29話 諦念
何が起こったのか瞬時に理解できなかった。
人気アイドルからの壁ドン――一体誰が今の状況を理解できるものか。
それに加えて如月さんから発せられた言葉。
『アイドルだからって私がときめかないとでも思ってるの?』
そんなのまるで如月さんが今ときめいてるみたいな言い方だ。
どうして?
でも今はそんなことを考えるよりも……
有り得ないほどの至近距離にいる如月さん。
もう息が当たるとかの次元ではなかった。少しでも動けば唇と唇が触れ合う距離感。
人気アイドルからこんな詰め寄られ方をされたら当然平静を保っていられるわけもなく……。
こんなの逆に俺の方がときめかされそうなんだけど!?
逆にアイドルからこんなことをされてときめかない男なんて存在するのか……いや、いるわけない。
完全にテンションがおかしくなって変なことを考えてしまう。
相手の如月さんもどうしていいのか分からないのか、硬直している。
そんな様子だから俺たちは後ろから近づいてくる一つの人影に気づくのが少々遅れてしまった。
「紫乃? そんな所でどうした?」
その声は二人とも聞き慣れた声だった。
流川さん!? こんなところ見られたら確実に誤解される。
「青澄!?」
同じように反応する如月さんの顔が少しだけ離れる。
それにより熱気がフロア内に解き放たれて、息苦しさから解放される。
もう少し長ければ多分俺はあの熱気に飲み込まれていただろう。
だが、またしても新たな問題発生。
このままでは一緒にいたのが流川さんにバレてしまい、最悪縁を切られる可能性も有り得る。
流川さんとの距離は声からしてまだあまり近くはない。が、ここから入れる保険なんてあるわけが――
「ごめん。ちょっと手荒な真似する」
突然の如月さんの囁きが俺の頭を悩ませる。
だけど、考える暇もなく如月さんから強引に腕を掴まれて、近くの部屋へ放り込まれ、彼女の見事な手捌きによって扉は閉められた。
最善策ではあるものの、もしかしたら流川さんに顔を見られていたかもしれない。
「あれ? さっきまで誰かと一緒にいなかった?」
「気のせいでしょ」
「気のせいか」
心配していたが、扉の向こうから聞こえてきた会話でそれは杞憂に終わる。
意外にもあっさり問題が解決して思わず安堵する。
落ち着いた頭で改めて部屋を見渡す。
ここは誰の部屋なのか――そんなの一目瞭然だった。
ライブの時に着ていた紫色の衣装に、紫色のキャリーケース。
誰の部屋か判別するのは容易だった。
あまり女性の部屋をジロジロ見るのは良くない。とにかく流川さんがどこかへ行くまでは大人しくしておこう。
そう思った矢先、もう大丈夫だと言わんばかりに扉が開けられる。
疲弊した様子の如月さんの後ろには今や誰もいなかった。
どうやらもう大丈夫のようだ。
だと言うのに未だに視線を逸らし続ける如月さんは部屋で突っ立っている俺に言い放つ。
「ほんとごめん。今日のことは忘れて」
当然のことだろう。いくら何でも今日の如月さんは様子がおかしすぎた。
「分かった。即刻忘れるよ」
それで少しでも彼女の力になるのなら。
「それはそれでちょっと無神経じゃないかな……」
だと言うのに、彼女は一体何が不満なのだろうか。
「まぁ、いいけど……」
如月さんは口癖のごとく呟いた後、「それと」と付け足す。
「もうこれ以上私に優しくしないで」
それを理解するのには、少々時間を要した。
つまり……余計なお世話はいらないということだ。
確かに最近は如月さんとよく一緒にいる気がする。
それはきっと、彼女が俺と同じ過去を持っているからなのだろう。
だけどもうこれ以上お人好しはいらない。
そう。如月さんは一人で過去を乗り越えたのだ。俺には成し遂げられなかったことを如月さんはやってのけた。
「分かった」
扉に手をかける俺に、如月さんは最後蚊の鳴くような声で「ありがとう……」とまるで何かを諦めたように呟いた。




