第1話 放課後
ある少女が、街中を歩いていた。制服を着ているし、近くに高校もあるから、この少女はきっと下校途中とかなのだろう。もう日の落ちかけた時間帯に道を歩いていた。
その少女は、すれ違う人のほとんどが振り返るような美貌の持ち主で、それゆえに今この場でも放っておかれるわけがなかった。
「よー、そこの綺麗なお嬢ちゃーん俺らとちょっとお茶しなーい?」
「悪いようにはしないぜえ」
そんなふうに、チャラついた男どもにナンパされるのも無理はなかった。
「い、いや、そういうのけっこうなんで・・・・・・」
少女はそう言って断ろうとするも、
「まあ待てよ!」
チャラ男どものリーダー格らしき男は少女の手首を乱暴に掴むと、強引に連れて行こうとした。
ヤバい、と少女が顔を青ざめさせたその時だった。
「おい!うちの生徒に何してるんだ!」
少女にとっては聞き慣れた声、強面で体格のいい少女の通う高校の体育教師が大声でそのチャラ男どもを一喝すると、少女を庇うように割って入った。
その体育教師に恐れをなしたチャラ男どもは、やや不服そうな様子を見せながらもすごすごと退いていく。
ほっと安堵した少女の後ろから、清らかな声がした。
「間に合ってよかったー・・・・・・大丈夫?山本くん」
振り返ると、そこには銀髪に碧眼、人間離れした美貌を持つ高校の女神。
白河佳織がそこにいた。少女はやや動揺しながら、
「し、白河さんが助けを呼んでくれたの・・・・・・?」
そう聞いた。
「うん。下校中に山本くんが絡まれてるのを見かけて・・・・・・なんか危なそうな雰囲気だったから、河合先生を呼んだんだ」
「あ、ありがとう・・・・・・白河さんのおかげで助かったよ」
「そう?それなら良かった!」
白河佳織は少女の返答を聞いて、笑顔を浮かべてそう言った。
少女はその笑顔を眩しく思った。
この白河佳織は、その少女の好きな人だった。そう、その少女────元少年で今は少女である高校生、山本ユキの好きな人であったのだ。
この話は、突然女子になった男子、山本ユキの恋を描いた物語である。
楽しんでいただければ嬉しい。
◇
ユキは朝、いつも通りの時間にいつも通りに登校していた。以前は友達と一緒に登校していたのだが、女の子になってからの二ヶ月間は、ずっと1人で登校していた。
ユキはある日、朝起きたら女の子になっていた。なんでも、これは何万人かに1人ぐらいの奇病で、時々こういうふうに朝起きたら別の性別になっているということがごくたまにあるらしい。原因も治療法も確立されていない奇病で、ユキも今の医学では治せないと言われた。
これが二ヶ月前のことだ。ユキはこの奇病にかかるまではごく普通の男子だった。しかし、今では美しい少女になっていて、胸も大きいし、体つきも完全に女子のものになっていた。
校門をくぐって、校舎の入り口まで行く。その途中、大勢の生徒たちの視線を感じる。これは、ユキがそういう奇病にかかったことで、物珍しい目で見られている・・・・・・というだけではなかった。
ユキはその視線に居心地の悪い思いをしながらも、玄関で靴を履き替えて教室へと向かった。
教室に入るとみんな一瞬ユキの方を見るが、すぐに自分の友達との会話に戻って、ユキに話しかけるような人はいなかった。
ユキはクラスメイトの中を歩いて、自分の席に向かうと、席についた。
そして、前を見るとそこには同じクラスである高校の女神、白河佳織の後ろ姿がある。
白河佳織は、濁りのない美しい銀髪を真っ直ぐに垂らし、正面を向いて座っていた。
ユキはその後ろ姿を、思わずポケーっと眺めてしまったが、この状態になって人からじろじろ見られることがどんなに不快か理解したユキは、慌てて目を逸らした。
目を逸らして、視線の行き場に困ったので、ユキはとりあえず窓の外を眺めた。
・・・・・・・
やがてホームルームが始まって、終わって、一時限目も始まって、終わって・・・・・・一般TS男子高校生の一日は何事もなく過ぎていく。
女の子になっても、ユキの一日は変わり映えがなかった。男子の時も女子の時も、ぼーっと授業を受けて、ノートに落書きをするだけ。
