びたい盛りの時期でさえも自分を律してきた。その最期を、ここで迎えろというのか。それが王子と親が望んだ末路だと?


「……終わりですわね。こんな何も無い土地で、醜く生にしがみつくくらいなら、せめて潔く自らの手で幕引きを」


 護身用として与えられたナイフが、護るべき対象の喉へ突き立てられる寸前。


 従者の手が、ブリジットの手を握り締めていた。


「……無礼者。その手を離しなさい」


 無口な従者の手は動かない。何も語らず、説得もしない。ただ自決する手を止めている。


「どうして止めますの?私が死ねば、貴方はもう自由の身なのよ。こんな意地悪なご主人様の事なんて忘れて、さっさと何処へでも行きなさい」


 傲慢不遜な態度で従者を見下すが、目の前で光る刃先と動かせない両手が、絶望によって固められていたはずの決意を、ほんの僅かだが揺らした。


 ……その揺らぎは彼女自身の手にも伝染し、喉へ突き立てるだけの力を奪った。


「……わかりました。そんなに私を止めたいのでしたら、三日間だけ時間を差し上げます。三日間で、私が生きたいと思える希望を、僅かでも与えてご覧なさい」


 傲岸不遜な態度で、従者を見下しながら突き放す。見捨てられても当然の酷い態度だったが、それすらも彼女にとっては必要なことだった。


 しかし彼は手を離すと、村長宅だったと思しき廃屋を簡単に掃除し始め、彼女の私物や家具を次々と運び入れていく。愚痴どころか溜息の一つさえ出さずに、汲んできた井戸水を暖炉で沸かし、紅茶すら淹れてみせた。


「……悪くない味よ」


 この評価こそが彼女の限界を示している。味を否定して地面に撒けば、従者の心をへし折り、より遠くへ突き放せたかもしれないのに、それが出来ない。それをしてしまえば、貴族令嬢としての自分を否定することになるから。


 それでも生きていれば腹は減る。ぐぅと鳴った腹の音を聞くのは、ここでは寡黙な従者だけだった。


「……自決する前に飢え死にかしらね」


 そう自嘲する彼女の前で、従者が動いた。彼は適当な木の枝を拾い上げると、小枝を折りはじめた。文字通りの手製だが、一本の竿に見えなくも無い。


「……釣竿でも作るつもり?でも針も糸もありませんわよ」


 彼は周辺で群生する植物の中からある植物を抜き取ると、その茎を水でふやかしてから丸い石で叩き、中の繊維を抜き出していく。繊維状のそれは意外なほど強度があり、数本を捻じりながら繋げていくと、そこそこ頑丈な糸へと化けていった。


 イラクサと呼ばれる植物に似たそれは、本来なら数日掛けて下処理を行い、綺麗な糸へと仕上げていくものだ。だが限られた環境で釣りをするだけなら、これだけでも十分な強度を持つ。


「まあ…!何も無いところから糸を作りましたの?貴方、ずいぶんと器用ですのね。まるで昔から知っていたかのよう」


 従者の手がピタリと止まったが、またすぐに動き出す。迷いなく手製の釣り竿へ糸を結ぶと、裁縫箱から針を取り出した。


「何かしら。……まさか、裁縫針で釣り糸を作るつもりですの?」


 従者は頷くと、何本かある内の一本を取り出し、許可を得るように差し出した。無口で無愛想だが、奇妙なところで律儀なものだと、呆れながらも首肯する。


「構いませんわ、好きに使いなさいな。どうせあっても、3日後には必要なくなっているかもしれないのですから」


 許可を得た彼は、暖炉の火で針を炙ってから、慎重に曲げていった。よく知る釣り針の形が出来上がると、乾いた小枝と一緒に糸へ結ぶ。あっという間に、釣りざおが完成していた。


「驚いたわ…本当に何も無いところから作りましたわね」


 興味深そうに釣竿を握る彼女の目が、僅かな好奇心で揺れている。少し振ってみるが、枝は意外と頑丈だし、糸もしっかりしたものだ。これなら本当に、魚が釣れるのではないか?


「……試しますか?」


「きゃあっ!?」


 初めて従者が口を開いた。まさか口を聞けるとは思わなかった彼女の心臓が、驚きのあまりドキドキと鳴っている。


 だが、彼の手で出来上がった釣りざおが、役に立つのか試してみたい気持ちもある。


「生き餌ですが」


 要するに虫である。気持ち悪さを覚えたものの、この辺境で釣りが出来るという希望の方が勝った。


「……わ、分かってますわ。川へ行きましょう」


 辺境に似つかわしくないほど麗しき乙女と、寡黙過ぎる従者という奇妙な二人組が、森を歩く。少し歩いた先に、大きな川が流れていた。


 従者が黙々と河原の石をひっくり返し、生き餌を拾い上げる。釣り針に刺さった虫は、まだ生きていた。


「……ありがとう」


 誤魔化すように、或いは何かに祈るように呟き、川へ向けて釣竿を振った。その釣竿を、従者が片手で支える。


「浮きが沈んだら、引いてください」


「わ、分かっ……」


 "分かっている"とは言えなかった。知識としてはある。ただ実際に川へ釣糸を垂らすと、釣糸が常に水に引っ張られる。浮きが沈んでるのかどうかさえ、よく分からない。分かるのは、この従者を頼るしかないということだけ。


