追放された貴族令嬢の三日間サバイバル生活
「ブリジット・ローゼンタール!ベアトリス嬢へ向けられた悪意と悪行、もはや見過ごす訳にはいかぬ!君を辺境地へ追放する!生きるだけで辛い日々の中で悔やみ続けるがいい!」
異世界の王都、セント・レガリスの城内。ヘンリー第三王子の怒号が、若い男女が集う城内のホールに響き渡る。身に覚えが全く無いブリジットは、狼狽することしか出来なかった。
だが貴族社会において、火のない所に煙を立てる事は、さほど珍しいことでは無い。それはブリジット自身もしてきた事だった。ただ自分の番が回ってくることに対して、想像力が働いてなかっただけである。
「そんな、急に何を言い出しますの!?や、やめて!離して!」
一方的な叱責、ベアトリス嬢の勝ち誇った笑み、そして周りの蔑むような目と衛兵による拘束が、ブリジットの高潔な精神と高いプライドを傷付けた。
数日後。責任回避のために親からも見捨てられた彼女は、無口で愛想のない従者カインと共に、辺境の廃村へと至った。
「こんなところで暮らせと言うの……?」
ブリジットの声が絶望で震える。まだ18歳の乙女である。ヘンリー王子の婚約者として厳しい貴族教育を受け続け、遊びたい盛りの時期でさえも自分を律してきた。その最期を、ここで迎えろというのか。それが王子と親が望んだ末路だと?
「……終わりですわね。こんな何も無い土地で、醜く生にしがみつくくらいなら、せめて潔く自らの手で幕引きを」
護身用として与えられたナイフが、護るべき対象の喉へ突き立てられる寸前。
従者の手が、ブリジットの手を握り締めていた。
「……無礼者。その手を離しなさい」
無口な従者の手は動かない。何も語らず、説得もしない。ただ自決する手を止めている。
「どうして止めますの?私が死ねば、貴方はもう自由の身なのよ。こんな意地悪なご主人様の事なんて忘れて、さっさと何処へでも行きなさい」
傲慢不遜な態度で従者を見下すが、目の前で光る刃先と動かせない両手が、絶望によって固められていたはずの決意を、ほんの僅かだが揺らした。
……その揺らぎは彼女自身の手にも伝染し、喉へ突き立てるだけの力を奪った。
「……わかりました。そんなに私を止めたいのでしたら、三日間だけ時間を差し上げます。三日間で、私が生きたいと思える希望を、僅かでも与えてご覧なさい」
傲岸不遜な態度で、従者を見下しながら突き放す。見捨てられても当然の酷い態度だったが、それすらも彼女にとっては必要なことだった。
しかし彼は手を離すと、村長宅だったと思しき廃屋を簡単に掃除し始め、彼女の私物や家具を次々と運び入れていく。愚痴どころか溜息の一つさえ出さずに、汲んできた井戸水を暖炉で沸かし、紅茶すら淹れてみせた。
「……悪くない味よ」
この評価こそが彼女の限界を示している。味を否定して地面に撒けば、従者の心をへし折り、より遠くへ突き放せたかもしれないのに、それが出来ない。それをしてしまえば、貴族令嬢としての自分を否定することになるから。
それでも生きていれば腹は減る。ぐぅと鳴った腹の音を聞くのは、ここでは寡黙な従者だけだった。
「……自決する前に飢え死にかしらね」
そう自嘲する彼女の前で、従者が動いた。彼は適当な木の枝を拾い上げると、小枝を折りはじめた。文字通りの手製だが、一本の竿に見えなくも無い。
「……釣竿でも作るつもり?でも針も糸もありませんわよ」
彼は周辺で群生する植物の中からある植物を抜き取ると、その茎を水でふやかしてから丸い石で叩き、中の繊維を抜き出していく。繊維状のそれは意外なほど強度があり、数本を捻じりながら繋げていくと、そこそこ頑丈な糸へと化けていった。
イラクサと呼ばれる植物に似たそれは、本来なら数日掛けて下処理を行い、綺麗な糸へと仕上げていくものだ。だが限られた環境で釣りをするだけなら、これだけでも十分な強度を持つ。
「まあ…!何も無いところから糸を作りましたの?貴方、ずいぶんと器用ですのね。まるで昔から知っていたかのよう」
従者の手がピタリと止まったが、またすぐに動き出す。迷いなく手製の釣り竿へ糸を結ぶと、裁縫箱から針を取り出した。
「何かしら。……まさか、裁縫針で釣り糸を作るつもりですの?」
従者は頷くと、何本かある内の一本を取り出し、許可を得るように差し出した。無口で無愛想だが、奇妙なところで律儀なものだと、呆れながらも首肯する。
「構いませんわ、好きに使いなさいな。どうせあっても、3日後には必要なくなっているかもしれないのですから」
許可を得た彼は、暖炉の火で針を炙ってから、慎重に曲げていった。よく知る釣り針の形が出来上がると、乾いた小枝と一緒に糸へ結ぶ。あっという間に、釣りざおが完成していた。
「驚いたわ…本当に何も無いところから作りましたわね」
興味深そうに釣竿を握る彼女の目が、僅かな好奇心で揺れている。少し振ってみるが、枝は意外と頑丈だし、糸もしっかりしたものだ。これなら本当に、魚が釣れるのではないか?
