●第四章 極点への序曲
マクマード基地の作業場で、雪絵は防寒具の改良に取り組んでいた。
「これは……面白い工夫ですね」
装備担当のオーツ大尉が、雪絵の設計図を覗き込んだ。
「ええ。重ね着の間に薄い空気層を作ることで、保温効率が格段に上がります」
現代の極地装備の知識を、1910年代の技術で実現可能な形に翻訳する作業は、予想以上に困難だった。しかし、少しずつ成果は出ていた。
「この縫製方法なら、既存の装備で実現できそうです」
オーツは満足げに頷いた。
「ペミカンの改良案も、かなり良い結果が出ています」
雪絵は、現代の栄養学の知識を活かした携行食の改良も進めていた。ビタミンやミネラルの不足を補い、かつ軽量化も実現する。これは、後の悲劇を防ぐための重要な要素になるはずだ。
「シンプソン博士!」
突然、通信室から若い隊員が飛び込んできた。
「キャサリン・ウェストブルックさんからの電報です」
雪絵は驚いた。今まで手紙のやり取りだけだったキャサリンが、突然の電報を?
電文を読んで、その理由を理解する。
「英国学術協会で、私の気象観測理論について発表させていただきました。大きな反響があり……」
キャサリンは、雪絵との手紙のやり取りで練り上げた気象理論を、学会で発表したのだ。しかも、好意的な評価を得たという。
「素晴らしい!」
思わず声が出た。この時代に、女性が学術発表をすること自体が画期的なのに、その内容も高く評価されたとは。
「博士、続きがあります」
隊員が指さす電文の後半に、雪絵は目を落とした。
「しかし、一部の研究者から、この理論は『女性には理解できないほど複雑だ』との批判も……」
雪絵は苦笑した。そうか、この時代はまだそんな偏見が……いや、現代でさえ、完全には無くなっていない。
すぐさま返信の電報を打った。
「理論の正しさは、性別や年齢では決まりません。データと論理が全てです。あなたの研究を誇りに思います」
電報を打ち終えた後、雪絵は装備の改良作業に戻った。
しかし、その手は自然と止まり、遠い目をしていた。
自分は今、男性として認められている。でも、それは本当の自分なのか?
科学者として、一人の人間として、何が正しい選択なのか。
基地の外では、極点到達に向けた訓練が始まっていた。
橇の曳き方、雪上での方向確認、非常時の対処法……
雪絵は訓練の合間を縫って、隊員たちに現代の寒冷地生存技術を教えていった。
「風向きと雪面の関係を見れば、ブリザードの到来を予測できます」
「氷の色や質感の変化は、クレバスの存在を示す重要なサインです」
それは、歴史に記録されない、密やかな知識の継承だった。
夜、キャサリンへの手紙を書きながら、雪絵は考えていた。
このひそやかな抵抗は、歴史を変えることになるのだろうか?
それとも、歴史の中に最初から織り込まれていた糸なのだろうか?
「親愛なるキャサリンへ。
あなたの勇気ある行動に、心から敬意を表します」
手紙には、いつものように最新の気象データと、それに基づく考察を記した。
そして最後に、こう付け加えた。
「時として、真実は既存の常識に反します。
しかし、それこそが科学の進歩というものです。
あなたの歩みは、必ず次世代への道標となるでしょう」
基地の外では、南極の夜が明けようとしていた。
新しい季節の始まりとともに、歴史的な探検の準備も、着々と進められていく。
雪絵は、自分の選択が正しいことを祈りながら、極夜の明けそめる空を見上げていた。