「今です」


 従者の手が、くいっと釣竿を引いた。慌てた彼女も力いっぱい釣竿を引き上げる。釣り針の先には、鮎に似た川魚が掛かっていた。


「つ、釣れましたわ!?ほ、ほんとうに!?」


 廃屋から持ってきていた木桶の中に、従者が魚を泳がせる。魚が元気に泳ぐ姿を見た、ブリジットの目が滲んだ。


 従者が生き餌を取り付け、自らも竿を振る。程なくして、二匹目の魚が釣り上がった。流石に釣竿を自作するだけあり、彼の所作は慣れたものだ。


「……もう一匹、釣ってもいいかしら」


 その手の中には、生き餌となる虫がいた。


 ーーその夜。


「……」


 木桶の中に、四匹の魚が泳いでいる。死のうとしていた自分が、生きた虫を餌にして魚を釣った……その現実を、今になって考えさせられている。自分は果たして、魚の餌となった虫以上に、生きる意味のある人間なのだろうか?


「……それで、どう調理しますの?スキレットが見当たりませんけども」


 従者は何も語らない。暖炉に薪を投げ込むと、木の棒を串代わりにして魚へ突き刺し、暖炉に突き立てて焼き始めた。


「野蛮ですわね」


「釣りたてはこれが一番美味いんです」


「…っ!そうやって急にしゃべるの、びっくりするからやめてくれます?普段からもう少し、しゃべったらいいでしょうに」


「……話すのが苦手なもので」


 二匹目の魚に串を通していく。木の枝でよくも綺麗に刺せるものだと、内心で舌を巻いた。


「私にもやらせて。自分で釣った魚くらい、自分でやりますわ」


 手に取ったのは少し大きめな、最初に釣った魚だった。


「……どこから刺しますの?」


「口か、目です」


「目ですって?」


 魚とつい目が合ってしまう。何故か少し気まずくなり、口からゆっくり、力を込めて串を差し込んでいった。若干手が震えているが、それを責めていいのは、今まさに串を差し込まれている魚だけだろう。


「で、で、出来ましたわ!これを暖炉にさせばいいのね?」


「お上手です。少し離して、じっくりと焼いてください」


 パチパチと薪から眠気を誘う音が鳴ると同時に、魚から食欲をそそる匂いが香ってくる。一日を乗り切ったという実感が、疲労とともに襲いかかってきた。


「……なんだか、嘘みたいな一日ですわ。追放されて、廃村へ追いやられたと思ったら、自分で魚を釣って調理している。昨日とは違い過ぎて…付いていけませんわね」


「ですが、生きています」


 従者の返答は、今の彼女にとってはやや不快だったかもしれない。


「ええ、()()()()()()()()()()の。自決を中止させた、貴方のために。期限が来るまでの辛抱ですわ」


 しばらく、薪が割れる音と、魚が焼ける音だけが流れた。


「……城で何があったのか、聞きませんのね」


 聞かれたところで、答えようとも思っていない。それでも、一切何も聞かずに世話を続ける、この従者の考えがわからなかった。


 その従者が、焼き魚を差し出してきた。


「どうぞ、お嬢様が釣ったものです。直接齧り付いてお召し上がりください」


「味付けしませんの?」


「塩をお好みで振ってください」


「塩だけ……?」


 ケチをつけてはみたものの、目の前の焼き魚の魅力には抗えなかった。塩をひとつまみしてから、一口齧る。


「!?」


 薪で焼かれた魚からは、ほんの少しだけ木の香りがした。それが自分の手で焼いた実感へと結び付き、彼女は夢中になって魚を食べ始める。従者が塩しか渡さなかった理由が、すぐに分かった。この豊潤な香りと豊かな風味に対し、塩以外のアクセントは無粋なのだ。


「……とても美味しいわ。素朴なのに、こんな温かくて、香り高くて……」


 城や屋敷では、素晴らしい技術で作り上げたであろう、冷めた料理しか出て来ない。焼き立ての温かい料理が喉を通り、胃袋を温めていく感覚を、彼女は初めて味わっていた。


 2匹目は、先ほどよりも少しだけ上品さを意識した。それを見ているのは目の前で魚を齧る従者と、目を貫かれそうになった焼き魚だけだったが。


 腹が満たされれば、少しずつ思考も回るようになる。いよいよ当然の疑問へ向き合う気力が湧いた。


「……貴方、何が目的ですの?」


 食べ終わったブリジットが腕を組み、従者を睨みつける。元々寡黙で、何を考えてるか分からない男だったが、今日は特に顕著である。少なくとも、主人である彼女の手に直接触れるなど、これまでの彼からは考えられない暴挙だった。


