堪忍袋の緒が切れました〜わたしを解放してくれない監禁夫から失踪しようと思います〜
「わたし、自由になりたいんです」
7日ぶりに愛人宅から帰宅した夫が顔を見せるなり、わたしはそう宣言した。
「だから、この枷を解いて下さい」
自分の腕と、憎たらしいくらいに大きくて立派なベッドの脚を、ガッチリと鎖で繋ぐ鉄枷を、高々と掲げて。
「は?」
夫は突然オルトリス語を話し始めた池の鯉でも見るかのような目で、わたしを見下ろす。
「ふざけたことを言うな」
「ふざけてなんていません」
世間一般では凛々しく格好良い顔立ちと褒めそやされるらしい夫だが、そうして眦を吊り上げた顔は悪鬼のようで恐ろしい。しかしそんな恐ろしい顔にも怯まず、わたしは言い返した。
「べつにタダでとは言いません。枷を外して解放してくれるなら、あなたのそのわずらわしい呪いを解除してあげます。あなたも、大嫌いな相手と7日に一度顔を合わせる必要がなくなって清々するでしょう。無駄飯喰らいもいなくなって、出費も減ります。良いこと尽くめですよ」
立板に水と言いつのるが、夫の顔はどんどん険しくなるばかりだ。
「お前に俺の呪いが解けるとでも?」
「解除出来ますよ」
「ハッ」
夫は険しい顔のまま、馬鹿にしたように嗤った。
「魔法で封じられているわけでもない鉄枷ひとつ外せないお前がか?」
「外そうと思えば外せますよべつにこんなもの」
ジャラリと鎖を鳴らして手を振る。
「ただ、不本意ながら曲がりなりにも一応は、国王にも教会にも伴侶と認められてしまっている相手ですから、許可も得ず黙って出て行くのは悪いかと思って、こうして馬鹿正直に真正面から交渉しているんです」
「まるで俺が夫であることが不満だとでも言いたげだな」
「心底不満ですが?」
誰が、妻を監禁しておきながら、自分は複数の愛人と遊び歩いてよろしくやっている男が夫で、嬉しいと思うのか。切実に御免だ。受け入れ難い。そうでなくてもこの夫の顔も声も体付きも性格も嫌いで、王命でなければ絶対に結婚などしたくない相手だと言うのに。
「まああなただって、醜女の妻は不満でしょうけれど、醜女にだって好き嫌いはあるんです」
聞こえよがしにため息を吐いて首を振る。
「そもそも美醜の感じ方なんてひとそれぞれですからね。わたしのような顔が美人だとされる土地も、国や時代が違えばあるかもしれません。そして、わたしはあなたのような男は好みではありません。ましてこんな枷をはめられ鎖で繋がれれば、余計、好きになる要素などないでしょう。お互いに嫌いで不満なのに、夫婦でい続ける意味が感じられません」
それでも王命だからと今日まで耐えて来たが、良い加減我慢も限界だ。
「呪いが問題だと言うなら解除します。お金が入り用だと言うなら、籍だけ残してわたしの年金はご自由に使えばよろしい。わたしが求めるのは、自由だけです。自分の足で、どこへなりと自由に行きたい。自分の面倒は自分で見ますし、食い扶持稼ぎもアテがあります。あなたに面倒は掛けません。ですから、枷を解いてここから解放して下さい」
3年。3年だ。
王命で婚姻を強制されてから3年間。ここで鎖に繋がれて、この部屋から一歩も出られず生活している。窓を開け、バルコニーに出ることすら許されない生活だ。もう十分だろう。
枷のはめられた手を突き出して、夫を見据える。
「…………」
凄まじい形相で睨まれたが、目を逸らしはしなかった。これ以上監禁生活を続けることに比べたら、悪鬼羅刹の顔がいかほどのものか。もう、こんな生活はうんざりなのだ。
夫は無言のまま、おもむろにわたしの手枷に手を伸ばすと、
「寝言は寝て言え」
乱暴に枷を掴んで引き、否応なく引き寄せられたわたしの後頭部を掴むと、噛み付くように口付けた。それから、投げ捨てるように、わたしをベッドへ突き放す。
「無能の戯言に付き合ってられるか。お前は黙ってここにいればそれで良いんだ」
ベッドに倒れ込んだわたしを見下ろして吐き捨てると、夫は部屋から出て行った。また、愛人の許に向かうのだろう。
息を吐いて、起き上がる。
「その、無能のお陰で生きられているくせに、どの口でお言いでしょうね」
濡れた布巾でゴシゴシと口を拭い、布巾を投げ捨てる。
「さて」
どれほど不本意だろうが仮にも夫だからと慈悲を見せようとしたが。
「堪忍袋の緒が切れました」
取り付く島もないとは、まさにあのような態度のことだろう。そちらがその気なら、こちらも通してやる道理はない。好きにさせて貰う。
とは言え、"夫が呪いで死なないようにすること"は王命だ。勝手に背くわけにも行かない。
「あの呪いは、7日に一度、オルルの血を持つ娘に触れなければならないと言うもの。"オルルの血を持つ娘"であれば、人間でなくても問題ない」
