16話 体育祭 2
午後の部――俺を待ち受けていたのはクラスリレーだった。
借り物競争のおかげである程度の緊張感は拭えたものの、時間が近づくにつれて不安が俺を苛んだ。
それでも残酷なことに時間は止まってくれず、一つ前の競技が終わり、とうとうその時間がやってくる。
パンッという開始の音と共に、歓声が上がり、俺の心臓も同時に跳ねる。
始まってしまった。
第1走者が、半分まで走ったところで次の走者にバトンが受け渡される。
第3走者、第4走者。次々と大切にバトンが受け継がれていき、リレーはあっという間に最終局面に差しかかる。
だと言うのに俺の心臓は一向に収まってくれなかった。
あのバトンを落とさずに受け取り、次の人にそれを渡す。至極簡単なことだ。
だから落ち着け。怖がることなんてない。
それでも心の奥底で燻っている何かがまた俺の邪魔をする。
それのせいで足が震え出す。
消えてくれ。消えてくれ。消えろ。
消えろ消えろ消えろ消えろ。消え――
「――――」
皆がクラスリレーに集中する中、不安感に押し潰されそうになっている俺の手が何かによって温かみを帯びる。
それにより、足の震えが収まり、潰されそうになっていた心が少しだけ和らぐ。
一体何が俺をここまで安心させるのか……。
その正体は、無言でリレーを見守っている流川さんだった。
俺の手を優しく握ってくれている流川さんの顔もどこか優しくて温かみを感じた。
ふと、綺麗な彼女の横顔がこちらを向き、目が合う。
微笑を浮かべる流川さんから目を離せなかったのは、おそらく彼女の顔を見ていると心が落ち着くからだろう。
でも同時に誰かに見られたらどうするんだ、という現実も押し寄せてきた。が、当然周りの生徒たちは軒並み、リレーに集中していて、誰一人として俺たちのことを視認していなかった。
彼女自身もそれを理解しているのか、何食わぬ顔でリレーに視線を戻す。手は繋いだまま。
きっとそれは、俺の出番が回ってくるまで存分に安心させるためなのだろう。
だけど、もう大丈夫。
気づけば俺は前を向いて、心も自信に満ち溢れていた。
それも何もかも、彼女のおかげだ。
「ありがとう」
手を離した流川さんに囁いた後、俺はとうとうトラックに一歩を踏み出した。
トラウマのグラウンドに立っても震えはなかった。
まだ手は微かに温かくて、それが俺を守ってくれているようでもあった。
覚悟は決まった。
一人目、二人目、三人目と隣でスタンバイしていた生徒たちがバトンを受け取り、次々と走り出していく。
一人残された俺のクラスは現在最下位だった。
後ろへ手を伸ばし、俺はようやくバトンを受け取る。
瞬間、目の前に今まで見られなかった景色が広がる。
前にはもう誰もいないトラック。右側で興味なさげにリレーを見守る生徒たち。右手で揺れる赤色のバトン。
その景色は思ったより大したことはなくて、やっぱり怖がることなんてなかった。
それでも結局、前にいるであろう生徒を抜かせることはなく、順位は現状維持といった様子で最終コーナーを走ることとなった。
後は前方でスタンバイしている人にバトンを渡すだけ……なのだが、その人物を確認した俺は激しく動揺する。
そこには、先程まで手を繋いでいた流川さんがこちらに手を伸ばしていた。
俺はそんな彼女の手にバトンを渡した。つもりだったのだが、ミリのところでバトンは届かず、行き先は空中だった。
それどころか視界は傾いており、目の前には地面だけが映し出されている。
視界の下方向には、足元辺りに石が転がっているのが見え、今の状況を瞬時に理解する。
どうしてこんなところに……。
視野が狭まり、周りがスローモーションになっていく。
あっ。まただ。また俺はやらかしてしまうのか――
バトンタッチも失敗して、更に地面に顔を擦り付けることになる。
もう俺は全てを諦めて目をつぶった。
「…………」
だが、痛みが響くことはなく、なぜか両肩にだけ何らかの感覚があった。
これは――
「小林。大丈夫?」
またしても優しい流川さんの声が聞こえてきた。
目を開けると、持っていたバトンは地面に落ちており、代わりに流川さんの両手は俺の肩を握っていた。
「間一髪だったね」
周りからの視線なんて気にしている場合じゃなかった。
「それより早くバトンを――」
俺は急いで落ちているバトンを拾い上げ、目の前の流川さんに渡す。
我に返った様子の流川さんは前を向き、最後に言い放つ。
「後は任せて」
言いながら猛スピードで駆けていく流川さんの背中を眺めながら俺は思った。
また流川さんに助けられてしまった。
◇◇◇
リレーの結果は、一位とまでは行かなかったものの、流川さんの活躍のおかげで最下位は免れることができた。
そしてクラスメイトから何か言われると怯えていた俺は、またしても杞憂だと気づかされる。
文句は愚か、労いの言葉をかけてもらったくらいだ。
「災難だったな」や「流川さんから助けられて羨ましい」という嫉妬の声もあった。
中学の時は知らなかったけど、この世界は俺が思っているよりも綺麗なのかもしれない。




