11.帝国皇子と伯爵令息①
エーデンタール国に最早未来はない。
そう結論を告げた俺に、父上はワインを口に運びながら自慢の顎鬚を撫でた。
「そうか。であれば法務卿補佐の身分は返上しても構わんだろう」
「父上、いい加減ニコラウスに甘くしすぎです」
兄上はその神経質な顔にさらに皺を寄せていた。音を立てぬように慎重にナイフとフォークを置き、ワイングラス越しに俺を睨みつけた。
「ニコラウスには昔から堪え性というものがさっぱりです。それを少しでも矯正すべく与えたのが官僚の、しかも法務での仕事であったはずだというのに、国に未来がないからと手放させてよいものですか」
「ニコラウスという個人に関しては、お前のいうことが一理ある。しかし、ニコラウスの出した結論には異論あるまい。王家は仕えるに値しない」
兄上は愚鈍ではない。その目で見たもの以外信じぬような頑固者でもない。だから俺の話がどこまで事実でどこから評価であるか峻別できている。ただその生真面目なたちが、いつも決断を鈍らせる。だからそのときもだんまりだった。
「それにニコラウス、お前がわざわざ面倒ごとを提案したのだ。なにか考えがあるのだろう?」
兄上の真面目さは父上の慎重さ譲り、俺のナンパ上手は父上の慧眼譲り、昔からよく言われた。その慧眼は、この年になっても輝きを失わず、俺を見透かしていた。
「ええ、もちろんです、父上」
***
オストリン・ノイ地方へ出向くため同行してほしい――そう命令され、耳を疑った。しかし、皇子はいつもの穏やかな笑みだけ浮かべている。
俺を連れて行く理由は、ひとつにオストリン・ノイ地方はモルグッド伯爵家に比較的近く、文化圏が同じであるため、馴染みのある人間がいるに越したことはないというもの。もうひとつに、ついでに公爵領の視察を兼ねていて、かつて法務卿補佐を務めていた俺に適任だからだろうというもの。
帝国内でのモルグッド家の処遇は、未だ定まっていない。これ以上ないほどにはエーデンタール国事情を垂れ流し、さらに領地の一部に支配権を与えたというのに、それだけでは腹を見せないというのは帝国皇子らしい。若干15歳で継母たる元皇妃一族を追放しただけある。
「……逃亡するかもしれませんよ?」
「今だってしようと思えばできるだろう。こちらは君を拘束などしていない」
おどけてみせたが、皇子は乗ってこなかった。
「……しかし、護衛も増えて大所帯になるのは殿下の望むところではないでしょう。公爵家に警戒心や疑心を抱かせる必要はない」
「その点については君が気を遣う必要はないから安心してくれ」
それは、どういう意味か。そもそも皇子が皇子妃を連れて外出する時点で近衛軍の大行進もいいところだ。
聞きたかったが、皇子は答えてくれまい。テーブルを挟んで向かい側、ソファに悠然と腰掛けている皇子は、まるで絵画のように動かぬ微笑を称えていた。
なぜ、この皇子とロザリア様は仲睦まじいのか。柄にもなく呻りそうになりながら、俺も表では笑みを浮かべる。
「であれば、私から口を差し挟むことなどありますまい。もちろん拝命いたしましょう」
「ありがとう。話は変わるけれど、エーデンタール国での婚姻・婚約について訊ねてもいいかな」
また呻りたくなった。が、やはり表情を変えるわけにはいかない。ソファで居住まいを正し、力になりましょうとアピールするために前のめりになった。
「もちろん、私でよければ」
「帝国との定めの相違点を知りたい。帝国での婚姻は司教の前で誓約を立てることによって成立する。この大陸を作った神への誓いを立てるわけだ。それ以外に婚姻に条件はないから、例えばわざわざ聖堂を訪ねたり、証書を作ったりする必要はない。そこから導かれるように、婚約に関しては婚姻約束以上の意味はない。エーデンタール国ではこれはどうかな」
「大差ないというのが結論ですね。エーデンタール国での婚姻は、誓約証書を作成し、これを司教に提出し、認めていただくことで成立します。帝国の面前誓約と区別して書面誓約と呼びますが、正教の司教が認めなければならないという点で本質的な差異はないでしょう。婚約も約束以上の意味がない点は同じですが、殿下が気になさっているのはロザリア皇子妃殿下のことでしょう?」
皇子の目が少し細くなった。こうして間近で見ると、まるで女のように美しい目だと気付く。女装でもさせれば似合うに違いない。こんな怖い女は御免だが。
「婚約とは、まず、平民にとっては当然ながらただの約束です。貴族についても同様で、互いを将来の婚姻相手にふさわしいとするただの口約束に過ぎません」