 その従者は何も答えず、薪を暖炉へ投げ込んでいる。


「魚釣りと調理を通じて、生きる喜びを与えようとしてますの?だとしたら、貴方は私の絶望を軽視し過ぎですわ。……確かに、釣りも、初めての調理も楽しかったですわよ。でも、それだけでは自決を止める決め手にはーー」


「俺に自決を止める力なんてありません」


 パチパチと薪が鳴る。


「ただ、生きているだけです」


「……私抜きで生きれば良いではありませんか。貴方にはその能力がある。それに私の自決を止められないなら、なぜ三日間の猶予を受け入れたの?三日後に全て無駄になるではありませんか」


 木々のざわめきと共に、隙間風が鳴る。どうやらどこかの窓ががたついているらしい。


「こんな……こんな、何も無い土地で、家も親も婚約者も……全てを失った私に何を教えようとしてますの?私に何が出来ると?貴族としての生き方しか知らない私に、何を期待しても無駄ですわ!!」


 従者は表情を一切変えないまま、薪を片手にブリジットへ手を伸ばした。


「ナイフを貸してください」


「ナイフですって?まさか説得が上手くいかないから、ナイフを取り上げて自決を防ごうとでも?結局最後は力尽くですのね」


 心にもない言葉が出た。この寡黙にして、よく弁えている従者が、そんなことを考えているはずがない。そんなことは、この半日で十分理解しているはずなのに。


 言ってから後悔したが、一度吐き出した言葉を取り消す愚は犯せない。彼女は長年の貴族生活により、言葉が持つ責任と重さを理解している。普段の彼女からは考えられない失態だった。


 しかし従者は何も答えない。何も聞こえなかったかのように、ただ手を伸ばしている。


「……はあ」


 内心で感謝しながら、ため息を吐いた。このため息は、貴族にとって土下座にも等しい価値を持つ。


「せめて理由をご説明なさい」


「工作に使います」


 ナイフを受け取った従者の手が、薪を巧みに削り、何かを象っていく。その速さに、つい見惚れてしまった。


「お嬢様は今日、魚を2匹釣りました。釣った魚に下処理をし、調理をして、お腹いっぱいになるまで召し上がりました。……生きるには十分な成果です」


 薪が動物を象っていく。あれは、耳だろうか?彼には似つかわしくないほど、随分と可愛らしい出来である。


 彼は余った薪のかけらを暖炉へ放り込み、木彫りのウサギを、ナイフと共に手渡してきた。


「お嬢様の言う通り、ここには何もありません。城のような装飾も、宝石も、最高級のディナーも、優雅なダンスも……お嬢様を見下し、捨てた貴族達でさえも、何もかもです」


 パチパチと鳴る音が、眠気とは別の穏やかさをもたらす。


「それでも生きていけるのです。今日のお嬢様のように」


「……今日の私のようにですって?」


 ウサギの人形を撫でる。ナイフだけで作ったとは思えない、滑らかな手触りだった。


「私に生きる価値があるとでも?」


 従者は、質問に答えない。答えれば、それが重荷になると知っているかのようだ。


 従者が急に立ち上がり、外へ歩き出した。どうやら薪が減ってきたので、追加で割るつもりらしい。付いていく義理も意味も無いのに、ブリジットの足が自然と動いた。


 薪割り斧を手に、手際よく薪を割る従者。ふと、空の明るさに気付いた。


「……まあ、なんて星空!」


 空を埋め尽くさんばかりの星々だった。王城から見えていた空は、こんなにも輝いていなかったはずだ。王城自身が輝いていたせいで、見えなくなっていたのだろうか。いや、そもそも最後に空を見上げたのは、いつだったか。


「綺麗だわ……」


「昨日と同じ星空です」


 従者が薪を割っている。


「誰かが死んでも、どこかで生まれても、変わらずに空で輝き続けている。三日後に、貴方が亡くなられた後も」


 従者が新たな薪を運びこみ、暖炉へ放り投げていく。夜に外へ出たのは、星空を見せたかったからではなく、生活に必要なことをしているに過ぎないのだ。


 だが、ブリジットにとっては。


「……私の追放も、あの星々にとってはちっぽけなこと……?」


「ですが貴方にとっては違う」


 その声に温かさは無い。この家にある温もりは、今は暖炉の炎だけがもたらしている。


「城で何があったか知っているの?」


「存じ上げません」


「……?」


「ですが、ちっぽけなことで死を選ぶ方ではない。私が知っているのは、それだけです」


「ならば、何故」


 ……何故、貴方は私を?


