06.神獣と帝国皇子④
最近のラウレンツ皇子は、輪をかけて生意気である。
いつもの小川を前に伏せて眠っていると、微かな足音が耳に届いた。顔を上げてやる気にならず無視していると、やってきたラウレンツ皇子は不躾にも隣に腰を下ろした。
「……ヴァレン、今日は真面目な話だ」
「ほう。恋の悩みは不真面目だったか」
「そうは言っていないし、許していないからな」
吹雪かと思うほど冷え冷えとした声だった。なんと心の狭いことに、この皇子はいつも私が喋らずにいたことを根に持ち続けているのだ。
まったく、責任転嫁も甚だしい。視線を上げると、声のとおりのしかめっ面があった。
「私が神獣だと、8割方想定していたのだろう? 喋ることができると想像しなかったのはひとえに貴様のぼんくらゆえだ」
「ぼん……。……あのなヴァレン、君達神獣に関する言い伝えは非常に少ないし、中には不正確なものもある。それに――」
ピイ、と泣き声がし、暗い空に白い影が飛び込んだ。体の2倍はあろうかという翼を広げ漂っていた影は、緩やかにラウレンツ皇子の肩に着地した。皇子はちらと視線を動かす。
「……それに、現にオーリは喋ることはできない。……君達がまた騙しているのでなければ、だが」
「まるで私がお前を騙したかのような口ぶりだな」
「騙したじゃないか」
「黙っていただけだ」
「誤解の存在を知りつつあえて黙ることによって相手の誤解を助長する、これを商人の世界では詐欺と言ってね」
「私は商人の世界では生きていない。それより、土産はまだか」
フンフンと匂いを嗅いでやる。分かっているのだぞ、お前がベリーを持っていることは。
ラウレンツ皇子はしかめ面のまま、仕方がなさそうに懐から袋を取り出した。しかし、ケチ臭く、一粒ずつ取り出すだけだ。それを見るオーリは興味なさそうに、まるで円盤のように顔を回している。
「ここに広げろ、貴様らと違って皿は必要ない」
「もらう側がずいぶんな態度だな」
「なにせ貴様の弱味を握っているからな。先日はロザリアの頭を撫でたそうだな、ん?」
「…………ロザリアは君にそんなことまで喋るのか」
「私に、というか、例の公爵邸でだな」
ドサッと、皇子の手からベリーの袋が落ちた。しめた。袋の口に顔を突っ込み、一粒ずつとは言わず、好きなだけ齧る。やはりベリーは一度にたくさんを食べるに限る。
「……一体どんな文脈でその話を」
「公爵夫人は少女がそのまま夫人になったような者だな。身近な貴様の恋愛沙汰が楽しくて仕方がないのだろう」
「……それでロザリアが話したと」
「仲良くやっているのかと聞かれてな。なかなか傑作だったぞ、ロザリアがお前に『可愛がってもらった』などと言うものだからな、夜の生活のことだと勘違いされた」
今度こそ皇子は額を押さえた。赤面しているのが暗闇でも分かる。しかし、それを聞かされた臣下の身にもなってやれというものだ。例の辺境伯弟ルヴァリエなど、あまりの居たたまれなさでテーブルの飾り花の花びらを数えていた始末だ。
「もちろん誤解はとけたが」
「……とけたのは何よりだが」
「案ずるな、ロザリアは常に仕事を忘れない、例のニコラウスを牽制しておくべきと判断しての発言だったのだろう」
ニコラウス・モルグッドのことは王城にいた頃に何度も見た。何かにつけてロザリアを呼び止め、お前は愛人かなにかかと訊ねたくなったものだ。ただ、ロザリアが“恋に疎い”わけではないと気付いてから、少し態度を変えたのだが……。
「……あの様子を見る限り、まだロザリアに未練があるのかもしれんな」
「ちょっと待て。いまなにか大事なことを言わなかったか?」
思い出したことをそのまま呟いてしまった。お陰で皇子が食い気味だ。まったく、ロザリアのこととなるとすぐに目の色を変える。この皇子は本当にぼんくらだ。しかし、私は親切なので、わざわざ袋から顔を出してやった。
「大したことではない。私はニコラウスが間者か否かの情報まで持ち合わせていないしな」