「……試しますか?」
「きゃあっ!?」
初めて従者が口を開いた。まさか口を聞けるとは思わなかった彼女の心臓が、驚きのあまりドキドキと鳴っている。
だが、彼の手で出来上がった釣りざおが、役に立つのか試してみたい気持ちもある。
「生き餌ですが」
要するに虫である。気持ち悪さを覚えたものの、この辺境で釣りが出来るという希望の方が勝った。
「……わ、分かってますわ。川へ行きましょう」
辺境に似つかわしくないほど麗しき乙女と、寡黙過ぎる従者という奇妙な二人組が、森を歩く。少し歩いた先に、大きな川が流れていた。
従者が黙々と河原の石をひっくり返し、生き餌を拾い上げる。釣り針に刺さった虫は、まだ生きていた。
「……ありがとう」
誤魔化すように、或いは何かに祈るように呟き、川へ向けて釣竿を振った。その釣竿を、従者が片手で支える。
「浮きが沈んだら、引いてください」
「わ、分かっ……」
"分かっている"とは言えなかった。知識としてはある。ただ実際に川へ釣糸を垂らすと、釣糸が常に水に引っ張られる。浮きが沈んでるのかどうかさえ、よく分からない。分かるのは、この従者を頼るしかないということだけ。
「今です」
従者の手が、くいっと釣竿を引いた。慌てた彼女も力いっぱい釣竿を引き上げる。釣り針の先には、鮎に似た川魚が掛かっていた。
「つ、釣れましたわ!?ほ、ほんとうに!?」
廃屋から持ってきていた木桶の中に、従者が魚を泳がせる。魚が元気に泳ぐ姿を見た、ブリジットの目が滲んだ。
従者が生き餌を取り付け、自らも竿を振る。程なくして、二匹目の魚が釣り上がった。流石に釣竿を自作するだけあり、彼の所作は慣れたものだ。
「……もう一匹、釣ってもいいかしら」
その手の中には、生き餌となる虫がいた。
ーーその夜。
「……」
木桶の中に、四匹の魚が泳いでいる。死のうとしていた自分が、生きた虫を餌にして魚を釣った……その現実を、今になって考えさせられている。自分は果たして、魚の餌となった虫以上に、生きる意味のある人間なのだろうか?
「……それで、どう調理しますの?スキレットが見当たりませんけども」
従者は何も語らない。暖炉に薪を投げ込むと、木の棒を串代わりにして魚へ突き刺し、暖炉に突き立てて焼き始めた。
「野蛮ですわね」
「釣りたてはこれが一番美味いんです」
「…っ!そうやって急にしゃべるの、びっくりするからやめてくれます?普段からもう少し、しゃべったらいいでしょうに」
「……話すのが苦手なもので」
二匹目の魚に串を通していく。木の枝でよくも綺麗に刺せるものだと、内心で舌を巻いた。
「私にもやらせて。自分で釣った魚くらい、自分でやりますわ」
手に取ったのは少し大きめな、最初に釣った魚だった。
「……どこから刺しますの?」
「口か、目です」
「目ですって?」
魚とつい目が合ってしまう。何故か少し気まずくなり、口からゆっくり、力を込めて串を差し込んでいった。若干手が震えているが、それを責めていいのは、今まさに串を差し込まれている魚だけだろう。
「で、で、出来ましたわ!これを暖炉にさせばいいのね?」
「お上手です。少し離して、じっくりと焼いてください」
パチパチと薪から眠気を誘う音が鳴ると同時に、魚から食欲をそそる匂いが香ってくる。一日を乗り切ったという実感が、疲労とともに襲いかかってきた。
「……なんだか、嘘みたいな一日ですわ。追放されて、廃村へ追いやられたと思ったら、自分で魚を釣って調理している。昨日とは違い過ぎて…付いていけませんわね」
「ですが、生きています」
従者の返答は、今の彼女にとってはやや不快だったかもしれない。
「ええ、生きて差し上げてますの。自決を中止させた、貴方のために。期限が来るまでの辛抱ですわ」
しばらく、薪が割れる音と、魚が焼ける音だけが流れた。
「……城で何があったのか、聞きませんのね」
聞かれたところで、答えようとも思っていない。それでも、一切何も聞かずに世話を続ける、この従者の考えがわからなかった。
その従者が、焼き魚を差し出してきた。
「どうぞ、お嬢様が釣ったものです。直接齧り付いてお召し上がりください」
「味付けしませんの?」
「塩をお好みで振ってください」
「塩だけ……?」
ケチをつけてはみたものの、目の前の焼き魚の魅力には抗えなかった。塩をひとつまみしてから、一口齧る。
「!?」
薪で焼かれた魚からは、ほんの少しだけ木の香りがした。それが自分の手で焼いた実感へと結び付き、彼女は夢中になって魚を食べ始める。従者が塩しか渡さなかった理由が、すぐに分かった。この豊潤な香りと豊かな風味に対し、塩以外のアクセントは無粋なのだ。
「……とても美味しいわ。素朴なのに、こんな温かくて、香り高くて……」
城や屋敷では、素晴らしい技術で作り上げたであろう、冷めた料理しか出て来ない。焼き立ての温かい料理が喉を通り、胃袋を温めていく感覚を、彼女は初めて味わっていた。