「帝国とはかなり違うね。帝国では貴族同士の婚約が破棄されるなど有り得ない」
皇子は肘掛に頬杖をつき、冷たい微笑を刻んだ。
帝国の実情は、こちらにやって来てからよく知っている。帝国では、婚姻に“家”という観点から重く価値が置かれ、それゆえに婚約の価値も非常に高い。それを破棄することは、相手の家との繋がりを金輪際断つ――繋がる価値などないと吐き捨てるに等しいとされる。だから、帝国の人間には“幼い頃から婚約者がいる”とは限らない。商人のやる投資のようなものだ、常に互いを吟味し、値踏みし、買うべきタイミングを推し量っている。
「そのようですね。おそらく、エーデンタール国では数十年前の大飢饉の影響が色濃く残っており、それが一因となっているように思います。帝国はさすが、大飢饉からの立ち直りも早かったでしょう?」
「そのようだね。もちろん当時はかなり苦しんだが、5年も10年も続いたわけではない」
「エーデンタール国はその爪痕が十年以上残ったのです。原因は国の性質としか言いようがありませんね、エーデンタール国は“国”の意識が非常に強く、外の文化をよしとしないきらいがあります。外に助けを求めることはおろか、外の知識を取り入れることさえ厭いました。国民に外国との間隔を悟らせないための施策なのでしょうが、これは私見ですので措いておきます。話を戻すと、大飢饉は身分問わず皆を平等に喘がせ、結果、婚約というものが非常に面倒な楔と成り果てたのです」
「婚約を理由に助力を乞われたがこれに応える余裕がない、ゆえに婚約破棄か。他にも大飢饉で没落した者、門を閉ざし領民に討たれた者、政策を失し王家に見離れた者……婚約当時の価値を相手に見出せなくなったが、婚約という縛りは重過ぎる。であれば、これを軽くしてしまえばいいということか。逆転の発想だね」
皇子は軽い調子で、俺も「ええ、脱帽ものですよ」と相槌を打っておいたが、騙されるはずがない。この皇子はロザリア様の隣にいるときとそうでないときで違い過ぎる。
「それなら同様の理由が王家にも当てはまるはずだね。もっとも、王家であれば適当な罪名をでっちあげて婚約破棄することが容易だろうけれど」
「ところがそうではありません。誇り高き王家の婚約者が罪人であるなど、斯様なことは許されません。ですから、王家の婚約者が罪人であることは有り得ないとされています」
それは、“王家は婚約者ならば無条件に恩赦を与える”という意味ではない。
婚約が白紙になる。婚約していたがこれを破棄したのではない、もともと婚約はなかった。そこには様々な矛盾が生じるが、それでもなお“その者が婚約者として存在したことは手違いだった”ということになる。そして矛盾を解消するため、婚約者がどうなるか――あまり知らないほうがいいことだ。
それを汲み取ったのだろう、皇子は口角を吊り上げた。
「なるほど。そして、婚約破棄もまた、王家にとって不名誉なものであり、有り得ないということだね」
「左様でございます。ロザリア皇子妃殿下の件が『婚約破棄』として広まったのは、アラリック王子が執務室でそう叫んだからです。私の耳にもそのように入ってきましたしね。ですが、本来王家に『婚約破棄』というものはない」
だから、アラリック王子がロザリア様を取り戻す理屈をこねるとしたらそこしかない。王家には『婚約破棄』ができないのだから、『婚約破棄』がされたはずがない。よってロザリア様は依然として自分の婚約者だと。
皇子は冷たい微笑を称えたままだった。
「なかなか苦しい言い訳だね。ロザリアも、『白紙』の理屈が通らないことは理解しているんだろう。だから『破棄』と同じだと理解して『白紙』という言い方はしない」
「そうでしょうとも。とはいえ王家の理屈は王家の理屈、帝国にはこれを尊重する義務があるのが国交というもの。ですから、なにかお手伝いできることがあればご助力させていただきますが」
――なんて。ぺろりと内心で舌を出してやった。帝国皇子とロザリア様の結婚――そんなもの。
「ああ、そうしてくれるのであれば、こちらは非常にありがたい」
なんて思っていたのに、思いがけない返事がきた。危うく鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてしまうところだった。危ない危ない。
皇子は腕を組み、まるで俺の忠誠心を量るように、その湖底のような双眸をまっすぐに向けた。
「君は表向き、オストリン・ノイ地方へ共に向かうことになるが、それはあくまで表向きだ。君には、してもらいたいことがある」