「……」


 従者の手が止まった。


「……二人目なのです」


「二人目?」


「一人目の主人は、まだ少女と呼ぶべき年齢でした。両親が急死し、突如当主を任され、過大な責任に押し潰された彼女は、満天の星空の下で首を吊りました」


「!?」


「俺が降ろしました。まだ温もりの残る小さくて軽い体を、従者だった俺が」


 パチパチと薪が鳴く。


「あの日と同じで、勝手に体が動いただけなのです。貴方を止める力が、俺にあるわけがないのに」


「……」


「ですが今回は、三日後までお時間を頂けました」


 木彫りのウサギが暖炉の火に照らされて、彼女の手の中で温められている。


「……十分です」


「勝手ですわね……そんな理由で、私の邪魔をしたの?」


「はい」


「……そう」


 二人目の主人が立ち上がった。


「今日はもう寝ますわ。差し上げた時間、無駄になさらないで」


「はい」


 従者はどこまでも無口である。その失礼な態度に、幼い頃は煮え切らない苛立ちを覚えていたはずなのだが。


 何もかもを失った今は、どこか居心地の良さすら感じていた。


「おやすみなさい」


「はい、お嬢様」


 従者は暖炉から離れない。他に火を守れる人間がいないからだった。


 ……二日目の朝。


 粗末なベッドから起き上がった彼女が最初に目にしたのは、木々の隙間から覗く太陽の光。次に、暖炉の前で毛布に包まる従者だった。


「おはようございます、お嬢様」


「まさか、一日中そこで火の番をしてましたの?」


「必要なことですから。あと二日間、よろしくお願いします」


 こともなげにそう言う彼の目に、疲労の色はない。生きるために必要な事を、ただ繰り返しているだけなのだ。


「ええ、よろしく。それで、今日のスケジュールは」


 そこまで言いかけて、思わず失笑した。……何のスケジュールですって?ここは城ではありませんのに。


「……なんでもないわ。今日は何をしますの?また釣りをするつもりかしら?」


「それも良いですが、そろそろ肉の調達も始めようと思います。山菜も調達すれば、もう少し食事を豊かに出来るでしょう」


「肉と言っても……ここには狩りをする弓すらありませんわよ。まさか、今から弓を作るつもり?」


「作れなくはありませんが、今回は山菜も採りたいので罠を張ります」


「作れなくはないのですね……」


 肉を取れるどころか、取り方に選択肢があるだけでも、彼女からすれば驚きだった。


「貴方、本当に何者ですの?色んな従者が屋敷にはいましたけど、貴方ほど生存(サバイバル)戦略を持ってる方は、他にいないと思いますわ」


「買い被りですよ」


 従者の動きは早い。昨日糸を作るのに使ったイラクサもどきを、今度は茎ごと編んで紐を作り始めている。糸よりも太く、見るからに丈夫そうだ。


「どれも生活の知恵に過ぎません」


「生活の知恵、ねぇ」


「俺からすれば、お嬢様の方がすごい。俺ならあの城では三日間も生きていられません」


 思わず苦笑した。この男も冗談を言うとは。


 ……いや、本気なのかもしれない。彼の目は笑っていなかった。そこがまた奇妙ではあったが。


「その通りですわね。貴方のように無口で無愛想な人間に、城での生活は向いてませんわ。あそこにあるのは、常に政治。国の安寧のため如何に税を使い、集めるか……そのために誰を味方につけて、利用し、蹴落とすか。そんなことを考える毎日ですから」


「魚を釣る方が簡単そうに思えます」


「ええ、簡単ですわ」


 即答した自分自身に、彼女は驚いていた。慣れきった貴族生活よりも、今の極貧生活の方が楽だと感じている自分がいる。昨日の昼過ぎまで、腰のナイフで首を切ろうとしていたのに。


「……その紐作り、私にも教えてくださる?罠に使うのよね?」


「はい」


「糸の作り方も、いいかしら。今日じゃなくてもいいから」


「はい」


 従者と二人で、黙々と紐を作りながら時間が過ぎていく。城では夜会の準備に向けて、忙しくしている頃だろう。どの貴族と接触し、陰謀を巡らせるか。そんなことを皆考えている時間だ。昨日までの彼女が、そうだったように。


「お上手です。この紐を後2つ作ります。少し大変かもしれませんが、ここで頑張れば、明日にはお肉が手に入ります」


「本当なの?」


「ええ」


 陰謀の成果ではなく、明日のお肉を期待する朝。今日を生きること以外に、他に何も考えなくてもいい。そんな朝を迎えたことなど、少なくとも10年は迎えてこなかった。


 城では味わったことの無い苦労と苦難が待つはずなのに、不安を感じないのは死を約束しているからか、それとも。


「早いですわね。もう3本目に取り掛かってますの?」


「慣れているので」


「え、お屋敷で紐作りを?」


「いえ、幼少の頃です」


 どんな幼少期かと思いながら、それ以上の詮索は避けた。これ以上彼を知れば、未練が残る気がしたから。


「さあ、これで3本の長い紐が出来ました。罠を仕掛けに行きましょう」


 彼はそう言うと、ブリジットを連れて森へ入っていく。そこでしなやかな若木を見つけると、若木の天頂部分に紐を縛り、地面まで引っ張り下ろしてきた。そして紐の真ん中に輪を作ると、若木の根元に仕掛けを設置した。