2匹目は、先ほどよりも少しだけ上品さを意識した。それを見ているのは目の前で魚を齧る従者と、目を貫かれそうになった焼き魚だけだったが。
腹が満たされれば、少しずつ思考も回るようになる。いよいよ当然の疑問へ向き合う気力が湧いた。
「……貴方、何が目的ですの?」
食べ終わったブリジットが腕を組み、従者を睨みつける。元々寡黙で、何を考えてるか分からない男だったが、今日は特に顕著である。少なくとも、主人である彼女の手に直接触れるなど、これまでの彼からは考えられない暴挙だった。
その従者は何も答えず、薪を暖炉へ投げ込んでいる。
「魚釣りと調理を通じて、生きる喜びを与えようとしてますの?だとしたら、貴方は私の絶望を軽視し過ぎですわ。……確かに、釣りも、初めての調理も楽しかったですわよ。でも、それだけでは自決を止める決め手にはーー」
「俺に自決を止める力なんてありません」
パチパチと薪が鳴る。
「ただ、生きているだけです」
「……私抜きで生きれば良いではありませんか。貴方にはその能力がある。それに私の自決を止められないなら、なぜ三日間の猶予を受け入れたの?三日後に全て無駄になるではありませんか」
木々のざわめきと共に、隙間風が鳴る。どうやらどこかの窓ががたついているらしい。
「こんな……こんな、何も無い土地で、家も親も婚約者も……全てを失った私に何を教えようとしてますの?私に何が出来ると?貴族としての生き方しか知らない私に、何を期待しても無駄ですわ!!」
従者は表情を一切変えないまま、薪を片手にブリジットへ手を伸ばした。
「ナイフを貸してください」
「ナイフですって?まさか説得が上手くいかないから、ナイフを取り上げて自決を防ごうとでも?結局最後は力尽くですのね」
心にもない言葉が出た。この寡黙にして、よく弁えている従者が、そんなことを考えているはずがない。そんなことは、この半日で十分理解しているはずなのに。
言ってから後悔したが、一度吐き出した言葉を取り消す愚は犯せない。彼女は長年の貴族生活により、言葉が持つ責任と重さを理解している。普段の彼女からは考えられない失態だった。
しかし従者は何も答えない。何も聞こえなかったかのように、ただ手を伸ばしている。
「……はあ」
内心で感謝しながら、ため息を吐いた。このため息は、貴族にとって土下座にも等しい価値を持つ。
「せめて理由をご説明なさい」
「工作に使います」
ナイフを受け取った従者の手が、薪を巧みに削り、何かを象っていく。その速さに、つい見惚れてしまった。
「お嬢様は今日、魚を2匹釣りました。釣った魚に下処理をし、調理をして、お腹いっぱいになるまで召し上がりました。……生きるには十分な成果です」
薪が動物を象っていく。あれは、耳だろうか?彼には似つかわしくないほど、随分と可愛らしい出来である。
彼は余った薪のかけらを暖炉へ放り込み、木彫りのウサギを、ナイフと共に手渡してきた。
「お嬢様の言う通り、ここには何もありません。城のような装飾も、宝石も、最高級のディナーも、優雅なダンスも……お嬢様を見下し、捨てた貴族達でさえも、何もかもです」
パチパチと鳴る音が、眠気とは別の穏やかさをもたらす。
「それでも生きていけるのです。今日のお嬢様のように」
「……今日の私のようにですって?」
ウサギの人形を撫でる。ナイフだけで作ったとは思えない、滑らかな手触りだった。
「私に生きる価値があるとでも?」
従者は、質問に答えない。答えれば、それが重荷になると知っているかのようだ。
従者が急に立ち上がり、外へ歩き出した。どうやら薪が減ってきたので、追加で割るつもりらしい。付いていく義理も意味も無いのに、ブリジットの足が自然と動いた。
薪割り斧を手に、手際よく薪を割る従者。ふと、空の明るさに気付いた。
「……まあ、なんて星空!」
空を埋め尽くさんばかりの星々だった。王城から見えていた空は、こんなにも輝いていなかったはずだ。王城自身が輝いていたせいで、見えなくなっていたのだろうか。いや、そもそも最後に空を見上げたのは、いつだったか。
「綺麗だわ……」
「昨日と同じ星空です」
従者が薪を割っている。
「誰かが死んでも、どこかで生まれても、変わらずに空で輝き続けている。三日後に、貴方が亡くなられた後も」
従者が新たな薪を運びこみ、暖炉へ放り投げていく。夜に外へ出たのは、星空を見せたかったからではなく、生活に必要なことをしているに過ぎないのだ。
だが、ブリジットにとっては。
「……私の追放も、あの星々にとってはちっぽけなこと……?」
「ですが貴方にとっては違う」
その声に温かさは無い。この家にある温もりは、今は暖炉の炎だけがもたらしている。
「城で何があったか知っているの?」
「存じ上げません」
「……?」
「ですが、ちっぽけなことで死を選ぶ方ではない。私が知っているのは、それだけです」
「ならば、何故」
……何故、貴方は私を?