それこそ、その辺の犬や猫でも良い。
「つまり、こうしてわたしの血を取って、こうして入れておけば、あなたでも良いと言うことですよお嬢さん」
小瓶に血を入れて蓋をし、腹を開いた人形の胎に押し込む。元通りに腹を縫い直せば、オルルの血を持つ人形の完成だ。女の子を模した人形だから、オルルの血を持つ娘である。
「では、これからはわたしの代わりをお願いしますね」
わたしとは大きさが違うので、手枷は首枷にした方がちょうど良い。人形の首に枷を移して、3年振りに解放された手首をなでる。くっきりと、枷の跡が痣になっていた。
「目立ちますねこれ。消えるのかな」
まあ、追々考えよう。
頷いて、3年間伸び続けた髪を燃やして短くする。ついでに髪や目や肌の色も変えて、服も着替える。うん。さっぱりした。
「これで多少、目眩しになるかな。と言っても、見つかるようなとこにいる気はないけれど」
もう今日中に国は出るつもりだ。せっかくの自由だ。どうせならとことん遠くまで行きたい。
「ああ、いっそ、魔界に行ってしまいましょうか」
片言ではあるが、オルトリス語は話せる。魔界に行ってもある程度、会話は成り立たせられると思う。多分。
この国でオルトリス語を話せる人間なんてまずいない。よほどの変人だけだ。わたしだって、3年も監禁され続けなければ、オルトリス語なんて学びはしなかっただろう。そもそも、教えられるひとがいない。教本すらない。ひたすら独学、力技だ。
つまり、共通言語がオルトリス語の魔界に行ってしまえば、万が一、国や夫がわたしを探そうとしたとしても、まずまともに探しに行ける人材すらいない、と言うこと。
そう考えると、逃亡先として魔界がいちばんな気がして来た。うん。そうしよう。
そうと決めれば即行動だ。この部屋に思い入れも未練もない。
「……兄上に釈明だけしておきましょうか」
3年間『今日も鎖で繋がれている』と言う書き出しで綴り続けた日記に、『もう耐えられません。旅に出ます。探さないで下さい。』と記した手紙を添えて、兄に送る。3日後くらいに届くように。
うん。まあ、これで通す義理は通しただろう。あとは知らん。では。
「いざ行かん、新天地へ!」
わたしは、3年過ごした部屋を捨て、未知の世界へと旅立った。
ё ё ё ё ё ё
「おお……ここが、魔界」
そして降り立った魔界に、感嘆の声を上げ。
「思ったより、人界と変わりありませんね?」
すこし、肩透かしを喰らって拍子抜けした。
もっとおどろおどろしいところかと思っていたが、そうでもないようだ。住めないくらい違う環境だったら困ると思っていたので、ありがたいことである。
「となれば、まずは生活を確立させないとですね」
魔界の方々は、どんな生活をしているのだろうか。通貨は?文明や、技術の発展度合いは?
共通言語がオルトリス語だと言うことは知っているが、それ以上の細かい情報は知れなかった。
誰か、親切な方を捕まえて、話が聞けると良いのだけれど。
うっかり裏社会の真っ只中にでも出て、奴隷商にでも捕まって、ふたたびの監禁生活は嫌だと、街中は避け、大自然のなかを選んで転移した。それが仇となって、ひとっこひとり見当たらな、
[は!?なんでこんなところにひとが、って、まさか、人間か!?なんで魔界に人間が]
見当たらないと思ったところで、爆速で走るなにかがやって来て、わたしのそばで止まった。ひとが顔を出して、そんなことを言う。どうやら、乗り物のようだ。馬も代わりの引き手もいないのに動いているが、車輪が見えるから車だろう。どうやって動いているのだろう。
どうやら魔界は、人界よりも進んだ技術がありそうだ。
[おい、あんた、って、人間じゃ通じないか。えー?人間の言葉なんて知らないぞ。どうすりゃいんだ]
[あの、言葉、少しならわかります。ゆっくり、易しい言葉で、話して下さい]
[え、お、おお、そうか]
わたしのオルトリス語は、とりあえず通じるようだ。それにひとまず安心し、乗り物に歩み寄る。話し掛けて来た方は見たところ、魔族の男性のようだ。わたしに対して警戒はしているようだが、敵意はない。
[それじゃ、訊くが。あんた、なんでこんなとこに、ひとりでいるんだ?ここは辺境だし、治安もそう悪くないが、それにしたって、あんたみたいな美人、ひとりでほっつき歩いていたら、人間だとしても、攫われて、売り物にされるぞ]
美人、と言ったか。お世辞でないとしたら、もしや、魔界では本当に、わたしのような顔が美人なのだろうか。
[逃げて、来ました]
[逃げて?もしかして、奴隷商からか?もし、不当に人界から、攫われて来たなら、保護してくれる、場所があるぞ。連れて行けば、俺に謝礼も出るから、乗せて行こうか?]