 動物が仕掛けに触れると、若木のしなりで跳ね上がって輪が締まり、天頂まで吊るされる仕組みだ。


「お嬢様、残り2つ分の輪を作ってください」


「わ、わかりましたわ。……ちなみに何がかかりますの?」


「ウサギが多いですね。極稀に小さな猪がかかることがあります」


 昨日もらった木彫りのウサギが、熱を持った気がした。


 従者に習いながら、小動物を仕留める死の輪を作る。今まで食べてきた肉や魚だって、同じ命だったはずだ。なのに自分の手で殺すことに、今更になって手が震えるほど恐怖するとは。


 それでも途中でやめたりはしなかった。昨日の魚だって、死にたかったはずがない。命を頂く行為の意味を、二日目にしてようやく理解した気がした。


「仕掛けに獲物がかかるまで、山菜を採りながら待ちましょう。夕方までにかからなければ、釣りですね」


「……ええ」


 従者は山菜にも詳しかった。何が食べられて、何が毒か、その全てを把握しているかのようだ。


「まさか。私が知るのは、一部だけです」


 そう言って手際よく山菜を採りつつ、彼女へ生きる知恵を授けていく。二日後には無駄になると知りながら、従者は知識を共有していった。


「どうして昨日は山菜を採らなかったの?」


「明るいうちでないと、森の中は危険なのです」


 果たしてそうだろうか。昨日ここへ到着した時も、同じ高さに太陽はなかったか。……思い出すことは出来なかった。昨日はずっと、下を向いていたから。


「……運が良いですね」


「え?」


 従者が、若木の天頂を指差した。それはつい先程罠を仕掛けていた若木である。貴重なタンパク源となる、ウサギが掛かっていた。


「……あれ、死んでいるの?」


「ええ。生きた肉は食えません」


 さも当たり前のように答える。だが、事実だった。


「早速、血抜きをします。……家の中で待っていてください」


「いえ、見るわ。やり方を教えて頂戴」


 その手がブルブルと震えている。


「今日を生きるために殺したのよ。私には見る義務があるでしょ」


「……分かりました」


 その日の夕食は、ウサギ肉の香草焼きだった。スキレットは無かったので、平石を火で炙って代用している。もちろん美味ではあったのだが、咀嚼するたびにウサギの死に顔が目に浮かんだ。こんなことは18年間生きてきて、初めてだった。


「こういうことなのね、生きるって」


 フォークとナイフをテーブルに置く。まだ、ウサギ肉は残っている。


「私、何もわかって無かったわ。水を飲むために井戸水を汲み上げるのも、生きていた肉を処理するのも、調理することでさえ、常に誰かがやってくれていたから」


「それが普通です」


 仕留めたウサギを捌き、調理した本人の言葉である。


「街に住む人々の大半は、血抜きなんて経験しません。食肉となる前に、家畜をどう屠殺し、どう血抜きし、捌いているか……そんなことを意識する人の方が稀です」


「でも、私は……」


「お嬢様」


 何かを悔やむ様子の彼女に、従者は優しくなかった。


「俺はただ、貴方に美味しい肉料理を食べて頂きたかっただけです。悔やむことなく、お召し上がりください」


「……!?」


「それが難しければ、どうぞこれまでの事はお忘れください。血抜きを学ばずとも、人は生きて行けます」


「ふざけないで!!」


 貴族令嬢が、従者の胸ぐらを掴んだ。


「人の自決を邪魔して、今日まで生き方を教えておきながら、今になって忘れろですって!?無責任なことを言わないで頂戴!だったらどうして、貴方は私に希望を与えたの!?貴族生活に無かった穏やかさを、何も無いところに文化を生み出せることも、どうして今になって!!」


 それでも従者は動じなかった。


「貴方が私に与えたから、私は……!!」


「俺が与えたものは、木彫りの人形だけです。それ以外のものは、お嬢様が自ら望んで得たものばかりです」


「……っ!!?」


 貴族令嬢の目には、耐えきれない一言だった。


「俺に自決を止める力はありません。俺は今度こそ、悔いのないようにしたいだけです」


 従者の手は温かかった。それはつまり、彼の心が些かも乱れていないことを意味する。彼にとってブリジットの錯乱は、その程度の価値しか持たない。


「貴方の墓を、穏やかな気持ちで護りたい。それだけです」


 それが答えだった。


「そんなことの、ために……!?」


 人の温もりが、安らぎを与えるばかりではないことを、ブリジットは初めて学んでいた。この辺境の地には、確かに城にはなかった温もりと自由がある。だが、無条件に与えられるものではなかった。