「……」
従者の手が止まった。
「……二人目なのです」
「二人目?」
「一人目の主人は、まだ少女と呼ぶべき年齢でした。両親が急死し、突如当主を任され、過大な責任に押し潰された彼女は、満天の星空の下で首を吊りました」
「!?」
「俺が降ろしました。まだ温もりの残る小さくて軽い体を、従者だった俺が」
パチパチと薪が鳴く。
「あの日と同じで、勝手に体が動いただけなのです。貴方を止める力が、俺にあるわけがないのに」
「……」
「ですが今回は、三日後までお時間を頂けました」
木彫りのウサギが暖炉の火に照らされて、彼女の手の中で温められている。
「……十分です」
「勝手ですわね……そんな理由で、私の邪魔をしたの?」
「はい」
「……そう」
二人目の主人が立ち上がった。
「今日はもう寝ますわ。差し上げた時間、無駄になさらないで」
「はい」
従者はどこまでも無口である。その失礼な態度に、幼い頃は煮え切らない苛立ちを覚えていたはずなのだが。
何もかもを失った今は、どこか居心地の良さすら感じていた。
「おやすみなさい」
「はい、お嬢様」
従者は暖炉から離れない。他に火を守れる人間がいないからだった。
……二日目の朝。
粗末なベッドから起き上がった彼女が最初に目にしたのは、木々の隙間から覗く太陽の光。次に、暖炉の前で毛布に包まる従者だった。
「おはようございます、お嬢様」
「まさか、一日中そこで火の番をしてましたの?」
「必要なことですから。あと二日間、よろしくお願いします」
こともなげにそう言う彼の目に、疲労の色はない。生きるために必要な事を、ただ繰り返しているだけなのだ。
「ええ、よろしく。それで、今日のスケジュールは」
そこまで言いかけて、思わず失笑した。……何のスケジュールですって?ここは城ではありませんのに。
「……なんでもないわ。今日は何をしますの?また釣りをするつもりかしら?」
「それも良いですが、そろそろ肉の調達も始めようと思います。山菜も調達すれば、もう少し食事を豊かに出来るでしょう」
「肉と言っても……ここには狩りをする弓すらありませんわよ。まさか、今から弓を作るつもり?」
「作れなくはありませんが、今回は山菜も採りたいので罠を張ります」
「作れなくはないのですね……」
肉を取れるどころか、取り方に選択肢があるだけでも、彼女からすれば驚きだった。
「貴方、本当に何者ですの?色んな従者が屋敷にはいましたけど、貴方ほど生存戦略を持ってる方は、他にいないと思いますわ」
「買い被りですよ」
従者の動きは早い。昨日糸を作るのに使ったイラクサもどきを、今度は茎ごと編んで紐を作り始めている。糸よりも太く、見るからに丈夫そうだ。
「どれも生活の知恵に過ぎません」
「生活の知恵、ねぇ」
「俺からすれば、お嬢様の方がすごい。俺ならあの城では三日間も生きていられません」
思わず苦笑した。この男も冗談を言うとは。
……いや、本気なのかもしれない。彼の目は笑っていなかった。そこがまた奇妙ではあったが。
「その通りですわね。貴方のように無口で無愛想な人間に、城での生活は向いてませんわ。あそこにあるのは、常に政治。国の安寧のため如何に税を使い、集めるか……そのために誰を味方につけて、利用し、蹴落とすか。そんなことを考える毎日ですから」
「魚を釣る方が簡単そうに思えます」
「ええ、簡単ですわ」
即答した自分自身に、彼女は驚いていた。慣れきった貴族生活よりも、今の極貧生活の方が楽だと感じている自分がいる。昨日の昼過ぎまで、腰のナイフで首を切ろうとしていたのに。
「……その紐作り、私にも教えてくださる?罠に使うのよね?」
「はい」
「糸の作り方も、いいかしら。今日じゃなくてもいいから」
「はい」
従者と二人で、黙々と紐を作りながら時間が過ぎていく。城では夜会の準備に向けて、忙しくしている頃だろう。どの貴族と接触し、陰謀を巡らせるか。そんなことを皆考えている時間だ。昨日までの彼女が、そうだったように。
「お上手です。この紐を後2つ作ります。少し大変かもしれませんが、ここで頑張れば、明日にはお肉が手に入ります」
「本当なの?」
「ええ」
陰謀の成果ではなく、明日のお肉を期待する朝。今日を生きること以外に、他に何も考えなくてもいい。そんな朝を迎えたことなど、少なくとも10年は迎えてこなかった。
城では味わったことの無い苦労と苦難が待つはずなのに、不安を感じないのは死を約束しているからか、それとも。
「早いですわね。もう3本目に取り掛かってますの?」
「慣れているので」
「え、お屋敷で紐作りを?」
「いえ、幼少の頃です」
どんな幼少期かと思いながら、それ以上の詮索は避けた。これ以上彼を知れば、未練が残る気がしたから。