ふむ。善人寄りの方らしい。
[いいえ。攫われて来たわけではなく、人界から逃げて来ました]
[人界から、魔界に逃げて?そりゃまた、どうして。そこまでして、逃げなきゃいけないような、悲惨な戦争なんかは、とくに起きて、ないだろう?]
[ええ。戦争のせいではありません。個人的な事情で、夫と国から、逃げて来ました]
男性の警戒が強まる。
[まさか、逃げ出した犯罪者とかじゃないよな]
[違います。その]
同情を買えば、保護して貰えるだろうか。
[王命で、婚姻を結んだ夫に、3年間も監禁されていたんです。ずっと、手枷をはめられ、鎖に繋がれて、1日たりとも、外に出して貰えなくて]
手首にくっきり残った手枷の跡を見せれば、男性は目を見開いて驚いた顔をした。
[監禁!?奴隷ではなく、妻をか?あんた美人だし、夫を放って、遊び歩きでもしたのか?]
[まさか。遊び歩いていたのは夫の方です。わたしを監禁しておきながら、自分は何人も愛人を作って入り浸りです]
[そりゃ酷いな。人界ではそれが普通なのか?]
首を振る。そんなのは、普通ではない。
[なら、周りに助けを、求められなかったのか?3年も、妻が外出しないなんて、おかしいと思うだろう]
首を振る。普通なら、許されない。助けを求めれば、救って貰えたはずだ。だが、わたしは違う。
[王命で、夫を死なせないようにすることを、命じられていたんです。夫は英雄で、呪いを受けていて、わたしは、オルルの血を持つ娘だから]
だから国王は、わたしと夫の婚姻を命じたし、夫もそれを受け入れた。そして、生命線であるわたしが、逃げないように鎖で繋いだのだ。
[守護の乙女の血筋か]
[ええ。どんな呪いも、わたしに触れれば、無力化されます。ただし、守護は永遠ではない]
呪いの強さにもよるが、数日から数年で、無力化は切れてしまう。
[どんな呪いも……]
[特別な血を持った宿命と、3年は耐えました。けれど、本当は、自由に生きたかった。ずっと、自由に旅する人生を、夢見ていました。夫にかけられた呪いは、強力なものです。そう簡単に、解けるものではありません。それでも]
そう、それでも。
[わたしがオルルの力をすべて懸ければ、解除出来ないものではありません。オルルの血を持つ娘としての力を失っても、呪いを解除するから、手枷を外して自由にさせて欲しい。夫にそう懇願しましたが、叶えては貰えませんでした。だから、隙を突いて、逃げ出して来たのです]
ボロボロと、溢れる涙を両手で覆う。
[オルルの血を持つ娘は貴重です。国に見付かれば連れ戻されるでしょう。また、夫の妻として監禁される日々か、今度は別の男の妻にされるか。わたしに、自由などありません。それが嫌で、こうして、追手も来られないであろう魔界まで、逃げて来たんです]
[あんたが逃げれば、あんたの夫は]
[身代わり人形を置いて来ました。無力化だけであれば、本当はそれで十分なんです。わたしを、鎖に繋いだりしなくても。もちろん、人形ですから壊れれば、効果はなくなってしまいますが]
[そう、なのか]
最初と目の色が、違う。
それはそうだろう。
目の前のこの男性も、強い呪いを受けている。呪いを無力化出来る娘など、喉から手が出るほど欲しいはずだ。
[……つまり、まだあんたは、オルルの血を持つ娘のまま、ってことか?触れれば、相手の呪いを、無力化出来る?]
[はい。出来ます]
伸ばした片手に惹かれるように、男性が手を触れる。そうして、目を見開いた。
[なんてこった……]
[あなたは、旅人ですね]
[ああ。"渇く呪い"だ。ひとつところに居続ければ、その土地がみるみる渇いて不毛の土地になる。俺自身も、いくら水を飲んでも、喉の渇きが消えない。消えない、もんだった]
わたしの手を握り締める、男性の手は震えていた。
[強い呪いですね。無力化も、長くは続きません]
[とんでもねぇ願いの代償に、神から与えられた試練だからな]
オルルは、そんなものすら無力化出来るとは、と、男性が呟く。
[わたしを監禁して、日に一度触れるようにすれば、ひとつところに定住することも出来ますよ]
[あんた、それが嫌で出て来たんだろ]
[はい]
[ならやらねえさ。自分のために、誰かを不幸になんてしたくはねえ]
魔界で最初に出会った相手がこんな善人であったことは、きっと幸運なのだろう。
[それなら、ひとつ、提案したいのですが]
[なんだい?]
