ただの同居人だと思ってた女の子に、毎晩ぎゅってされてる
午前四時。壁際の時計が、じりじりと乾いた音を刻んでいる。耳に入るたび、喉の奥がきゅっとすぼまるような、間違えて飲み込んだ骨が引っかかっているような気分になる。
――暑い。
額に張りついた髪がじっとりとしていて、寝返りを打つたびにTシャツの背中がシーツに貼りつく。タオルケットの重さも肌にまとわりついて、まるで誰かに、というか、実際、隣で寝ている彼女の腕に抱きすくめられているせいなんだけど。
呼吸の音がやけに近い。真白の鼻先が、たぶんうなじに当たっている。
彼女の腕が私の腰にまわっているのは、もう毎晩のことだった。最初はびっくりして、そのたびに身体を跳ねさせていたのに、最近じゃ、自分でも知らないうちにその腕に背中を預けて寝ていた。
それが困る。
正確には、そんなことで困ってる自分が一番やっかいだった。
「……ゆずは、まだ起きてる?」
首のあたりにふっと風が当たって、真白の声が、すぐそこに落ちてきた。囁き声というより、もはやただの吐息に近い。返事をしようか迷っていると、真白の指が、そっと私の指先をなぞった。
皮膚の上を、違う時間が歩いていくような感じ。触れられた瞬間、時間の流れだけがそこだけ変質して、ずるっと外側に落ちていく。
「眠れない?」
言いながら、彼女の指が私の手を包んだ。すこし冷たかった。昼間、アイスを食べてたせいかもしれない――いや、たぶん違う。真白の指先は、いつもこんな感じで、体温よりすこし低くて、でも嫌じゃない冷たさだった。冷たいのに、気持ちよくて、くせになる。
「……別に、暑いだけ」
やっと返した言葉は、舌の奥で絡まって、意味があるのかないのかわからないものになった。
「ふーん。じゃあ、もっとぎゅってしたら涼しくなるかも」
意味不明な理屈に反論する前に、真白の腕がもう少しだけ強くなった。背中に密着する柔らかな胸の感触。脇腹にふれる脚。こめかみあたりに落ちた髪が、汗ばんだ肌にまとわりついて、蚊帳の中に迷い込んだ何かのように存在感を放っていた。
「……バカじゃないの」
そう言うと、真白がくすっと笑った。笑い声なのに、どこか寝息みたいで、無防備で、じわじわと私の脈拍を狂わせた。
布団の中で、ごく小さな世界ができていた。シーツのしわの間に、小さな声が隠れていた。
ずっとこのままでもいいかも、って思ってしまう自分がいて。
でも、そんなこと思ったら、取り返しがつかなくなる気がして。
私はその夜、ひとつ深く、寝返りを打った。
でも、その拍子に、もっとしっかりと、抱きしめられた。
――逃げそびれた。
その瞬間だけは、なぜか、すごくよく覚えている。
朝は、いつも通りの顔をしてやってくる。
炊飯器の蓋が開く音、味噌汁の匂い、湯気の向こうで揺れる真白の髪。
眠たい目をこすりながらテーブルにつくと、彼女は既に箸を並べていた。
「おはよう」
その声は、夜のあの囁きと同じものとは思えないくらい、明るくて、遠い。
まるで、夜に交わした言葉なんてなかったことにしているみたいに。
「うん……おはよう」
返した声が、どうしても濁ってしまうのは、たぶん私だけが昨夜を引きずっているせいだ。
真白は、何もなかったように納豆をかき混ぜていた。
朝の光がテーブルに広がる。ぬるい味噌汁の湯気が、カーテン越しの光に滲んで、スプーンの柄にきらりと反射した。
「今日、仕事?」
「うん。夕方まで。柚葉は?」
「午後から」
「じゃあ、お昼前に掃除機かけといてくれると嬉しいな」
ごく普通の会話だった。
それがかえって、夜の記憶をねじ込んでくる。
真白のあの腕の重さ、体温、息遣い。全部、嘘みたいに、ここにはない。
「……なに?」
真白が、じっと私の顔を見ていた。
たぶん、納豆の混ぜ方が途中で止まっていたせいだ。
「ううん、なんでもない」
誤魔化すようにお茶を口に運ぶ。ぬるかった。朝のうちに湯を沸かしたらしい。
彼女の暮らしはいつも、さりげなく私の生活より少しだけ先を歩いている。
布団の中では無邪気に甘えてくるくせに、朝になるともう一人の誰かになって、当たり前みたいな顔で部屋を整えている。
――だからややこしいんだ。
たぶん、どちらも嘘じゃない。
