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●第二章 科学と競争の狭間で

 マクマード基地の建設が始まって一週間が経過していた。

 雪絵は、シンプソンとしての新しい生活に徐々に順応しつつあった。


「Dr. Simpson、この配置はいかがでしょう?」


 基地の設営を指揮するエドワード・エヴァンス中尉が、気象観測機器の設置場所について意見を求めてきた。


「申し訳ありませんが、変更を提案させていただきたい」


 雪絵は、現代の極地研究の経験を活かした新しいレイアウトを示した。


「風向計はこの位置では、建物からの影響を受けすぎます。あと10メートルほど風上に……」


 エヴァンスは眉をひそめた。


「しかし、そこまで離れると、ブリザード時の観測が危険になりませんか?」


「ええ、その通りです。ですから、こちらに補助的な観測点を設置し、さらにこう……」


 雪絵は、現代の南極基地で標準的な安全対策を組み込んだ設計図を描き始めた。配置を工夫することで、危険を最小限に抑えながら、より正確なデータが得られる。


「なるほど。確かにその方が合理的ですね」


 エヴァンスは感心した様子で頷いた。


 その時、スコットが近づいてきた。


「シンプソン君、アムンセンの件は聞いているね?」


 雪絵は一瞬、言葉に詰まった。

 ノルウェーの探検家ロアール・アムンセンが、南極点到達を目指していることは、歴史的事実として知っている。しかし、この時点での詳細な情報は……


「はい。フラム号が南極海に向かっているとの報告を」


「彼らは完全な秘密主義でね。場所も計画も、一切明かさない」


 スコットの表情に苦々しさが浮かぶ。


「我々は科学調査が主目的だ。しかし……」


 言葉を濁すスコット。その胸中を、雪絵は理解していた。

 科学的成果を重視しながらも、探検家として南極点初到達の栄誉を求める気持ち。その葛藤が、後の悲劇につながっていくのだ。


「艦長」


 雪絵は慎重に言葉を選んだ。


「科学的な観測と探検は、決して相反するものではありません。むしろ、相乗効果を生み出せるはずです」


「どういうことかね?」


「例えば、ペンギンの行動パターンを観察することで、気象の変化を予測できます。それは安全な探検計画の立案に直結します」


 現代の生態学の知見を、雪絵はさりげなく織り込む。


「なるほど。続けたまえ」


「さらに、通信設備を改良することで、各調査隊の連携が強化できます。これは科学的データの収集と、探検の安全性の両方に寄与します」


 スコットは興味深そうに聞いていた。


「具体的に、どのような改良を?」


「具体的には、このようなアンテナ配置の変更を提案します」


 雪絵は、手書きの図面をスコットとエヴァンスに示した。ペン先からインクが染みる粗い用紙の上に、緻密な技術図面が描かれている。


「現在の配置では、電波の指向性が十分に活かされていません。ここに補助アンテナを設置し、位相を調整することで――」


 説明しながら、雪絵は現代の八木アンテナの原理を、この時代の技術で実現できる形に翻訳していく。直接的な模倣は避け、当時の技術の延長線上にある形での改良を心がけた。


「待ってくれ」


 エヴァンスが眉をひそめる。


「その『位相』というのは、具体的にどういう……」


「このように」


 雪絵は作業台の上の銅線を手に取り、即興で簡単なモデルを作り始めた。手つきは慣れている。かつて自作アンテナを組み立てた経験が、体が覚えているのだ。


「波の干渉を利用するんです。ちょうど、波止場で見る波紋のような……」


 現代の専門用語を避け、目に見える現象に置き換えて説明する。スコットの目が輝いた。


「なるほど。船乗りにも分かりやすい説明だ」


 雪絵は続ける。


「さらに、受信機の改良案もあります」


 図面をめくる。真空管の代わりに、当時使用可能な鉱石検波器を使った高感度受信機の設計図だ。


「検波器の材質を変更し、この部分に独自の共振回路を組み込むことで??」


 技術的な説明をしながら、雪絵は内心、懸念していた。この程度の改良なら、歴史を大きく歪めることなく、しかし確実に通信性能を向上させることができるはずだ。


「これなら、ブリザード中でもある程度の通信が可能になります」


 スコットとエヴァンスは、図面を見つめたまましばらく沈黙していた。


「建設コストは?」


 エヴァンスが実務的な質問を投げかける。


「既存の資材の大部分が流用できます。新たに必要なのは、これらの部品だけです」


 雪絵は、準備していた部品リストを差し出した。材料の入手可能性まで考慮して作成した現実的な改良案だ。


「すまないが、もう一度位相の部分を説明してもらえるかね」


 スコットが食い入るように図面を見つめている。探検家であり、科学者でもある彼の好奇心が刺激されたようだ。


 雪絵は微笑んだ。


「もちろんです。まず、波の基本的な性質について……」


 真鍮の通信機の傍らで、未来の知識が、静かに過去に溶け込もうとしていた。時折聞こえてくる、か細い無線のモールス信号が、その証人となっている。


「これならば、極点からの通信も、不可能ではないかもしれません」


 その言葉に、スコットは深く頷いた。


「素晴らしい提案だ、シンプソン君。さっそく実装に取りかかろう」


 雪絵は安堵のため息をついた。ただし、完全な成功は避けなければならない。歴史を大きく変えすぎない程度の、絶妙な改良に留めねばならないのだ。


 通信機からは、相変わらず断続的なモールス信号が響いていた。

 未来からやってきた科学者の小さな抵抗は、確実に形になりつつあった。


「シンプソン君、君の提案は興味深いものばかりだ」


 スコットは満足げに頷いた。


「科学と探検の融合か……そうだな、我々の遠征はその両方を成功させねばならない」


 その言葉に、雪絵は複雑な思いを抱いた。

 歴史を変えることは許されるのか? しかし、目の前にいる人々の命を救う可能性があるとすれば……


 基地の建設作業は続いていく。

 極夜を前に、時間との戦いが始まっていた。


 その夜、雪絵は自室で手紙を書いていた。

 イギリスの実業家の娘、キャサリン・ウェストブルック宛ての返信である。


 彼女からの最初の手紙は、科学への純粋な興味に満ちていた。19歳とは思えない鋭い観察眼と論理的思考。そして何より、因習に縛られない自由な発想。


「親愛なるキャサリンへ」


 ペンを走らせながら、雪絵は考えた。

 この時代、科学の世界で女性が活躍することは、途方もなく難しい。ガラスの天井問題は現代でも深刻な課題のひとつだ。その意味で、自分とキャサリンは似た立場にいる。


 手紙には、南極の自然についての観察や、最新の気象データを織り込んだ。

 そして最後に、こう記した。


「科学には、性別も国境もありません。

 あなたの探究心は、きっと新しい扉を開くでしょう」


 極夜の闇が迫る中、基地では様々な準備が進められていた。

 そして雪絵は、未来の知識と現在の制約の間で、最善の道を模索し続けていた。


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