残業地獄で倒れたら、そこは魔法の世界だった
――カタカタカタ。
夜のオフィスに響くキーボードの音は、もはや子守唄というより耳障りなノイズだ。頭痛は治まらず、視界もぼやけている。
少しでも手を止めれば、残った仕事が地獄のように積み上がるだけ――それがわかっているから、やめるにやめられない。
俺の名は後藤亮太。社内システムの保守担当エンジニア、いわゆる“火消し役”だ。
時刻は深夜二時を回っている。
エアコンは省エネモードで生ぬるい風しか出していないし、オフィスの空気は冷え切っている。まわりを見渡しても、同僚の姿はもうない。
一年前、「頼もしい仲間たちと一緒に」と期待してこの部署に配属されたが、なぜか大規模トラブルのときはいつも俺だけが残される。
「おかしいだろ……普通なら上司や部下も残ってくれそうなもんなのに……」
つい口に出してから、二つ隣の席をちらりと見る。そこにいた後輩は一時間前に「終電ギリなので失礼します!」と疾風のごとく去った。
上司に至っては「よろしく~」と言い残して早々に帰宅。もはや毎度のことだ。
机の横には山積みの空エナジードリンクの缶。
いくらカフェインを入れても、これだけ睡眠不足が続けば頭はまともに動かない。
「……こんなの、完全にブラック企業じゃないか……」
椅子に深くもたれかかり、思わずため息をつく。先月だけで残業は百時間を超えたし、トラブルが起きれば常に俺一人が深夜対応を任される。
「残業が多いだけ」ならまだしも、“何か起きれば全部俺”という構図がつらい。
今回の問題は、稼働中のシステムに「無限ループが発生しているらしい」というもの。ログサーバーにはエラーメッセージが延々と流れていて、コードはぐちゃぐちゃ。原因がどこなのか全く見当がつかない。
「うーん……ここか? 違うな……まいったな」
目をこすりながらモニターを見つめていると、頭がふらついた。もう三十時間以上まともに寝ていない。
上司に相談すれば「エンジニアなら普通でしょ?」と鼻で笑われ、同僚に話しても「よくあることですよねー」と適当に流される。
“IT業界だからしょうがない”――そう自分に言い聞かせてきたが、さすがに限界が近い。
「はあ……少しでもバグを見つけないと、明日の朝までこのままだな」
障害が起きるたびに「早く直せ!」と騒ぐ上司や営業。だが結局、深夜まで残るのは俺だけ。理不尽さに腹を立てても、戦うのはいつも一人だ。
薄暗いフロアの照明までが、まるで俺のやる気を吸い取るかのように感じる。パソコンが警告音を鳴らし、チャットツールの監視ボットがまたエラー通知を送ってきた。
「……もうやだ。誰か助けてくれよ……」
胸の鼓動がやけに速い。エナジードリンクの飲みすぎか、ディスプレイの文字がにじんで見える。
どうにかキーボードを叩き続けていると、意識が急速に遠のいていった。
「はあ……こんなの……明日こそ……誰かに……」
声が自分から離れていく。限界を超えた疲れがどっと押し寄せ、気づけばキーボードに額をつけたまま――完全に意識を失っていた。
***
目を開けると、オフィスの冷たい床ではなく、枯葉の積もった地面が視界に入る。見上げれば鬱蒼と茂る木々の天井。月明かりが隙間から差し込む、不気味な森の奥だ。
そして俺の周囲には、紫色に光を放つ奇妙な“魔法陣”のような紋様が描かれている。まるでホラー映画のワンシーンみたいに、禍々しい光がゆらゆらと揺れ動いていた。
「な、なんだこれ……? ここはどこだ……?」
頭がまだ混乱している。白い襟シャツはよれよれで、ジャケットには枯葉がこびりついていた。仕事着姿のまま、こんな森の真ん中に放り出されているなんて到底信じられない。
けれど、生々しい土のにおいや肌にまとわりつく冷気は、夢にしてはあまりにリアルすぎる。どうしたものかと呆然としていると、不意に声が聞こえた。
「――召喚、成功した、の……?」
振り向くと、腰まで届く金髪を揺らした少女が腕組みしてこちらを見ていた。どこかファンタジーじみたローブを纏い、短い杖を手にしている。
