08.羞恥と同情
見上げると微笑を返された。後ろめたいことがありますと白状しているようなものだ。
「……どうなさいました?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
「……この右下の――」
でも言ってくれないのならどうしようもないのかも? 気にすることでもないのかも? そう気を取り直して半歩踏み込むと、ラウレンツ様はまた半歩引いた。
「…………」
「…………」
「……なぜ逃げるんですか?」
「逃げてないよ?」
「逃げているじゃありませんか」
ずいずいと物理的に迫るけれど、迫った分だけ逃げられる。足元のヴァレンが鬱陶しそうな顔で見上げてくるけれど、構わずにずいずい近寄った。逃げ続けたラウレンツ様はそのうち窓にぶつかり、手を突き出して私を止めた。
「分かった。分かったからそこまでだ」
「私はなにも分かっていません。なんですか?」
「必要以上に近付かないでくれ!」
ずいっと顔を近づけると激しく抗議された。顔が赤くなるほど迷惑そうにして、しかも手を出して物理的に阻み、必要以上に近づかないでくれなんて!
そんなことを突然言われて素直に聞く私ではない。伊達に婚約破棄を突きつけられて口答えしていないのだ。思いきり一歩踏み出して体を寄せると、ラウレンツ様は面白いほど壁にぴたりと張り付いた。
「…………」
「……なんですか、ラウレンツ様?」
「……だから必要以上に」
「だから、それはなぜですか?」
もう一度顔を近づける。髭のあとのないつるりと綺麗な顎が、私を少しでも避けようとするように上向いた。
……もしかして。私はスンスンと袖の匂いをかぐ。
「……臭います?」
「……いや」
「なんですか今の間! もしかしてそうなんですか? お風呂はきちんと入っているのですが、なんなら毎晩パレスキーパーの方が贅沢に花の香りをつけてくださって……」
「……どうりで」
「……もしかして花の香りはお嫌いですか?」
まさか、私は立っているだけでラウレンツ様に拷問か嫌がらせをしていたと。途端に形勢逆転、サッと自分の顔から血の気が引くのを感じる。現に、ラウレンツ様は手の平で口を覆い隠し、顔を背けた。
「……そうじゃない」
……が、そうではないという。
「この香りがお好きなのですか?」
「いやそうは言ってない」
かなり食い気味に否定された。男性が花を好むべきでないと思っているのか、はたまたルヴァリエ様とおそろいがイヤなのか……。
はて、と首を傾げる私の下で、ヴァレンがもぞもぞとドレスとズボンの間から顔を出した。
「ロザリアがあまりに近寄ると照れくさいのだろう」
「ヴァッ……」
「いい香りもするしな。このむっつりスケベめ」
ラウレンツ様が一瞬で屈みこみ、ヴァレンの口を閉じようとするけれどもう遅い。私は聞いてしまった。
……ラウレンツ様が、むっつりスケベ。反芻すると余計に似合わず、困惑してしまった。なにせラウレンツ様からいやらしい視線なんて感じたことがない。……いや、いやらしい視線を向けないのがむっつりスケベというものだろうか。
でも、そうだとすると今しがたの珍行動に納得がいくかもしれない。
ラウレンツ様はヴァレンの口(と言うべき?)に手を載せたまま険しい表情で目を逸らしている。その視線の前に屈みこむと、視線は戻らないまま身じろぎした。
「……いい匂いがするから、近くにいると恥ずかしかったのですか?」
「……頼むからこれ以上俺を辱めないでくれ」
絞り出すような声だった。……むっつりスケベ。
ヴァレンを間に挟んだまま、じっとその横顔を見つめ、次いで自分の髪を一房手に取り、くんくんと嗅いでみる。バラのいい香りがして、昨晩の湯に浮いていた花びらを思い出す。さぞかし高いに違いないと、驚嘆しながら花びらをすくって遊びすぎてしまい、パレスキーパーの方に「溺死してませんか?」と湯殿を覗きこまれてしまった、というのはさておき。
「……確かにいい匂いがします」
「……俺はなにも言ってないけどな」
言ったも同じことです、とは言わずにおいてあげた。これ以上辱めてはいけないらしいので。
「でもご安心ください、ラウレンツ様。いい匂いがすると言われても、私はラウレンツ様を気味悪がったり気持ち悪がったりしません」
「…………」
本心なので安心してほしかったのに、いい顔はされなかった。なんなら、ルヴァリエ様が完璧な財務数字とともに植物の観察日記を持ってきたときと同じ顔をしている。
その反応こそ、私が隣に立つたびにいい匂いがすると思っていたということになるのだけれど。むむ、と下唇に力を寄せてしまった。ラウレンツ様は最近ちょっとばかし抜けている。
でも雇われの身としては、そんな主の可愛い失態には目を瞑ってしかるべきだ。あまり気にされないよう、そっと頭を傾ける。
「いまの話はなかったことにいたしましょう。その代わり、もっと頭を撫でてください」
「……俺は本当にたまに君のことが分からなくなるよ」
やや遠慮がちな手が頭を撫でてくれる。ふふ、と笑みを零しながらその心地よさを享受した。やはり何度撫でられてもいい。
その最中、ふと視線を向けた先のヴァレンが少々不満げな顔をしていた。
「……じゃ、私はヴァレンを撫でてあげましょう」
ふわふわの銀の毛を流すように撫でると、金の目が心地よさそうに細くなった。
「では、私は皇子を撫でるのだな。少し屈め」
「ヴァレンに頭を撫でられた日には流血騒ぎだ。遠慮しておくよ」
執務室の一角に屈みこみ頭を撫でる、もし今ここで宮廷事務官でもやってきたら、とんだ珍事に回れ右するに違いなかった。
やっと元気になりました。温かいお言葉をくださった方々、ありがとうございました! もう少し落ち着いたら定期更新の予定を立ててお知らせしたいと思います。よろしくお願いします。