「そうじゃない。俺も思っていたことだ、ニコラウスがロザリアを見る目は明らかに怪しい。臣下として主を崇敬するとはまた違う、臣節を全うしながらも親密さを損なわないあの絶妙な距離といい、あれは――」
「饒舌は余裕を損ない、余裕のなさは魅力のなさに繋がるぞ、皇子」
「なぜ神獣にそんな説教をされなければならない」
「助言だ。現にロザリアは雛鳥のような状態ではないか」
我ながら言い得て妙であった。ロザリアはまるで生まれたての雛鳥で、皇子はその親鳥だ。
「しかし、可愛らしい限りだな。見ていると幼い頃のロザリアを思い出すぞ、小さな体で一生懸命ついて回り、私によじ登り、片時も離れようとせずに一緒に眠ったものだ」
「俺はロザリアの親になるつもりではないんだが」
「伴侶はなかなか遠いな」
「なぜ他人事なんだ。君の主の話だぞ」
「誰を選ぶか、誰も選ばないか、それはロザリアの話だ。私はどんなロザリアとも共にある、それだけだからな」
もう一度袋に顔を突っ込みなおす。最初に袋に顔を突っ込んだ際、ベリーの汁が口の周りについてしまっていたせいで、眉のあたりまで濡れてしまった。
「……誰も選ばない、か」
「もちろんお前には与えられない選択肢だな。皇子には世継ぎを残す義務がある」
む、どうやらベリーはもうほとんど残っていなかったらしい。一生懸命探しても鼻に当たるのが破片ばかりで、仕方なく袋から顔を出した。顔が濡れてしまって鬱陶しく、犬のようで好かないのだが、仕方なく手で擦った。
「……これは神獣に聞いても意味のないことだと思うんだが」
「であれば聞くな」
「じゃあ独り言だ。人はどうして恋ができると思う」
「貴様の悩みごとはいつも痒くなるようなものばかりだな」
「真面目な話だよ、これは」
貴様はあらゆる疑問や悩みを真面目だと言い張るではないか。そのくせ内容は大抵ロザリアのことで、仕事の悩みなど大したことないと言わんばかり。そんなお前のいう“真面目”が当てになるものか。
「……愛情を知らずに育つと、二択だと思うんだ。自分に都合のいい相手の行動すべてに愛情があると勘違いしてしまい、その結果過剰な期待を寄せてしまうのがひとつ。もうひとつは、他人の善意を一切信じることができず、すべてに対して疑心暗鬼になる」
「ロザリアはいびつだと言いたいのか?」
皇子は口を噤んだ。しかし、私とて責めたつもりはない。
「案ずるな、神獣に守護された人間は大なり小なり歪むものだ」
「……君のいうそれは、能力や権力に溺れることだろう。俺が言いたいのはそういうことじゃない。……それに、ロザリアがいびつだとは思わない。そんなことを言ったら、人は誰だっていびつだよ」
「まあ、貴様も相当だからな」
「自分のいびつさを理解できる人間はいびつじゃないとも。……俺はロザリアを幸せにしたいんだ」
他人から愛情を向けられることが当たり前だと分かってほしい。加護という特別な恩恵がなくとも、役に立たなくとも、愛してくれる人がいると知ってほしい。
痒くなると言ったばかりなのに、皇子はまた臆面もなくそんなことを口にした。
「でも、俺がロザリアに好意を寄せれば寄せるほど、ロザリアはそれを仕事で返そうとするだろう。そうではなく、もっと当たり前に享受してほしいんだ」
「なんだ、やはりくだらん悩みじゃないか。ロザリアの幸せはお前が決めることではない」
再び閉口した皇子の隣で座り直す。すると、オーリが私の頭上に移ってきた。
クルル、と鳴く。ロザリアの話か、と口を挟んできた。ロザリアは今のままで幸せそうじゃないか、と。そのとおりだ。お前のほうが皇子よりよっぽどものを分かっている。
「お前が考える幸せを与えてやりたいと思うのは勝手だが、ロザリアに押し付けないことだな。貧乏伯爵家生まれであれば衣食住が満ち足りていれば幸せだろう、アラリック王子もそう考えたものだ」
一緒にするな、と皇子が呟いた。しかしあまりにも小さな反論だったので、聞こえなかったことにしておいた。




