馬車と魔法と、遠い道のり
木製の車輪がごとごとと地面を踏みしめるたび、座席が小さく弾む。まるで小舟に揺られているような感覚だ。
俺はリリアとともに馬車に乗り、魔法学園へ向かっていた。朝早く出発したばかりだというのに、もう尻が痛い。慣れない旅に戸惑いつつ、馬の蹄のリズムに合わせて外の景色をぼんやりと眺める。
村を出てから、そろそろ数時間。道の整備は十分とは言いがたく、見渡す限り田畑と低い丘が連なっている。のどかな風景とは裏腹に、俺の頭にはある疑問が浮かんでいた。
「なあ、リリア。魔法が使える世界なのに、なんで馬車で移動するんだ? 箒に乗って空を飛んだりとか、できないのか?」
ちらりと隣を見ると、リリアは「はあ?」と大げさにため息をつき、あきれた表情を見せる。
「空を飛ぶ魔法? 本気で言ってるの?」
「ああ、箒にまたがってビューンって……そういう魔法少女みたいなの、ないの?」
「魔法少女って何よ……。とにかく無理よ、そんなの。人間の身体を宙に浮かせるなんてありえないわ」
高らかに否定され、俺は思わず首を傾げる。魔法と聞くとまず空を飛ぶイメージが浮かぶのだが、ここでは非常識らしい。けれど、まだ納得はしきれない。
「じゃあさ、魔力で車を動かすとかは? 馬よりは便利だろ」
「一応、技術としてはあるわよ。でも莫大な魔力が必要になるの。大人の魔法使いが何人も交代で注ぎ続けなきゃいけないし、それを何日もやるなんて相当きついわ」
「なるほど……非効率的なのか」
「そう。馬を雇うほうがよっぽど安上がりだし、メンテナンスも楽なの」
なるほど、と俺は納得する。いくら魔法の世界といえど、人力や資金は無尽蔵じゃない。馬に任せるのが確実だろう。とはいえ、異世界に来たばかりの俺には疑問が尽きない。
「じゃあ、魔力を石みたいなものに封印して使う手はないのか? エネルギーを溜めておいて動力源にするとか」
「……魔石に魔力を封じ込める方法はあるけど、体内に保持する場合と比べて蓄えられる量はほんの数分の一。それに魔石自体がすごく高価なのよ。王様や貴族クラスじゃないと扱えない代物ね」
次々と答えを返すリリアを見ていると、落ちこぼれ扱いとは思えないほど知識が豊富だと感心する。実技が苦手でも、座学は相当やり込んできたのだろう。
そういえば今朝、俺が目覚めるよりも早く、リリアは机でノートを広げていた。あのときの必死な表情が、なんとなく脳裏に残っている。
退学候補のわりには、しっかり勉強してるんだな――そう言いかけてやめた。面と向かって口にすれば、またリリアが頬を赤くして怒りそうだ。
「なによ、その顔」
「いや、すごいなって。いろいろ知ってるし、答えも的確だし……」
思わず褒めつつ、俺は軽い気持ちでリリアの頭をぽんと撫でてしまった。後輩をねぎらうようなノリだったが、それがいけなかったらしい。
「ちょ、何触ってんのよ!」
リリアがかっと目を見開き、顔を赤らめながら睨みつける。
「ご、ごめん。つい……」
「子ども扱いしないで! それに勝手に触らないでよ!」
「わかった、悪かったよ」
リリアの怒気をはらんだ声に、俺は慌てて謝った。頭を撫でる行為が、この世界ではどういう意味を持つのかもわからない。何より彼女のプライドを傷つけたなら、俺の軽率さは否めない。
それきり会話が止まり、馬の蹄や車輪のきしむ音だけが響く。鉛のように重たい沈黙を感じながら、俺はどうにか話をつなごうと口を開いた。
「え、えっと……学園にはあと何時間くらいで着くんだ? このペースなら夕方までに――」
期待を込めた言葉が終わるより早く、リリアは鼻で笑うように応じる。
「三日よ」
「……え?」
「三日」
俺は思わず固まった。せいぜい半日程度と思っていたが、現実ははるかに厳しい。そういえばリリアの祖母は、出発前に大量の食料を持たせてくれた。パンや干し肉、水に果物……あれは三日分だったのか。
「……ってことは、生徒はみんなそんな遠方から通ってるのか?」
「農村に住んでるのは私だけ。大半の生徒は王都の貴族や諸侯の子息で、そこからなら半日もあれば学園に着くわ」
リリアはそれ以上語ろうとしない。口調から察するに、家が名門でも貴族でもないのは明白だ。周囲からの風当たりが強かったのかもしれないし、深くは聞かないほうがいいと感じた俺は、ただ相槌を打つにとどめた。
「そうか……」
また沈黙。リリアも何か言いたげではあるが、結局は口をつぐむ。自分の境遇を語っていい気分になれるわけもない。下手に首を突っ込んで場を荒らすのもよくないと判断し、俺は馬車の揺れに身を委ねることにした。
窓の外には、どこまでも続く緑の大地と澄んだ青空。ふつうなら心が晴れやかになる景色だが、どうにも落ち着かないのは、リリアとの気まずい空気のせいだろう。
思い返せば、俺がこの世界に来てから数日しか経っていない。リリアにとっては得体の知れない存在が急に現れたようなものだし、彼女自身、退学寸前の危機で頭がいっぱいだろうから、そう簡単に心を許すはずもない。
そんな気まずさを破るように、今度はリリアが口を開いた。
「ところで……あんた、“システムエンジニア”とか言ってたわよね? それって何なの? “プログラム”がどうとか言ってたけど、結局よくわからないままなのよ。あんたは一体何者なの?」
リリアは膝の上で腕を組み、困惑した顔をこちらに向けている。
「悪い人じゃないのはわかったけど、あんたの言うことがいちいち難しいのよ。服装も変だし、黒いジャケットに白い襟シャツなんて見たことない」
確かに、見慣れない服と聞き慣れない言葉。俺が怪しまれるのも当然だ。かといって正直に話しても混乱させるだけだろう。
「うーん……そうだな。“システムエンジニア”ってのは、要するに“仕組み”を考えて作る仕事だと思ってくれればいいよ。“プログラム”ってのは、その仕組みを動かす呪文みたいなもんで……」
自分で説明しながら、やはり難しいなと痛感する。この世界にパソコンやネットワークなんて存在しないのだ。
「まあ……他の国ですごく大変な目にあって気を失ったら、リリアに召喚されてたってとこかな」
「……ふーん。そう」
リリアは納得しきっていないようだが、それ以上は突っ込まない。貴族の身分ではなく、両親の死を経て苦しい立場にある彼女には、あえて触れられたくない事情があるのだろう。俺の事情も同じように深追いしないのは、そのせいかもしれない。
ほどよい距離感を保つように、俺たちは馬車を揺らしながら旅を続ける。
三日後にはリリアが学園に戻り、退学寸前の瀬戸際で再挑戦することになる。俺の“保護者”としての役割も、本格的に試されるはずだ。そう思うと、胸がそわそわして落ち着かない。何が起きるかはわからないが、この世界での物語はまだ始まったばかりなのだ。