「さあ、これで3本の長い紐が出来ました。罠を仕掛けに行きましょう」
彼はそう言うと、ブリジットを連れて森へ入っていく。そこでしなやかな若木を見つけると、若木の天頂部分に紐を縛り、地面まで引っ張り下ろしてきた。そして紐の真ん中に輪を作ると、若木の根元に仕掛けを設置した。
動物が仕掛けに触れると、若木のしなりで跳ね上がって輪が締まり、天頂まで吊るされる仕組みだ。
「お嬢様、残り2つ分の輪を作ってください」
「わ、わかりましたわ。……ちなみに何がかかりますの?」
「ウサギが多いですね。極稀に小さな猪がかかることがあります」
昨日もらった木彫りのウサギが、熱を持った気がした。
従者に習いながら、小動物を仕留める死の輪を作る。今まで食べてきた肉や魚だって、同じ命だったはずだ。なのに自分の手で殺すことに、今更になって手が震えるほど恐怖するとは。
それでも途中でやめたりはしなかった。昨日の魚だって、死にたかったはずがない。命を頂く行為の意味を、二日目にしてようやく理解した気がした。
「仕掛けに獲物がかかるまで、山菜を採りながら待ちましょう。夕方までにかからなければ、釣りですね」
「……ええ」
従者は山菜にも詳しかった。何が食べられて、何が毒か、その全てを把握しているかのようだ。
「まさか。私が知るのは、一部だけです」
そう言って手際よく山菜を採りつつ、彼女へ生きる知恵を授けていく。二日後には無駄になると知りながら、従者は知識を共有していった。
「どうして昨日は山菜を採らなかったの?」
「明るいうちでないと、森の中は危険なのです」
果たしてそうだろうか。昨日ここへ到着した時も、同じ高さに太陽はなかったか。……思い出すことは出来なかった。昨日はずっと、下を向いていたから。
「……運が良いですね」
「え?」
従者が、若木の天頂を指差した。それはつい先程罠を仕掛けていた若木である。貴重なタンパク源となる、ウサギが掛かっていた。
「……あれ、死んでいるの?」
「ええ。生きた肉は食えません」
さも当たり前のように答える。だが、事実だった。
「早速、血抜きをします。……家の中で待っていてください」
「いえ、見るわ。やり方を教えて頂戴」
その手がブルブルと震えている。
「今日を生きるために殺したのよ。私には見る義務があるでしょ」
「……分かりました」
その日の夕食は、ウサギ肉の香草焼きだった。スキレットは無かったので、平石を火で炙って代用している。もちろん美味ではあったのだが、咀嚼するたびにウサギの死に顔が目に浮かんだ。こんなことは18年間生きてきて、初めてだった。
「こういうことなのね、生きるって」
フォークとナイフをテーブルに置く。まだ、ウサギ肉は残っている。
「私、何もわかって無かったわ。水を飲むために井戸水を汲み上げるのも、生きていた肉を処理するのも、調理することでさえ、常に誰かがやってくれていたから」
「それが普通です」
仕留めたウサギを捌き、調理した本人の言葉である。
「街に住む人々の大半は、血抜きなんて経験しません。食肉となる前に、家畜をどう屠殺し、どう血抜きし、捌いているか……そんなことを意識する人の方が稀です」
「でも、私は……」
「お嬢様」
何かを悔やむ様子の彼女に、従者は優しくなかった。
「俺はただ、貴方に美味しい肉料理を食べて頂きたかっただけです。悔やむことなく、お召し上がりください」
「……!?」
「それが難しければ、どうぞこれまでの事はお忘れください。血抜きを学ばずとも、人は生きて行けます」
「ふざけないで!!」
貴族令嬢が、従者の胸ぐらを掴んだ。
「人の自決を邪魔して、今日まで生き方を教えておきながら、今になって忘れろですって!?無責任なことを言わないで頂戴!だったらどうして、貴方は私に希望を与えたの!?貴族生活に無かった穏やかさを、何も無いところに文化を生み出せることも、どうして今になって!!」
それでも従者は動じなかった。
「貴方が私に与えたから、私は……!!」
「俺が与えたものは、木彫りの人形だけです。それ以外のものは、お嬢様が自ら望んで得たものばかりです」
「……っ!!?」
貴族令嬢の目には、耐えきれない一言だった。
「俺に自決を止める力はありません。俺は今度こそ、悔いのないようにしたいだけです」
従者の手は温かかった。それはつまり、彼の心が些かも乱れていないことを意味する。彼にとってブリジットの錯乱は、その程度の価値しか持たない。
「貴方の墓を、穏やかな気持ちで護りたい。それだけです」
それが答えだった。
「そんなことの、ために……!?」
人の温もりが、安らぎを与えるばかりではないことを、ブリジットは初めて学んでいた。この辺境の地には、確かに城にはなかった温もりと自由がある。だが、無条件に与えられるものではなかった。
