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●第一章 白い世界への転移

 意識が戻った時、最初に感じたのは揺れだった。


 しかし、それは南極大陸の氷上とは明らかに異なる揺れ方をしていた。より規則的で、どこか懐かしい……


「船?」


 目を開けると、木製の天井が見えた。狭い船室。古びた寝台。19世紀後半か20世紀初頭によく見られた様式の調度品。


 体を起こそうとして、違和感に気付く。今まで感じたことのない重さが、胸にある。手で確かめようとして、さらに驚いた。


 自分の手が、明らかに大きくなっている。


「Dr. Simpson! お目覚めですか?」


 突然、扉の向こうから声がした。英語だった。しかも、どこかで聞いたことのある声音。


「あ、はい……Yes, I am.」


 反射的に英語で返事をする。自分の声に驚く。低い、男性的な声だった。


 扉が開き、小柄な男性が入ってきた。トビー・ガロッド・アーチャー・ウィルソン医師。スコット隊の主任科学者にして、画家でもある人物。しかし、彼は1912年に……


「やはり具合が悪そうですね。あのブリザードでずいぶん酷い目に遭いましたから」


 ウィルソンは懸念を示す表情で近づいてきた。


「いえ、大丈夫です。少し混乱しているだけで」


 答えながら、雪絵は自分の状況を必死で理解しようとしていた。


 自分は今、男性の体になっている。しかも、どうやらジョージ・シンプソンその人のようだ。テラ・ノヴァ号の船上。1911年に向かう途中。そして目の前には、後に悲劇的な最期を迎えることになるウィルソン医師がいる。


「艦長が、気象観測の件で相談したいそうです。具合が良ければ、デッキまで」


「ああ、もちろん」


 立ち上がりながら、雪絵は自分の知識を整理した。


 南極の気象。古気候学。生態系。そして、アマチュア無線の技術。現代からの知識は、すべて維持されているようだ。


 鏡に映る顔を見て、改めて状況を実感する。端正な顔立ちの、20代後半の白人男性。しかし、その目の中には、35歳の日本人女性研究者の意識が宿っている。


 デッキに続く階段を上りながら、雪絵は決意を固めていた。


 この体で、この時代に、自分には何ができるのか。

 いったいなぜ自分はこの時代に呼ばれたのか。

 歴史を変えることは許されるのか。

 そして何より、スコット隊の悲劇を防ぐことは可能なのか。


 凍てつく海風が頬を打つ。

 甲板には、ロバート・ファルコン・スコット艦長が立っていた。

 歴史に名を残す探検家。そして、その運命を、今の自分は知っている。


「やあ、シンプソン君」


 スコットが声をかけてきた。その表情には、科学者への敬意と、探検家としての野心が同居していた。


 テラ・ノヴァ号のデッキでは、冷たい海風が雪絵の頬を打っている。甲板の木材からは、塩と防腐剤の匂いが立ち上っている。スコット艦長の隣には、ウィルソン医師も立っていた。三人の呼吸が、白い湯気となって南極海の空に溶けていく。


「承知しました、艦長。私なりの見解をお話しさせていただきます」


 雪絵は、シンプソンの声で答えながら、現代の知識と、この時代に伝えられる内容との境界線を慎重に見定めていた。


「まず、この海域の特徴についてです」


 雪絵は、手元の海図に指を這わせた。インクと羊皮紙の感触が、この状況の現実味を際立たせる。


「ロス海には、特徴的な気圧配置のパターンがあります。北からの暖気と、大陸からの寒気が??」


 スコットが身を乗り出してきた。その眼差しには、探検家特有の鋭い観察眼が光っている。


「具体的に、どういったパターンかね?」


「はい。暖気と寒気が交わる場所に、強い上昇気流が発生します。その結果??」


 雪絵は言葉を選びながら、現代の気象学の知見を、1910年代の用語に翻訳していく。


「激しいブリザードが発生する可能性が高くなります。特に、この時期は要注意です」


 ウィルソンが、静かに頷いた。


「確かに、渡り鳥の飛行パターンにも、似たような傾向が見られますね」


 スコットは、しばらく海図を見つめていた。その表情からは、科学者としての冷静な判断と、探検家としての直観が交錯しているのが読み取れる。


「シンプソン君」


 スコットが顔を上げた。


「君の理論は、非常に興味深い。しかし、これまでの探検記録には、そこまで詳しい気象パターンの記述は……」


「はい」


 雪絵は、緊張を抑えながら答えた。


「これは、最新の気象観測データから導き出した仮説です。まだ検証の余地は残されていますが――」


 嘘ではない。ただし、「最新」が110年後の知見だとは言えないだけだ。


「面白い」


 スコットの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「君の着眼点は、非常に科学的だ。これからの探検に、大いに役立つはずだ」


 その言葉に、雪絵は複雑な思いを抱いた。歴史に名を残すこの探検家の信頼を得たことへの誇りと、その運命を知る者としての重圧が、胸の内で交錯する。


「ありがとうございます。私は――」


 言葉を継ごうとした時、船が大きく揺れた。南極海特有の強い波が、テラ・ノヴァ号を揺さぶっている。


 スコットは、海図を丁寧に畳みながら言った。


「続きは、食堂で聞かせてもらおう。君の気象理論について、もっと詳しく知りたい」


 雪絵は黙って頷いた。

 歴史の潮流の中で、自分は何を変え、何を守るべきなのか。

 その答えは、まだ見つかっていなかった。


 しかし少なくとも、科学者としての第一歩は踏み出せた。

 それは、未来を知る者の、最初の小さな抵抗だった。



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