でも、私のどこかが、それを同時に受け入れきれずにいる。
午後一番、予定より早くバイトを終えて帰ると、リビングに彼女の姿はなかった。
寝室の引き戸が半分だけ開いていて、薄暗いその奥に、布団がくしゃっと乱れていた。
……ちょっと昼寝したのかな。
その時、ふと思い出した。昨夜、彼女が指でなぞった手の甲。まだ、かすかに熱が残っている気がした。
私は、自分の指を見た。なにもないのに、何かが染み込んでいるような気がした。
目を閉じると、真白の声が背中からすり寄ってくる。
「じゃあ、もっとぎゅってしたら涼しくなるかも」
そんなの、おかしいに決まってる。
でも――おかしいからこそ、忘れられない。
冷蔵庫の中のペットボトルを取り出して、そのまま額に押し当てる。
ひやりとした感覚が、皮膚の奥で細かく砕けた。
……たぶん、恋じゃない。
そんなものじゃない。
もっと、よくわからなくて、名前のつけようもないものが、私たちのあいだに横たわっている。
そして私は、また今日も夜がくるのを、どこかで待っていた。
その夜は、やけに静かだった。
真白がシャワーから戻ってきて、ドライヤーの音を浴室の前で聞いていたときから、なにかが少しずつずれている気がしていた。
音が遠い。いつもの真白の足音が、なぜか壁を伝って響いてこなかった。
ベッドに入ったあとも、彼女はすぐには腕を回してこなかった。
私は背中を向けたまま、気配だけをじっと探っていた。
布団の中で、真白が身じろぎした。
「ねえ、さ……」
その声は、いつもと同じように落ち着いていたのに、言葉の先が、どこか震えているように感じた。
「ん?」
呼吸が、ぴたりと止まった気がした。
「……もし、あたしのこと、ちょっとだけでも好きだったら、どうする?」
言い終えたあとの沈黙が、耳の奥で膨らんだ。
換気扇の回る音が聞こえる気がしたけれど、それはたぶん気のせいだった。
「……どうって」
私の声が、知らない誰かの声みたいにかすれていた。
真白は、寝返りを打つ音すら立てずに、ただ待っていた。
返事を。
「ちょっとだけって、どういう意味?」
間の抜けた返しだった。
でも、それしか言えなかった。
真白が、微かに笑った。気配だけが笑った。
「ね、柚葉。あたしね、たぶん、ずっと前から、ずっと“ぎゅって”したかったんだと思う」
背中に熱が走る。
「でも、それって……恋人とか、そういうのとは、違うのかもしれないんだけど……」
言葉がぽろぽろとこぼれていく。
「たぶん、柚葉じゃなきゃ駄目だったんだよ。最初から、ずっと」
私の背中が、知らないうちに強張っていた。
肩が、上がっていた。
「それって……」
その先を言えなかった。
というか、言ってしまったら、何かが決定的に変わってしまうような気がして。
沈黙が長く続いた。時計の針の音も聞こえなかった。
「ぎゅってされるの、いやじゃなかったら、それだけでいいよ」
その言葉に、私はなにも言えなかった。
でも、ほんの少しだけ、彼女のほうに身体を傾けた。
背中にあたたかいものがふれた。
それはたしかに、真白の手だった。
その夜、私は抱きしめられることに、何の言い訳もしなかった。
そして、自分の手が、ゆっくりと彼女の指にふれたとき。
それが、たぶん、答えのようなものだったのかもしれない。
休日の朝、珍しく真白が先に起きていた。
炊飯器の音もなければ、台所の物音もしない。カーテンの隙間から差し込む光が、静かに部屋の奥を舐めていた。
私はまだ寝ぼけた頭でその違和感を感じながら、寝具の感触に沈み込んでいた。
「あ、起きた?」
振り返ると、真白が床に座ってこちらを見ていた。
白いTシャツに、毛玉のついた紺色の短パン。寝癖はそのまま、なのに目元だけは異様にすっきりしていた。
「……なにしてんの」
「ぼーっとしてた」
そう言って、彼女はそのまま、立ち上がってこっちに歩いてきた。
すこしだけ躊躇うような足取り。いつもの真白なら、飛びつくように布団に入ってきていたはずなのに。
「昨日のこと、気にしてる?」
そう訊かれると思ってなかった。
でも、訊かれて、少しだけ安心した自分がいた。
「……気にしてないって言ったら、嘘になるけど」