ユキも女子になった当時は日常に何か変化が起きるものと思っていた。アニメや漫画みたいなことが起こって、日常から非日常へ足を踏み入れることができるのではないかと。
しかし結果は変わらなかった。女子になっても特に非日常的なことが起こることもなく、日々は何事もなく過ぎていった。
やがてお昼休みになった。ユキはお弁当を取り出して、自分の席で食べ始めた。ユキは女の子になってから食べる量が少なくなったので、男の時より小さいお弁当だ。作る量が少なくなったから、お母さんは少し楽になったと喜んでいた。
そのお弁当を、ユキは1人で食べた。前までは友人と食べたりしていたのだが、女子になってからは1人で食べるようにしている。
ユキはクラスに友達がいなくなっていた。以前はたまに話をしたり、一緒に昼食を摂ったりする友人のようなクラスメイトも幾人かいたのだが、ユキが女子になってからというものみんなどう接したらいいかわからないようで全く話さなくなってしまったのである。女子も同様だ。
一度ユキは友達だった男子に話しかけたりしてみたこともあるのだが、ユキが男子だった時とは反応が違っていて、何かじっとりとした嫌なものを感じたから、もう話しかけないことにした。彼らはもう友達ではなくなったのだと、ユキは考えていた。
ユキの日常はこんなふうに変わっていった。しかし、変化はしばらくすると日常に飲み込まれていって、ユキは結局、女子になっても細かいところが変わっただけで日常は何も変わらないのだと思うようになった。
今までのユキの日々の中の、少しずつ染み渡るような小さな苦しさも、地面から5センチ程度浮き上がるだけの小さな喜びもみんなそのままだった。ただ性別が変わっただけ。同じ円周上を同じように移動する。心だって同じ。
女子になるというのも、こんなものなのだろう。アニメや漫画とは違うのだ。そんな劇的なことが起こるわけがない。
このお弁当の卵焼きだって変わらないのに、女子になったくらいで自分の人生が変わるわけがない。ユキはその卵焼きをじっと眺めてパクッと食べた。
お昼を終えて、五限目の授業、六限目の授業も普通に受けた。ユキはぼーっと窓の外の水色の空を眺めていた。授業はもう右から左に抜けている。ユキは水色の空を見てあの空は食べたらどんな食感がするんだろうと思っていた。しゃくっと軽い歯応えで、サワサワと舌の上を、まるで何もないみたいに、通り抜けていく予感がする。
性別が変わることで、日常も変わって、あの空みたいにはるか高くまで届くような青い清らかな喜びが、自分のところまで降りてきてくれたなら。
そんなことを考えているうちに、ユキはいつの間にか寝てしまっていた。
・・・・・・・そして、ユキは夢を見た。初めて佳織を好きになった日のことだ。
ユキはその当時、高校生になったばかりだった。その時は男で、ユキは好きな漫画の新刊を買うために家の近くの本屋に出かけた。
しかし、残念ながらその本屋では新刊は売り切れてしまっていて、ユキは家からちょっと遠いところにある本屋へ足を伸ばすことにしたのだ。
バスに乗って、最寄りのバス停まで行って、降りてからは徒歩でその本屋を探した。しかし、やはり普段はあまり行かないような場所まで足を伸ばしたからか、ユキは迷ってしまった。
ユキがスマホで色々と調べたり周りの建物を見たりして、必死に目的の場所に行こうとしていると、困っているというのが見え見えだったのだろう。見るに見かねた佳織が声をかけてくれたのだ。
佳織とは一年の時も同じクラスだった。しかし、高校に入学したばかりで、まだクラスメイトの顔も名前も一致しないような時だ。全く話したことがない。接点も何もない。そんなユキを助けるために話しかけてきてくれた。接点のないクラスメイトの男子に話しかけるのは勇気が必要だっただろう。
それでも話しかけてきてくれた。そしてユキのために道案内をしてくれた。せっかく道案内をしてくれたというのに、ユキはちょっと寄り道をしたくなったりして余計時間をかけさせてしまったのだが、佳織は嫌な顔一つしなかった。
そういう経緯があって、ユキは佳織のことを好きになった。別に特別なことは何もなかった。普通のどこにでもありそうなエピソードだ。