「……お願い。ひと言でいいの。ただ私にひと言、"死なないで"って、言って頂戴」
従者は答えない。意味の無い事に興味を示す男ではない。
「言ってよ!!私に、生きてても良いって、そのひと言さえあれば、私は!!」
「俺の女になれば、生きていけると?無理です。俺はお嬢様が生きる理由にはなれません」
ギクリと、心臓が震えた。
「俺はもう齢三十を超えています。どうあっても貴方よりも先に逝く。それに」
令嬢の手が、そっとはずされた。
「事故、病気……自決。俺がもっと早くに逝く可能性は、幾らでもあります」
「嘘よ、貴方が自決するはずが無いわ!!」
「……" "?」
「……ッ!!?」
鈍器で頭を殴られたかのように、ブリジットがふらつき、音を立てて着席した。
「…………そう。私はあの日、そんなにも貴方を深く傷付けたのね」
従者は黙したまま、薪を暖炉に投げ入れている。
「……許してほしいなんて、とても言えない。私だったら、許せないわ。……それでも、私に付き合ってくれているというの?気まぐれに与えた三日間を、私なんかのために」
だが彼は、そこだけは否定した。
「過大評価です。俺は自分がしたいようにしているだけに過ぎません」
木彫りの人形が、暖炉の炎に照らされている。ブリジットの中で、何かが定まった。
「……結論が出ましたわ。二日後に自決するか、否かの」
最早何があったとしても、その結論は揺るがないだろう。二日目にして、彼女の運命は決してしまったのだ。
「明後日の夜、貴方に明かします。だから……明日と明後日も、貴方の傍で見させて欲しいの。貴方の生き方と、貴方から見た私の生き様を」
「面白いものではありませんよ」
「構いませんわ」
冷めたウサギ肉を、口へ運ぶ。既に硬くなってしまっていたが、構わず完食する。食べ切れなかった命を捨てることなど、もはや考えられなかった。
「生きることが愉快なことばかりではないと、もう十分に思い知ってますから」
「……ふっ、ふふ」
初めて従者が笑った。
「素晴らしい説得力です。しかしお嬢様、今の貴方は、今まで見てきた中で一番愉快ですよ」
「無礼者。無理心中しますわよ」
「失礼しました」
自決を邪魔された者と、自決を受け入れる者。
二人の今の生活が終わるまで、残り二日である。
……三日目の朝。変化はより明白だった。
「ねえ、魚の香草焼きを食べてみたいわ」
「承知しました、では――」
「いえ、釣るのも焼くのも、私がやります」
ブリジットの目には、限られた時間を生き抜こうとする決意があった。従者はそれを眩しいものでも見るかのように……あるいは痛みに耐えるかのように、目を細めた。
「わかりました。では山菜と香草は、俺が用意します」
「頼むわね。私はなるべく、たくさん釣ってくるわ。そうすれば明日は楽ができるでしょう」
「はい、お嬢様」
この地で初めて行う分担作業である。かつて彼女に任せられていたのは政治だったが、今は主菜の調達を任されている。その落差に、もう彼女は目眩を覚えたりはしなかった。
夕刻。宣言通り明日の分の魚も釣ってきたブリジットは、従者の成果に目を剥いた。明らかに山菜以外のものを持ち帰っている。
「あの罠に猪が掛かってましたの!?」
「はい。子供ですが、中々の大きさですね。燻して干せば、数日は食い繋げるでしょう」
「なら今日は猪肉になさる?魚は餌を与えて泳がせておけば、腐りませんし」
「いえ、魚にしましょう」
血抜きを進める従者に迷いは無かった。
「お嬢様が作る香草焼きを、是非食べてみたい」
「……!わかったわ、後悔しても知りませんわよ?」
従者が不器用な笑みを浮かべる。傍目には顔をしかめてるようにも見えるが、今のブリジットには彼が楽しそうに笑っていることが理解できた。
護身用のナイフで、魚の鱗を剥ぎながら思う。もしかしたら屋敷でも、彼は時々笑っていたのかもしれない。無口で無愛想な彼を、十年以上誤解し続けてきたのではないかと。
彼は今も、猪の血抜きと臓物の処理を淡々と行なっている。どうして自分は今まで、彼をただの従者として扱うことが出来たのだろうか。自分は魚の鱗一枚を剥ぐことにさえ、こんなにも時間が掛かっているというのに。
その夜。ブリジットが作った川魚の香草焼きは、残念ながら一部が焦げていた。鱗の取り方も甘く、皮ごと食べることは不可能である。
それでも。
「美味しいです」
「本当に!?」
「ええ。魚を香草焼きにしようとした事はありませんでしたが、とても合いますね。勉強になりました」
従者の賛美が、一日の疲れの全てを吹き飛ばした。それは陰謀に成功した時とは比較にならないほどの爽快感と、達成感を感じられた瞬間だった。