その効果こそ、身の上の証明となったのだろう。警戒を解いた男性が、わたしに尋ねる。
[わたしは、旅をしてみたかったんです。でも、魔界でも、女性のひとり旅は、危険なのでしょう?]
[ああ、そうだな。とくに、あんたみたいな美人は、余計危険だ]
[……わたし祖国では醜女で通っていたのですが]
[そうなのか?俺の国じゃ、あんたみたいな、切れ長の目で、鼻筋の通った、唇の薄い女は、とびっきりの美人って言われるぞ]
所変われば品変わるとは言ったもの。本当に、美醜なんて可変の価値観だ。
[そうですか。なるほど。とにかく、女性のひとり旅は危険ですし、わたしは魔界の土地勘もありません。なので、出来れば、旅の道連れが欲しいところでして]
[まさか俺に、道連れになれって言うつもりかい?こんな素性も知れねえ、行きずりの男に?]
[素性が知れないのはお互い様ですし]
苦笑して、首を傾げる。
[ひとを見る目は良い方です。なにせ、外では美男の英雄と持て囃される男がとんでもないクズだと、一目で気付いたほどなので。あなたは、とても良い方だと思います]
[そいつはどうも]
[ですのであなたが良ければ、同行させて頂けませんか。魔界の常識を、教えて下さい。代わりにわたしは、あなたの渇きを癒します。ほかにも呪いを受けた方がいるなら、その方の呪いも無力化しましょう。永遠に、効果が続くわけではなくて、申し訳ないですが]
男性が真面目な顔になって、問う。
[あんたの力は、女にも効果があるのか?男だけ?]
[老若男女問わず、触れれば呪いを無力化します]
[そうか……]
男性は頷いて、ずっと握ったままだった手を離す。
[わかった。あんたを旅の道連れにしよう。代わりと言っちゃなんだが、母親と妹が呪いで苦しんでる。友人も何人か。助けてやっちゃくれねえか?]
[喜んで]
[ありがとな]
男性は呟くと、なら乗りなと言った。
[乗り方はわかるかい?]
[いえ、見るのも初めてです]
[そこからか。良いさ、ひとつずつ覚えりゃ良い]
そうして、見ず知らずの男性との旅が始まった。
ё ё ё ё ё ё
やはりわたしのひとを見る目は確かで、善人の人格者だと思った相手は、思った以上に底抜けのお人好しだった。そもそも呪いを受けた理由が、苦しむ国民を救うためだったって言うんだから、筋金入りだ。
そんな相手との旅は、未知との出会いの連続だったこともあり、心底楽しく充実したものだった。
まあ、後々、彼が呪いのせいで継承権こそ失っているが、一国の王子で、呪いで苦しむ母親と妹が、女王と王太子であると知ったときは、さすがに度肝を抜かれたけれど。お陰で権力に困ることなく、貧乏にあえぐこともなく、快適な旅が出来た。呪いの無力化に、莫大な謝礼も出た。
[逃亡先に魔界を選んで正解でしたね]
[そう言って貰えると俺としては嬉しいが、あんたを最初に見付けたのが俺じゃなければ、奴隷落ちだっておかしくなかったからな?あんまり、突拍子もないことは、もうしてくれるなよ?]
最初は片言だったオルトリス語も、すっかり達者になった。
[でもやっぱり、人界で逃げ回っていたら、もっと追手に怯えてたでしょうし、不自由していたかもしれませんし]
[まあ、それはそうかもな。いまだって、あんたの国や夫は、血眼であんたを探してるかもしれないし]
旅の相棒は今日も隣で、ひとの良さそうな笑みを浮かべている。かつての夫の悪鬼羅刹の形相とは、大違いだ。
[ま、もし、魔界に追手が来たとして、見付けさせないし渡さないさ。あんたは安心して、旅を楽しむと良い]
[ありがとうございます]
もうすぐ、国を出て3年が経つ。祖国の法では、失踪して3年が経った相手との婚姻は、配偶者死亡の扱いで破棄される決まりだ。あと少しで、名実ともに、あの夫からおさらば出来る。
だいぶん薄くなった手枷の跡を見下ろしてから、その手を挙げて思いっきり伸びをした。
[自由って、素晴らしいですね!]
今度は自分で、新しい夫を決めても、良いかもしれない。
つたないお話をお読み頂きありがとうございました!