「うん、知ってる。でもさ、無理に応えてほしいわけじゃないんだよ」
そう言って、彼女は足元に座り込んだ。床の冷たさが伝わってきそうな気がした。
「好きとかさ、恋人とか、そういう言葉って、あんまり信じてないの。だから……ぎゅってすることが、全部なの」
その言葉が、まっすぐすぎて。
私は思わずシーツの端をぎゅっと握った。指先が、皺を深く刻んでいく。
「全部って、ずるいね」
「うん。たぶんずるい」
真白はそう言って、私の方に手を伸ばした。
でも、途中でやめた。すごく自然に。まるで最初から伸ばすつもりじゃなかったみたいに。
私は、呼吸のしかたを忘れていた。
喉の奥が乾いて、でも、言葉は出てこなかった。
「……出かける?」
唐突にそう言って、真白は立ち上がった。
部屋の空気が、さっと変わった。
「近くの公園、久しぶりに」
「……行く」
私がそう返したとき、彼女の背中が、すこしだけ緩んだ気がした。
でも、それ以上は何も言わなかった。振り返りもしなかった。
その背中を見送ったまま、私はようやくベッドから身体を起こした。
指先には、まだシーツの皺が食い込んでいた。
外に出たら、陽射しがすこしまぶしかった。
でも、彼女の隣にいると、それすらも悪くなかった。
公園には人がほとんどいなかった。
子どもたちの声も、犬の足音も、今日は遠くの方にしかなかった。
木陰のベンチに並んで座ると、真白はポケットから飴を取り出して、私の膝にそっと置いた。
包み紙に書かれた、見慣れないブランド名。
「限定」とか「季節限定」とか、そういうものに弱いのは、彼女の癖だった。
「さっき、コンビニで見つけた」
そう言って、自分の分を口に放り込む。
私はそれをしばらく眺めていたが、やがて包みを破り、口に入れた。
冷たい甘さが舌の上で溶けていく。
その温度の変化が、なんだか呼吸のしやすさにまで関係しているような気がした。
「……なんで、わたしなんだろうね」
ぽつんと出た自分の言葉に、自分でも驚いた。
真白は少し首を傾げて、けれどすぐに答えなかった。
しばらくして、目を細めるようにして空を見た。
「わからない。でも、なんで“じゃない”って思ったの?」
私は答えられなかった。
誰かじゃなきゃだめな理由と、誰でもいいかもしれない怖さが、ずっと頭の中でくぐもっていた。
飴の芯が歯に当たる。かちん、という小さな音がした。
「昨日、触れられたとき――」
言いかけて、言葉がにごった。
いや、にごらせた。
「昨日、嬉しかった」
そう言ったあと、私は肩の力が抜けたみたいになった。
真白が、なにも言わなかった。
それでいいと思った。
ベンチの下の土が、まだ朝の冷たさを残していた。
指先をその上に滑らせて、濡れた落ち葉の感触を確かめた。
「真白」
名前を呼んだだけで、声が揺れてしまった。
彼女はこっちを向いて、やさしく瞬きした。
「なんでもない。帰ろ」
手はつながなかった。でも、同じ歩幅で歩いた。
その夜は、何も言わずに布団に入った。
背中越しに感じる呼吸の重なり。
真白は、何もしてこなかった。ただそこにいた。
私は、寝返りを打つと見せかけて、そっと振り返った。
彼女の目が、ちゃんと開いていた。起きていた。
言葉にしないで通じる瞬間が、ほんとうにあるんだと思った。
「……ぎゅって、していい?」
訊いたのは、私だった。
その声が、自分のものじゃないみたいに震えていた。
真白が目を細めて、なにも言わず、腕をひらいた。
その腕の中に入るのは、初めてだった。
いつもは彼女が包んでくれていたのに。今日は私が、選んだ。
頬がふれる距離。首筋から流れ落ちる髪の匂い。
胸の奥が、脈ではない何かでじゅわじゅわと膨らんでいく。
「ねぇ」
小さく呼ばれて、私は顔をあげる。
「今日から、“恋人”ってことでも……いい?」
言葉の意味が、肌の上を滑って、沈んでいった。
返事はしなかった。
でも、真白の背中にまわした腕を、少しだけ強くした。
それで十分だと、私は思った。
窓の外から、小さく風の音がした。
しばらくして、真白の寝息が聞こえてきた。
私はその音を聞きながら、ずっと目を閉じていた。
――ぎゅってされてる、じゃない。
今夜は、ぎゅってしたまま、眠った。