「……お願い。ひと言でいいの。ただ私にひと言、"死なないで"って、言って頂戴」


 従者は答えない。意味の無い事に興味を示す男ではない。


「言ってよ!!私に、生きてても良いって、そのひと言さえあれば、私は!!」


「俺の女になれば、生きていけると?無理です。俺はお嬢様が生きる理由にはなれません」


 ギクリと、心臓が震えた。


「俺はもう齢三十を超えています。どうあっても貴方よりも先に逝く。それに」


 令嬢の手が、そっとはずされた。


「事故、病気……自決。俺がもっと早くに逝く可能性は、幾らでもあります」


「嘘よ、貴方が自決するはずが無いわ!!」


「……"            "?」


「……ッ!!?」


 鈍器で頭を殴られたかのように、ブリジットがふらつき、音を立てて着席した。


「…………そう。私はあの日、そんなにも貴方を深く傷付けたのね」


 従者は黙したまま、薪を暖炉に投げ入れている。


「……許してほしいなんて、とても言えない。私だったら、許せないわ。……それでも、私に付き合ってくれているというの?気まぐれに与えた三日間を、私なんかのために」


 だが彼は、そこだけは否定した。


「過大評価です。俺は自分がしたいようにしているだけに過ぎません」


 木彫りの人形が、暖炉の炎に照らされている。ブリジットの中で、何かが定まった。


「……結論が出ましたわ。二日後に自決するか、否かの」


 最早何があったとしても、その結論は揺るがないだろう。二日目にして、彼女の運命は決してしまったのだ。


「明後日の夜、貴方に明かします。だから……明日と明後日も、貴方の傍で見させて欲しいの。貴方の生き方と、貴方から見た私の生き様を」


「面白いものではありませんよ」


「構いませんわ」


 冷めたウサギ肉を、口へ運ぶ。既に硬くなってしまっていたが、構わず完食する。食べ切れなかった命を捨てることなど、もはや考えられなかった。


「生きることが愉快なことばかりではないと、もう十分に思い知ってますから」


「……ふっ、ふふ」


 初めて従者が笑った。


「素晴らしい説得力です。しかしお嬢様、今の貴方は、今まで見てきた中で一番愉快ですよ」


「無礼者。無理心中しますわよ」


「失礼しました」


 自決を邪魔された者と、自決を受け入れる者。


 二人の今の生活が終わるまで、残り二日である。


 ……三日目の朝。変化はより明白だった。


「ねえ、魚の香草焼きを食べてみたいわ」


「承知しました、では――」


「いえ、釣るのも焼くのも、私がやります」


 ブリジットの目には、限られた時間を生き抜こうとする決意があった。従者はそれを眩しいものでも見るかのように……あるいは痛みに耐えるかのように、目を細めた。


「わかりました。では山菜と香草は、俺が用意します」


「頼むわね。私はなるべく、たくさん釣ってくるわ。そうすれば明日は楽ができるでしょう」


「はい、お嬢様」


 この地で初めて行う分担作業である。かつて彼女に任せられていたのは政治だったが、今は主菜の調達を任されている。その落差に、もう彼女は目眩を覚えたりはしなかった。


 夕刻。宣言通り明日の分の魚も釣ってきたブリジットは、従者の成果に目を剥いた。明らかに山菜以外のものを持ち帰っている。


「あの罠に猪が掛かってましたの!?」


「はい。子供ですが、中々の大きさですね。燻して干せば、数日は食い繋げるでしょう」


「なら今日は猪肉になさる?魚は餌を与えて泳がせておけば、腐りませんし」


「いえ、魚にしましょう」


 血抜きを進める従者に迷いは無かった。


「お嬢様が作る香草焼きを、是非食べてみたい」


「……!わかったわ、後悔しても知りませんわよ?」


 従者が不器用な笑みを浮かべる。傍目には顔をしかめてるようにも見えるが、今のブリジットには彼が楽しそうに笑っていることが理解できた。


 護身用のナイフで、魚の鱗を剥ぎながら思う。もしかしたら屋敷でも、彼は時々笑っていたのかもしれない。無口で無愛想な彼を、十年以上誤解し続けてきたのではないかと。


 彼は今も、猪の血抜きと臓物の処理を淡々と行なっている。どうして自分は今まで、彼をただの従者として扱うことが出来たのだろうか。自分は魚の鱗一枚を剥ぐことにさえ、こんなにも時間が掛かっているというのに。


 その夜。ブリジットが作った川魚の香草焼きは、残念ながら一部が焦げていた。鱗の取り方も甘く、皮ごと食べることは不可能である。


 それでも。


「美味しいです」


「本当に!?」


「ええ。魚を香草焼きにしようとした事はありませんでしたが、とても合いますね。勉強になりました」


 従者の賛美が、一日の疲れの全てを吹き飛ばした。それは陰謀に成功した時とは比較にならないほどの爽快感と、達成感を感じられた瞬間だった。


 夕食を終えて、食器を洗う。高級食器ではあるが、水の無駄遣いを避けるために、砂で汚れを落としてからすすいでいる。細かな傷を気にする理由など、この二人だけの世界には存在しなかった。