童顔なのに、驚くほど整った美形の顔立ちだ。身長は150センチほどで、中学生か高校生くらいに見える。
その少女はか細い声で、俺に尋ねる。小さな肩がかすかに震えているようだ。
「ねえ、あなたは私のサーヴァント、でしょ? 名前は?」
召喚? サーヴァント? 聞き慣れない単語が飛び出し、俺は思わず目を瞬かせた。
「しょ、召喚? なんのことだ? ていうか、ここ……どこなんだよ。俺は後藤亮太っていうんだが、会社で残業してて、そのまま寝落ちして……気づいたらここに……」
深夜のオフィスで残業をしていた記憶までははっきりある。もし本当に寝ているだけなら夢の可能性もあるが、あまりにも鮮明な景色や少女の戸惑う表情を見ていると、とても夢とは思えない。
「……“カイシャ”? “ザンギョウ”? それはどんな呪文? ねえ、あなたは魔法を使えるのよね? 私のサーヴァントにふさわしい、強力な魔法を」
少女は苛立ちを隠せない様子で、杖を握る手にぐっと力を込めながら身を乗り出す。
「ちょ、ちょっと待て! 魔法って……ははは、何言ってるんだよ!」
俺が半笑いで返すと、少女の眉間に皺が寄った。
「何がおかしいのよ。私は真剣に聞いてるのに……」
彼女は下唇を噛み、視線を逸らさない。
「いやいや、だってさ、魔法? 召喚? そんなに真剣な顔で言われたら笑うって。あ、もしかして何かのイベントか? すっごい凝ってるけど……」
俺が軽い調子で言いながら腹を抱えかけると、少女は杖をぎゅっと握りしめ、その細い指先が震えているのが見えた。
「あなた……私を笑ってるの?」
怒りだけじゃない。どこか不安げな震えが少女の声に混ざっている。俺はハッとして、すぐに笑いを引っ込めた。
「悪い。でもどう見てもおかしいだろ。魔法なんて……はは、それにサーヴァント? 俺はただのシステムエンジニアだよ」
「……システム……エンジニア? 何よそれ、サーヴァントじゃないってこと?」
少女は苛立ちをこめて足を踏み鳴らす。けれど俺にしてみれば、この森も魔法陣も、彼女の言うこともすべて理解不能だ。
「……当たり前だろ。魔法とか召喚とか言われたって、俺にはさっぱりわからない。それに、俺にはまだ仕事が残ってるんだ。会社にはどうやったら帰れる?」
少女は大きく息をつき、歯がゆそうに杖を持ち直す。
「……召喚は失敗、なのね。こんな……役に立ちそうもない人間が出てくるなんて……」
俺はその言葉に少しムッとしながらも、どう返していいのかわからずに唇を噛む。会社で残業三昧の社畜とはいえ、初対面の子供から「役に立たない」と言われるのはさすがに応える。
「ちょっと待ってくれよ。そっちが勝手に俺を連れてきたんだろ? 俺は何も頼んでないし、魔法使いでもなんでもない。そんなもん使えたら、とっくに残業なんかしないで済んでるって……」
俺の言葉を最後まで聞かず、少女は突然ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「こんなの……最悪。禁術まで調べて、あんなに必死で準備したのに! どうして……私の最後の希望だったのに……!」
彼女はしゃくり上げながら、夜の森へと駆け出していく。ローブの裾が闇に吸い込まれるように消えそうになり、俺は慌てて声を上げた。
「おい、ちょっと待ってくれ! 禁術って何だよ! ここはどこなんだ!」
――彼女が森の奥に消えようとしたその瞬間、月明かりの届かない物陰から黒い影が飛び出してきた。いや、影というより、四足歩行の獣のように見える。
「グルル……」
黒い影の声が響く。
「危ない! 何かいるぞ!」
少女も気配を感じ取ったのか、あわてて足を止めた。
闇夜の中で相手の正体ははっきりしないが、獣臭いような、生温い空気が肌を撫でていく。イノシシか何かだろうか。まさか野生動物がこんなにも近くに潜んでいたとは。
(……早く逃げないと!)
……俺がそう思っていた矢先、少女はふるふると身を震わせながら、腰に挟んでいた小さな杖を取り出した。