だが、特別である必要がどこにあるだろう。人を好きになるのに特別な理由などはいらない。別に普通でもいいのだ。
困っている人を助けるのは普通のことだ。しかし、実際、明らかに困っている様子のユキを見て、普通に助けてくれたのは佳織だけだった。だからそんな人を好きになるのは、普通のことだ。
その日はよくある平凡な休日だった。しかし、ユキにとってはその日は特別な日だった。
ユキはその日のことを今でも憶えている。自分の前を歩く、佳織の清らかな銀色の髪を憶えている。しかし、佳織はその日のことを憶えていないだろう。別になんでもない平凡な一日なのだから。ただでさえ、女子になったユキの、男子時代の記憶なんていうものはみんなの中で風化していくだけのものなのだから。ただそれだけのものなのだから。
◇
ユキは目が覚めた。気がつくと、もう帰りのホームルームも終わって放課後になっていた。しかし、まだ夢の中みたいに、辺りは嘘みたいに美しい濃密なオレンジ色に包まれていた。
「ん・・・・・・」
ユキは目を擦りながら体を起こした。窓の外、校庭の方からは運動部の掛け声が聞こえる。もう帰らなければいけない時間だ。
とりあえず、机の上に出しっぱなしになっていたノートやら教科書やらを鞄にしまって、家路につこうとした、その時だった。
「あれ?髪の毛ちょっとはねちゃってるよ?」
後ろから声が降ってきた。清らかで軽やかで、優しい声だ。そしてこの声には聞き覚えがある。ユキの心を深く掻き乱し、そして安心させる声だ。
振り向くと、果たしてそこには白河佳織が・・・・・・ユキの好きな人がいた。
「しっ・・・・・・白河、さん・・・・・・・?」
天使が目の前にいた。白河佳織が覗き込むようにしてこちらを見ていた。
ユキはまだ自分が夢の中にいるのかと思った。こっそり手の甲をつねってみたら痛い。どうやら夢ではなさそうだった。ユキは慌てて背筋をシャキっと伸ばして椅子を動かし佳織の方に向き直った。
「え、えと・・・・・・佳織さん、何か御用でしょうか・・・・・・?」
「ううん、別に用事はないけど、ずっとうとうとしてて起きないから、大丈夫かなと思って・・・・・・」
「あっ!す、すいません・・・・・・うっかり眠ってしまって・・・・・・もう起きたのですぐ帰ります!すぐ帰りますから!!」
ユキが慌てて帰ろうとするところを、佳織は制止した。
「ちょっと待って!そのまま帰っちゃダメだよ!髪の毛はねちゃってるから!」
佳織に言われて、ユキはちょっと自分の髪を触ってみた。確かに、机に突っ伏していたからか前の方がちょっとはねている感じがする。スマホを取り出して確かめてみたが、ユキ的には言われてみれば気になるな、ぐらいの感じでそこまで変には感じなかった。
「大丈夫ですよ、このくらいなら。多分誰も気にしないと思いますよ」
ユキはそう言ったが、佳織は納得しなかった。
「ダメだよ!山本くんも今は女の子なんだから、身だしなみはちゃんとしなきゃ!」
佳織はむっとした顔でユキに注意する。そんな表情を彼女がするのは珍しい。
(白河さんの珍しい表情だ・・・・・・)
佳織の珍しい表情が見れて、ユキは嬉しかった。しかし、続く佳織の言葉はユキを激しく動揺させた。
「ちょっと待ってて!私が梳かしてあげるから!」
ユキは突然のこの展開に激しく動揺して、しどろもどろになりながらもなんとか断ろうとした。しかし、意外にも佳織の押しが強くて、結局言われた通りに佳織に髪を梳かしてもらうことになってしまった。
「・・・・・・」
(なんでこんなことになったんだろう・・・・・・・)
ユキは自分の席に小さく縮こまって小動物のようになりながら座っていた。
佳織は自分の席の鞄から持ってきた携帯用ヘアブラシでユキの髪を梳かし始めた。
「あ、ありがとうございます、白河さん・・・・・・」
「ううん、別にいいよ。お礼なんて。ただのお節介なんだからさ。・・・・・・というか、そんなにかしこまらなくていいよ。クラスメイトなんだし」
「し、白河さんがそういうなら・・・・・・」
ユキは大人しく佳織が髪を梳かすのに任せていた。ふと、会話が途切れて沈黙が流れる。ユキは必死に頭を回転させて何か話題を見つけようとした。