夕食を終えて、食器を洗う。高級食器ではあるが、水の無駄遣いを避けるために、砂で汚れを落としてからすすいでいる。細かな傷を気にする理由など、この二人だけの世界には存在しなかった。
今日も満天の星空である。明日も、この星を眺めることが出来るのだろうか。
「ねえ、貴方。もしも私が明日、自決をしたら、本当にここで御墓を護ってくださるの?」
「もちろんです」
案の定、従者は即答した。しかし――
「ですが……」
「……?」
「あの猪肉を一人で食べるのは、往生しそうです」
――未練と呼ぶには、あまりにもささやかな評価だったが、確かにそれは存在していた。
「あら、そう」
綺麗になった食器の水を弾き飛ばす。明日はあの猪肉が、ここに乗るのだろうか。
「楽しんでくれていたのね」
「そのようです」
暖炉の中の薪が鳴く。何も無いと思っていた土地だったが、得られるものは多かった。朝は鳥が鳴き、昼は魚が水面を跳ね、夜になれば虫や蛙が合唱を始める。
何も無いのではない。目を向けていなかっただけだったのだ。従者の力に、気づかなかったこと同じように。
腰のナイフを取り出す。薪や魚の鱗程度で傷付くほど、安いナイフではなかった。
「ねえ、私にも木の彫り方を教えてよ」
「彫り方ですか?流石に一日では……」
「教わりたいのよ」
その目には、好奇心以上の感情が込められていた。
「……わかりました」
従者はその夜遅くまで、彫刻の仕方をブリジットへ指南した。彫りたい物をより鮮明にイメージすること。持ちての指を切らないように、ナイフの背を指で押すようにして慎重に切ること。そして最初は、簡単な物から始めること。
「ひとまず基礎は一通り教えました。しかしやはり、一日で作品を彫るのはまだ……」
「"十分"よ。明日の夜まで時間はあるわ。魚も肉もね」
従者が言葉を失った。そこまでして、何を掘りたいのだろう。
「明日は何もしないわ。集中させて頂戴」
「……はい、分かりました」
薪を暖炉へ投げ入れる。貴族令嬢の夜更かしは続いた。
翌朝、最終日。朝日が昇っても、ブリジットは彫刻を続けていた。
「お嬢様。なにも徹夜なさらなくても……」
「ほら、出来たわよ。ちょっとブサイクだけど、貴方にあげるわ。大事になさい」
ブリジットが、従者へ作品を投げ渡す。歪で、手触りも悪く、確かにブサイクだ。しかし、一目見てそれがウサギの頭だと分かる。左右で大きさが違う耳が、何処かユーモラスだった。
「お見事です、お嬢様。大事にいたします」
「今日が約束の日ね。いい天気だわ」
今日、彼女の生死が決まる。だがこの従者は既に、答えが分かっていた。
彼女は、今夜死ぬつもりなのだ。
辺境の地で、腐ることなく最後まで生きることを選んだのだ。そして付き従う従者へ形見を用意してまで、自決の時を待っている。悔いのない締めくくりを迎えるために。
「……はい。とても良い天気です」
"ブリジットのウサギ"を握る手に、力が入った。自決を止める力など、自分にあるはずがない。そんなことは分かっていたし、だからこそ突き放しもした。それなのに、どうしようもないほどの無力感に苛まれている。
「ねえ、畑を作りたいわ。貴方と二人で」
迷いを断ち切ったブリジットが、年相応の笑顔で話しかけてくる。彼女の終わりに向けた前向きさでさえも、今の従者には耐え難かった。
「畑……ですか?」
「ええ。もし私が、事故や病気や……自決で死んだ後も、畑があれば貴方は食べていけるでしょう?まあ、何を植えるかは貴方に任せるけども」
このお方は、最後まで自分を案じるというのか。
「ふふ……そうですか。確かに、ただ墓を護っているよりは、退屈しなさそうですね」
だとしたらこれは、きっと罰に違いない。二人目の主人を、止めるでもなく気持ちよく送り出すことを選んだ、自分自身への神罰。
俺はきっと、一生自分を許さないだろう。
「では、クワを探してきましょう。家屋のどれかにはあると思います。無ければ作ります」
ならばせめて、彼女の笑顔を最後まで守ろう。彼女の心臓が止まる、その時まで。
「ええ、頼むわね。……それにしても」
「はい?」
「貴方の口数も、随分と増えたものですわ」
「そうですか?……そうですね」
確かにこの三日間で、十年分はしゃべっている気がする。若い頃は、もっとお喋りだった気もするが。
いつからだ。言葉の刃で、自分が傷付くことを恐れるようになったのは。
「人と話すのが楽しいと思ったのは、一人目を亡くして以来です」
懐かしさと同時に、虚脱感に襲われた。彼は今日、二人目を失う覚悟を決めている。
「分かっているわよね?今夜、私は……」
「心得ております」
十分過ぎるほどに。
「お嬢様こそ、悔いのないように」
「分かっているわ」
