突然の帰還
リリアの背中を追いかけて学生寮の階段を駆け上がると、目の前には無機質な長い廊下がまっすぐ伸びていた。
壁際には左右対称に部屋の扉が並んでいて、形状がどれも似すぎているせいか、まるで同じ部屋が続いているように見える。俺はゼェゼェと息を切らしながら奥へ進んでいき、ようやく先に駆け込んだリリアの姿を捉えた。彼女は廊下の突き当たりにある一室の前で立ち止まり、扉を開け放っている。どうやらそこがリリアの部屋らしい。
「……その、さっきはごめん。余計なことを言ってしまった」
息を整えつつ謝罪の言葉を口にすると、リリアは拗ねたような顔でそっぽを向く。しんとした静寂が廊下を覆い、気まずい空気が流れた。
「……もういいわ。ほら、入って」
「ああ……ありがとう」
リリアは小さく息をつき、部屋の中へ俺を促す。扉の向こうに足を踏み入れると、日本式に言うならば十畳ほどのワンルームといった印象だ。中央に机と椅子がひとつずつ置かれ、端には少し幅の広いベッドがある。衣装棚や小物入れが所狭しと並び、女子学生らしい生活感が漂っていた。
しかし当然のことながら、ベッドはひとつきり。思わずそこへ視線を向けた瞬間、リリアが慌てたように声を張り上げる。
「ちょっと、勘違いしないでよね? そこは私が寝る場所なんだから!」
「はいはい、わかってるよ。俺は床で寝るから」
リリアは頬をわずかに染めながらも、そっけない口調だ。あの嫌な同級生・ジュリエンヌにいろいろ言われて気が立っているのだろう。俺も変な誤解を生まないよう、両手を挙げて降参のジェスチャーをする。
そうしてひとまず“リリアはベッド、俺は床”という寝る場所が確定し、やっと落ち着けるかと思いきや、彼女はまだどこか不機嫌そうだった。しかし、長い一日を終えて疲れているらしく、あまり喧嘩腰になる気力もないらしい。
――それからしばらくして夜も更け、俺は部屋を少し出て大浴場に行き、汗を流して戻ってきた。リリアも先に入浴を済ませていたようで、髪をタオルで拭きながらベッド脇で立っている。
学園には大食堂があるらしいが、今日はもう夜遅いので閉まったようだ。俺たちは持参した保存食を口にして空腹をしのいだ。
「……はぁ。とんでもない一日だったわね」
リリアは安堵のため息まじりに自室のドアを閉める。俺もようやく腰を落ち着けることができた。足は棒のように疲れているし、空腹を感じるが食堂はすでに閉まっている時間だ。
「まあ、慣れない学園や寮を歩き回ったし、疲れたよ」
「明日からまた授業があるし、朝はちゃんと起きてよね」
リリアはベッドのそばに立ち、窓を少しだけ開けて夜風を入れる。そして、ふと何かに気づいたようにピタリと動きを止めた。
「……あ」
「どうした?」
声をかけると、リリアはそわそわと視線を彷徨わせ、恥ずかしそうに口を開く。
「えっと……着替えたいんだけど」
「ん? 着替えは持ってきたんじゃないのか?」
「ちがう! そうじゃなくて……! あんたが部屋の中にいたら無理でしょ!」
リリアの頬がさっと赤く染まり、少し怒ったように叫ぶ。彼女にしてみれば、同室で男がいる状態で着替えるのは抵抗があるらしい。
「……ああ、そりゃそうだ。じゃあ、あっち向いてるから」
「……そうじゃなくて、ちゃんと部屋から出て行ってよ! もう!」
机をバシッと叩かれ、思わず背筋が伸びる。年頃の女の子の感覚というのは、やはり俺にはよくわからないが、ここは大人しく従うしかない。
「わかったわかった、悪かったよ。じゃ、しばらくドアの外にいるから終わったら呼んでくれ」
俺は急いで部屋から出て、扉を閉める。小声でリリアが「まったく……」と呟いているのが聞こえたが、もうどうしようもない。数分ほど廊下で待っていると、部屋の中から声がする。
「……もういいわ、入ってきて」
中に戻ると、リリアはパジャマのような寝間着に着替えていた。気恥ずかしさがまだ残っているのか、頬にうっすら赤みが差している。
「悪かったよ。気配りが足りなかった」
「……まぁ、いいわよ。次からは気をつけて」
リリアは少しぷいっと横を向くが、先ほどよりは柔らかな態度だ。
それから俺は床に毛布を敷いて即席の寝床を用意し、リリアはベッドへ。部屋のランタンを落とすと、辺りは闇に包まれた。窓から差し込む月明かりだけがかすかに床を照らす。
「はぁ、やっと寝られそうだ……今日は本当に慌ただしかったな」
「そうね……。私も疲れたから、もう寝るわ」
ベッドからリリアの寝返りする気配が伝わってくる。俺も毛布に身体を沈め、そっと目を閉じた。
(ノルデン村から始まったこの騒動……学園生活も、どうなることやら)
いろいろ考えたいことはあるが、疲労が限界に近い。意識が薄れていく中で、リリアの寝息が微かに聞こえた気がした。
***
――そして、次に意識が戻ったとき、俺はオフィスの机に突っ伏していた。
「……ん? あ、あれ? リリア……?」
目を開け、周囲を見渡す。
そこは見慣れたデスクの風景だった。深夜残業どころか完全なオフィス泊になったらしく、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
資料やキーボードに頬を押しつけていたせいで、顔にはくっきりと跡がついていた。
つい先ほどまで、迷路のような魔法学園を歩き回っていたはずなのに……一気に現実に引き戻された気分だ。
「ああ、あれは夢……。そうか、残業が限界で寝落ちして……はぁ……いや、あんなリアルな夢、あるか……?」
頭はまだぼんやりしているが、パソコンのモニターに目をやると、深夜に走らせていたデバッグ作業がなぜか成功しているようだ。
ログにエラーが一つも出ていない。
わけもわからず、思わずつぶやく。
「バグが直っている……? 俺、寝落ちしていたはずじゃ……?」
時刻は朝の八時。出社する同僚がちらほら姿を見せ始める頃だ。
とにかく寝落ちしていた事実を誤魔化すように、俺は立ち上がって大きく伸びをする。
その瞬間、ノルデン村の暖炉やリリアの顔が頭をよぎり、胸がざわついた。
(あいつ、ちゃんと起きれただろうか……? いや、夢なら気にしたって仕方ないのか?)
混乱は拭えないものの、目の前には現実の仕事と上司からのメールという、いつもの景色が広がっている。
けれど俺の心は、あの夢のなかで見た“異世界”にあった。
こうして、俺の“異世界転移”初日は幕を下ろし、また新たな過酷な一日が始まろうとしている。
だが、この先もたびたび訪れるであろう“異世界でのデバッグ作業”が、現実にどんな影響を及ぼすのか――それを知るのは、まだ少し先のことになる。