― 最終話「下から、見ている」
足の裏から剥がれない感覚は、もはや“皮膚”の一部になったようだった。
何度も医者に行った。MRIも、精神科も。
だが、誰一人として「異常」は見つけられなかった。
それなのに――あの“何か”は、確かに存在していた。
ペタ……ペタ……。
今日は、もう履き物すらいらなかった。
裸足で歩くほうが、逆に“しっくり”くる。
その感触があることで、自分がまだ“こちら側”にいる気がした。
久野紗英。
彼女は、あの日から行方がわからない。
バスルームに貼りついていた、あのフィルム状の痕跡を見つけた日からだ。
警察に言っても、監視カメラに映る彼女は、なぜか“ひとりで”部屋を出ていったとされていた。
だが、直人は見ていた。
彼女が“床に沈んでいった”瞬間を。
薄い、ゼリーのような膜に包まれて。
――いや、違う。
もしかすると彼女は、最初からこの世の存在ではなかったのではないか。
自分が出会ってきた「日常」は、すべて夢だったのではないか。
ふと、床を見た。
畳の隙間に、ひときわ濃い影がある。
近づくと、それは“人の瞳”のように、じっとこちらを見上げていた。
にちゃっ……
足が吸いつく音と共に、視界が揺れる。
直人は気づく。
もう何年も前に、自分は“落ちていた”のだと。
あの夜、最初に足の裏に違和感を覚えた日。
夢の中で、何かを踏んだ気がした。
それが、始まりだった。
「……来ると思ってたよ」
懐かしい声が、床下から聞こえる。
紗英の声だ。
けれど、それはどこか濡れて、どろりとした響きを持っていた。
「やっと、あなたも……こっちに来るのね」
直人は、ゆっくりと床に座り込んだ。
もう疲れた。
足の裏のあの感覚が、もはや唯一の“真実”に思えた。
彼は微笑んだ。
“それ”が、じゅるり、と音を立てて、彼を包んでいく。
最後に聞こえたのは、自分自身の声だった。
> 「……下から、見ているよ……ずっと、ずっと」
そして次の朝。
その部屋には誰もおらず、ただ、畳に貼りついた人間の“足の形”が、
薄く湿ったフィルムのように残されていた。
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- 完 -