彼女の横顔は、美しかった。今を精一杯生きる人の、強き顔だった。
「もう、心は決まっているから」
その夜。幸いな事に、天候はその日の晩まで良好だった。しかし月が滲んでいる。もしかしたら、明日は雨が降るかもしれない。
「綺麗な星空だわ。貴方は、昨日と同じと言うかもしれないけども」
その手には、護身用のナイフが握られている。
「私にとっては、今までで一番綺麗に見えるわ」
「……俺もです。お嬢様がくださった三日間のおかげです」
「ありがとう。それじゃあ、結論を話すわ」
月を背に、彼女が告げる。一人目だったあの子が、ついに告げなかった一言だ。
「ブリジット・ローゼンタールは、今日ここで死にます。今までありがとうございました」
その顔は、今まで見た中で最も美しく、最も手放し難い輝きを放っていた。
「止めないでくれるわよね?」
止めたい。しかし、その力がない。
「はい、お嬢様。三日間、ありがとうございました」
「私のこと、忘れないで頂戴ね」
忘れることなどあり得ない。死が彼に訪れる、その時まで。
「はい、お嬢様」
ブリジットのナイフがゆっくりと持ち上がり。
「さようなら」
彼女の命を、一閃した。
「……お嬢様?」
ブリジットの手に、長い髪が握られている。根元からバッサリと切られたことで、彼女の髪型は見るも無残なほど、原型を失っていた。
彼女は、まだ生きていた。
「これが、貴族令嬢の命よ」
「……!」
この国において、髪の短い女は下賤とされている。髪を長く伸ばせない環境、つまり冒険者やそれに準ずる危険な仕事をして、生活していることを意味するからだ。
彼女は自らの手で、貴族社会へ戻る道を絶ったのだ。恐らく、二度と伸ばすことは無いだろう。
「主人として、貴方に最後の命令を下すわ。墓石を建てて頂戴。墓碑には……"ブリジット・ローゼンタール、辺境の地にて自ら命を絶ち、ここに眠る"。そう刻んで」
「よろしいのですか……?」
「もう決めたことだから」
ブリジットが手を広げると、星空に向かって長い髪が舞い散った。月明かりに照らされ、キラキラと輝きを放ちながら、どこかへと飛び去っていく。
そこに未練など、微塵も感じられなかった。
「今日からは、ただのブリジットよ。だから貴方も、従者ではなく、友として接して頂戴」
彼は震えていた。今度は無力感からではない。自らの意思で生きると決めた彼女に、畏敬の念を禁じ得なかったからだ。
「承知しました、ブリジット様」
「そうじゃないでしょ」
従者の背中を力強く叩く。優雅さの欠片もないその仕草が、これからの彼女を物語っていた。
「ほら、敬語外す。呼び捨てになさいな。私も貴方のこと、ちゃんと名前で呼ぶようにするから」
従者は確信した。俺はきっと、生涯をこの娘のために捧げるのだろうと。
「……わかった。それじゃあ薪を少し追加で 割ってから眠ろう。今日は寒くなりそうだ」
「ええ、そうね。でもたまには私に任せて、休みなさいよ。……カイン」
「善処するよ、ブリジット」
この数年後。二人はどちらからでもなく結婚を申し出た。その後3人の子を授かり、何も無いこの廃村を少しずつ復興させ、町と呼べるまでに繁栄させていったというが、それはまた別の話である。
なお余談ではあるが、二人がまだ結婚を意識する前に、ヘンリー王子の代理人を名乗る人間が、直筆の手紙を持ってやってきている。ベアトリスの浅はかな嘘や陰謀が露見し、彼女の騙るブリジットの悪行が、全て濡れ衣であった事が判明したからだった。そこでヘンリー王子はブリジットへ公式に謝罪し、再婚約を申し出たいと願い出ているという。
しかしその説明を真面目に聞いていたブリジットは、次の言葉を聞いて一気に白けてしまったという。
「この手紙を、ブリジット・ローゼンタール様へお渡し願いたい。今はどちらへ?」
彼女の反応は早かった。
「あそこですわ」
「は?……はぁっ!?」
指を指す先にあったのは、粗末な墓。そこには"ブリジット・ローゼンタール、辺境の地にて自ら命を絶ち、ここに眠る"と刻まれている。これ以降、王子やその周辺が二人に干渉することはなかった。
「ふざけた話だわ。髪が短いだけで、本人である可能性を全部捨てるなんて」
「全くだ。直接謝りに来ていれば、声ですぐ分かったろうに」
「あら、でもお陰で再婚約をせずに済んだのよ。むしろズボラな王子様でありがとうと、お礼を言いたい気分よ」
「そうだな。さてと、じゃあ予定通り、今日は弓の作り方と使い方を教えるよ」
「腕が鳴るわね」
「間違っても通りすがりの王子様に当てるなよ?」
「その時は私が血抜きをして差し上げるわ」
今日も辺境の地の何処かで、二人の男女が寄り添いあって生きている。やがて死が二人を分かつ、その時まで。