 今日も満天の星空である。明日も、この星を眺めることが出来るのだろうか。


「ねえ、貴方。もしも私が明日、自決をしたら、本当にここで御墓を護ってくださるの?」


「もちろんです」


 案の定、従者は即答した。しかし――


「ですが……」


「……?」


「あの猪肉を一人で食べるのは、往生しそうです」


 ――未練と呼ぶには、あまりにもささやかな評価だったが、確かにそれは存在していた。


「あら、そう」


 綺麗になった食器の水を弾き飛ばす。明日はあの猪肉が、ここに乗るのだろうか。


「楽しんでくれていたのね」


「そのようです」


 暖炉の中の薪が鳴く。何も無いと思っていた土地だったが、得られるものは多かった。朝は鳥が鳴き、昼は魚が水面を跳ね、夜になれば虫や蛙が合唱を始める。


 何も無いのではない。目を向けていなかっただけだったのだ。従者の力に、気づかなかったこと同じように。


 腰のナイフを取り出す。薪や魚の鱗程度で傷付くほど、安いナイフではなかった。


「ねえ、私にも木の彫り方を教えてよ」


「彫り方ですか?流石に一日では……」


「教わりたいのよ」


 その目には、好奇心以上の感情が込められていた。


「……わかりました」


 従者はその夜遅くまで、彫刻の仕方をブリジットへ指南した。彫りたい物をより鮮明にイメージすること。持ちての指を切らないように、ナイフの背を指で押すようにして慎重に切ること。そして最初は、簡単な物から始めること。


「ひとまず基礎は一通り教えました。しかしやはり、一日で作品を彫るのはまだ……」


「"十分"よ。明日の夜まで時間はあるわ。魚も肉もね」


 従者が言葉を失った。そこまでして、何を掘りたいのだろう。


「明日は何もしないわ。集中させて頂戴」


「……はい、分かりました」


 薪を暖炉へ投げ入れる。貴族令嬢の夜更かしは続いた。


 翌朝、最終日。朝日が昇っても、ブリジットは彫刻を続けていた。 


「お嬢様。なにも徹夜なさらなくても……」


「ほら、出来たわよ。ちょっとブサイクだけど、貴方にあげるわ。大事になさい」


 ブリジットが、従者へ作品を投げ渡す。歪で、手触りも悪く、確かにブサイクだ。しかし、一目見てそれがウサギの頭だと分かる。左右で大きさが違う耳が、何処かユーモラスだった。


「お見事です、お嬢様。大事にいたします」


「今日が約束の日ね。いい天気だわ」


 今日、彼女の生死が決まる。だがこの従者は既に、答えが分かっていた。


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 辺境の地で、腐ることなく最後まで生きることを選んだのだ。そして付き従う従者へ形見を用意してまで、自決の時を待っている。悔いのない締めくくりを迎えるために。


「……はい。とても良い天気です」


 "ブリジットのウサギ"を握る手に、力が入った。自決を止める力など、自分にあるはずがない。そんなことは分かっていたし、だからこそ突き放しもした。それなのに、どうしようもないほどの無力感に苛まれている。


「ねえ、畑を作りたいわ。貴方と二人で」


 迷いを断ち切ったブリジットが、年相応の笑顔で話しかけてくる。彼女の終わりに向けた前向きさでさえも、今の従者には耐え難かった。


「畑……ですか?」


「ええ。もし私が、事故や病気や……自決で死んだ後も、畑があれば貴方は食べていけるでしょう?まあ、何を植えるかは貴方に任せるけども」


 このお方は、最後まで自分を案じるというのか。


「ふふ……そうですか。確かに、ただ墓を護っているよりは、退屈しなさそうですね」


 だとしたらこれは、きっと罰に違いない。二人目の主人を、止めるでもなく気持ちよく送り出すことを選んだ、自分自身への神罰。


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「では、クワを探してきましょう。家屋のどれかにはあると思います。無ければ作ります」