(何か話題を見つけないと・・・・・・)
しかし、話題は何も出てこなかった。先に口を開いたのは佳織の方だった。
「そういえば、あの漫画はまだ読んでるの?」
「え?」
「あれ?憶えてない?ほら、高校に入学したてぐらいの時に山本くんが道に迷ってたから案内したことあったよね?その時に買ってた漫画、面白そうだったから私も買って読んでるんだよ。まだ買ってたらその漫画の話をしたいな、って思ってたんだけど・・・・・・」
「あ、ああ!あの漫画、まだ買ってるよ!もちろん新刊が出るたびに買い続けてる・・・・・・というか、白河さんは、その日のこと憶えてたんだ。てっきり、白河さんはもう忘れちゃったもんだと・・・・・・・」
「いやいや、忘れないよ!クラスメイトとのエピソードを忘れるなんて、そんな薄情な人間じゃないからね!それに・・・・・・」
佳織はユキの髪を梳かす。梳かしながら話した。
「それに、山本くんはけっこう印象的な人だったからね。私が案内してる時、急に走り出してどうしたのかと思ったら、知らないおばあちゃんの荷物運ぶのを手伝ってたし。私、道案内中にそんなことする人初めて見たよ?」
ふふ、と佳織はそう言って笑った。
「あ、あの時はごめん。ただでさえ時間を割かせてるのにさらに時間をかけさせることになって・・・・・・」
「いやいや、謝ることじゃないよ。私だって山本くんと同じ状況なら同じことしたと思うから。・・・・・・それが印象に残って、山本くんはクラスメイトの中でも最初の方に名前と顔を憶えたんだ」
ユキは少し俯いた。頰がかなり赤くなっていたが、佳織がそれに気づいたかどうかはわからない。
「だから、山本くんが女の子になった時、ほんとに心配したんだよ?大丈夫なのかなって・・・・・・。でも、けっこう大丈夫そうでよかったよ。この髪だって、羨ましくなるくらい綺麗だし」
「い、いや俺なんかの髪が綺麗だなんて、そんな勿体無い・・・・・・えーっと、俺には実は姉がいて、その姉から女子になった時色々と髪の毛のケアの仕方とか、洗い方とか・・・・・・その他もろもろ、叩き込まれたから。だからそこそこちゃんとしてるのかも・・・・・・」
「へー、山本くんお姉ちゃんいるんだ!羨ましいなあ・・・・・・私、一人っ子なんだよね」
他愛もない会話を、放課後の教室で好きな人とする。
ユキには、急に教室の中が綺麗になったように見えた。
窓から差し込む夕日はこの教室をどこか神秘的に彩り、そこに留まった夕日は、信じられないくらいに綺麗な、夢みたいに綺麗な深い蜂蜜の色だった。
佳織の手が髪に触れるたび、ユキはどこかふわふわとしていく。体も心も、甘い蜂蜜になって溶けていくような心地がした。ユキは安心して、この心地よさの中に溶けて流れた。
佳織はこれほどまでに深い感情を抱いてはいないだろう。けれどもそのカケラでもいいから、佳織がこの、自分と同じこの気持ちを持っていてくれればいいな、とそう思った。
やがて、佳織は髪から手を離した。
「どう?」
佳織が手鏡を手渡してきた。それを覗き込むと、ユキはなぜかツインテールになっていた。
「えと、白河さん、これは・・・・・・」
ユキが佳織の方を向いて尋ねると、佳織は笑って答えた。
「いたずら!」
そしてこう続けた。
「やっぱり私の見立て通り、似合ってるね!かわいいよ!」
そう言った佳織の顔は、まさにいたずらを仕掛けて笑う子供のように見えた。ユキの心には、その笑顔がばっちりと焼きついたのだった。
◇
次の日の朝。
ユキはいつもより人の視線が自分に集中しているのを感じていた。
それもそのはず、ユキはずっとストレートでポニーテールにすらしていなかった髪型を、いきなりツインテールにしてきたのだから。
ユキは少しそわそわする。大丈夫だろうか、変じゃないだろうか。いや、変ではないはずだ。姉に教えてもらって、理想のツインテールになるまでに夜遅くまで練習したのだから。姉にもお墨付きをもらったのだ。大丈夫だ。大丈夫なはず。
ユキはこれを見た白河さんがどう言うだろうかと少し不安で、でも少し楽しみにしながら、学校へと向かった。
女子になるのも、悪くないものだ。ユキは初めてそう思えたのだった。