●第五章 白い闇への挑戦
1911年10月、極点到達隊が出発する日が近づいていた。
「これが最新の気象予測です」
雪絵は、スコットに詳細な天気図を提出した。現代の気象学の知識と、古い観測データを組み合わせて作成した長期予報だ。
「11月から12月にかけて、例年より気温が低くなる可能性が高い。特に、この地域では……」
スコットは眉をひそめながら地図を見つめていた。
「かなり厳しい予報だな」
「はい。ですから、補給路の見直しを提案させていただきたい」
雪絵は、事前に準備していた新しいルート案を広げた。
「各デポ地点の間隔を短くし、さらにここと、ここに予備の補給地点を」
「それだけの物資の輸送は、時間がかかるのではないか?」
「ええ。出発を2週間ほど遅らせる必要があります」
スコットの表情が曇った。
「アムンセンは、もう出発したかもしれないのだぞ」
「分かっています。しかし……」
雪絵は言葉を選びながら続けた。
「極地での探検は、スピードと安全のバランスが重要です。私たちには、科学的な観測という使命もある」
スコットは長い間、地図を見つめていた。
やがて、静かに顔を上げた。
「分かった。君の提案通りにしよう」
その決定は、確実に歴史を変えることになる。
しかし雪絵は、それが正しい選択だと信じていた。
基地に残ることになった雪絵は、改良した通信システムの最終調整に入った。
現代のアマチュア無線の知識を応用した改良により、より遠距離での通信が可能になっていた。
「これで、極点到達隊との連絡が途切れることは……」
その時、通信機から異様な雑音が響いた。
「なんだ、この受信パターンは?」
雪絵は、経験したことのない電波の乱れに困惑した。
しかし次の瞬間、その正体に気が付く。
オーロラによる電離層の擾乱。
現代では良く知られている現象だが、この時代にはまだ……
「至急、スコット艦長に!」
雪絵は、予備の通信手段の準備を急いだ。
旗信号、発煙筒、そして非常用の無線機。
できる限りの対策を講じる。
しかし、それでも不安は残った。
歴史は、本当に変えられるのか?
その夜、キャサリンからの手紙が届いた。
「シンプソン博士、興味深い発見がありました」
手紙には、ロンドンの気象データと、インドの観測所から送られた記録の比較分析が記されていた。
「この気圧変動のパターンは、まるで地球全体が一つのシステムであるかのよう。そして南極は、その重要な歯車の一つなのかもしれません」
雪絵は、思わず手紙を握りしめた。
なんということだろう。
彼女は、現代の気象学者たちが当たり前のように知っている事実に、独力で辿り着こうとしている。
「そして、もう一つの仮説があります」
キャサリンは、さらに大胆な推論を展開していた。
「人類の活動が、この地球規模のシステムに影響を与えている可能性はないでしょうか? 特に、産業革命以降の石炭の使用量の増加と、気温の微細な上昇には、何らかの相関関係があるように思えるのです」
雪絵は、思わず立ち上がった。
キャサリンは、温室効果による地球温暖化の可能性に、この時代に気付いているのだ。
返信を書きながら、雪絵は現代の知識をどこまで伝えるべきか、慎重に考えた。
「あなたの仮説は、非常に重要な示唆を含んでいます。
実は南極の氷には、過去の大気の組成が閉じ込められています。その分析により……」
ペンが止まる。どこまで現在の知識を織り込めば良いのだろうか。
この手紙は、歴史を大きく変えるものになってしまうかもしれない。
しかし、それは許されることなのだろうか?
考え込む雪絵の元に、急な知らせが入った。
「Dr. Simpson! 気圧が急激に……」
観測値を確認して、雪絵は顔色を変えた。
予想以上の寒気の南下。このままでは……
「極点到達隊との通信は?」
「はい、かろうじて」
雪絵は、即座に警告の電文を打った。
しかし、オーロラによる通信障害は深刻化していた。
「何としても、この情報を……」
基地に残された気象班の責任者として、雪絵は必死だった。
現代の知識を持ちながら、その全てを活かせない歯がゆさ。
しかし、それでも出来ることはある。
「予備の通信機を、ここと、ここに……」
夜を徹しての作業が続いた。