 ならばせめて、彼女の笑顔を最後まで守ろう。彼女の心臓が止まる、その時まで。


「ええ、頼むわね。……それにしても」


「はい?」


「貴方の口数も、随分と増えたものですわ」


「そうですか?……そうですね」


 確かにこの三日間で、十年分はしゃべっている気がする。若い頃は、もっとお喋りだった気もするが。


 いつからだ。言葉の刃で、自分が傷付くことを恐れるようになったのは。


「人と話すのが楽しいと思ったのは、一人目を亡くして以来です」


 懐かしさと同時に、虚脱感に襲われた。彼は今日、二人目を失う覚悟を決めている。


「分かっているわよね?今夜、私は……」


「心得ております」


 十分過ぎるほどに。


「お嬢様こそ、悔いのないように」


「分かっているわ」


 彼女の横顔は、美しかった。今を精一杯生きる人の、強き顔だった。


「もう、心は決まっているから」




 その夜。幸いな事に、天候はその日の晩まで良好だった。しかし月が滲んでいる。もしかしたら、明日は雨が降るかもしれない。


「綺麗な星空だわ。貴方は、昨日と同じと言うかもしれないけども」


 その手には、護身用のナイフが握られている。


「私にとっては、今までで一番綺麗に見えるわ」


「……俺もです。お嬢様がくださった三日間のおかげです」


「ありがとう。それじゃあ、結論を話すわ」


 月を背に、彼女が告げる。一人目だったあの子が、ついに告げなかった一言だ。




「ブリジット・ローゼンタールは、今日ここで死にます。今までありがとうございました」


 その顔は、今まで見た中で最も美しく、最も手放し難い輝きを放っていた。




「止めないでくれるわよね?」


 止めたい。しかし、その力がない。


「はい、お嬢様。三日間、ありがとうございました」


「私のこと、忘れないで頂戴ね」


 忘れることなどあり得ない。死が彼に訪れる、その時まで。


「はい、お嬢様」


 ブリジットのナイフがゆっくりと持ち上がり。


「さようなら」


 彼女の命を、一閃した。




「……お嬢様?」


 ブリジットの手に、長い髪が握られている。根元からバッサリと切られたことで、彼女の髪型は見るも無残なほど、原型を失っていた。


 彼女は、まだ生きていた。


「これが、貴族令嬢(わたし)の命よ」


「……!」


 この国において、髪の短い女は下賤とされている。髪を長く伸ばせない環境、つまり冒険者やそれに準ずる危険な仕事をして、生活していることを意味するからだ。


 彼女は自らの手で、貴族社会へ戻る道を絶ったのだ。恐らく、二度と伸ばすことは無いだろう。


「主人として、貴方に最後の命令を下すわ。墓石を建てて頂戴。墓碑には……"ブリジット・ローゼンタール、辺境の地にて自ら命を絶ち、ここに眠る"。そう刻んで」


「よろしいのですか……?」


「もう決めたことだから」


 ブリジットが手を広げると、星空に向かって長い髪が舞い散った。月明かりに照らされ、キラキラと輝きを放ちながら、どこかへと飛び去っていく。


 そこに未練など、微塵も感じられなかった。


「今日からは、ただのブリジットよ。だから貴方も、従者ではなく、友として接して頂戴」


 彼は震えていた。今度は無力感からではない。自らの意思で生きると決めた彼女に、畏敬の念を禁じ得なかったからだ。


「承知しました、ブリジット様」


「そうじゃないでしょ」


 従者の背中を力強く叩く。優雅さの欠片もないその仕草が、これからの彼女を物語っていた。


「ほら、敬語外す。呼び捨てになさいな。私も貴方のこと、ちゃんと名前で呼ぶようにするから」


 従者は確信した。俺はきっと、生涯をこの娘のために捧げるのだろうと。


「……わかった。それじゃあ薪を少し追加で 割ってから眠ろう。今日は寒くなりそうだ」


「ええ、そうね。でもたまには私に任せて、休みなさいよ。……カイン」


「善処するよ、ブリジット」


 この数年後。二人はどちらからでもなく結婚を申し出た。その後3人の子を授かり、何も無いこの廃村を少しずつ復興させ、町と呼べるまでに繁栄させていったというが、それはまた別の話である。




 なお余談ではあるが、二人がまだ結婚を意識する前に、ヘンリー王子の代理人を名乗る人間が、直筆の手紙を持ってやってきている。ベアトリスの浅はかな嘘や陰謀が露見し、彼女の騙るブリジットの悪行が、全て濡れ衣であった事が判明したからだった。そこでヘンリー王子はブリジットへ公式に謝罪し、再婚約を申し出たいと願い出ているという。


 しかしその説明を真面目に聞いていたブリジットは、次の言葉を聞いて一気に白けてしまったという。


「この手紙を、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。今はどちらへ?」


 彼女の反応は早かった。


「あそこですわ」


「は?……はぁっ!?」


 指を指す先にあったのは、粗末な墓。そこには"ブリジット・ローゼンタール、辺境の地にて自ら命を絶ち、ここに眠る"と刻まれている。これ以降、王子やその周辺が二人に干渉することはなかった。




「ふざけた話だわ。髪が短いだけで、本人である可能性を全部捨てるなんて」


「全くだ。直接謝りに来ていれば、声ですぐ分かったろうに」


「あら、でもお陰で再婚約をせずに済んだのよ。むしろズボラな王子様でありがとうと、お礼を言いたい気分よ」


「そうだな。さてと、じゃあ予定通り、今日は弓の作り方と使い方を教えるよ」


「腕が鳴るわね」


「間違っても通りすがりの王子様に当てるなよ?」


「その時は私が血抜きをして差し上げるわ」




 今日も辺境の地の何処かで、二人の男女が寄り添いあって生きている。やがて死が二人を分かつ、その時まで。

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― 新着の感想 ―
これ、王子や親は地位を失わなくてもずっと敵対派閥にヒソヒソ言われるやつ。 なんならブリジット達が老いた時に旅の詩人が墓を見て本人と知らず墓の由来を語ってもらったらインスピレーションが沸いて名作とかに…
あれだけの事をしたのに許されると思っている、王子も大概やね。
中々読み応えがありました。 生き方と生き様をちゃんと使い分けてるのがさすがと思います。ネット上の一部の辞書は悪いニュアンスを書いてないし、AIさんは英語ベースだからちゃんと翻訳してくれないんですよね。
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