34.野良神獣と意地悪
嬉しさのあまり鼻歌を歌いながら、整然と並んだ木々の隣を歩いていたとき、不意にヴァレンが立ち止まった。
「どうしたの、ヴァレン」
「……なにかいるな」
「なにかって……」
まさか刺客でも? ヴァレンがいるから何の心配もいらないはずだが――と警戒する私とは裏腹に、ヴァレンは牙も剥かず、ただ木々に顔を向けた。
「私達に、なにか用か」
途端、ばふっと雪が落ちてきた。見上げるより先に羽音も聞こえた。
「……小鳥でもいたのかしら」
「いや、フクロウだ」
獣らしく索敵能力を発揮したヴァレンが、顔ごと視線を動かす。私は見つけられずに首だけを動かしていると、再びどこからか羽音が聞こえて――ヴァレンの頭上にシロフクロウが飛んできた。雪に同化してしまいそうなほど真っ白で、むくむくしていて可愛らしい。クルッと、そのフクロウは私に向けて首を傾げた。
「なにかいるって、この子のこと? こんにちは、どうしたの?」
「神獣だ」
「はい?」
一度降りるように合図され、ぼふっと私も雪の中に着地する。ブーツは履き替えたけれど、ドレスは短いものがなかったので、仕方なく間抜けにたくし上げる羽目になった。
フクロウは、ヴァレンの頭上に乗ったままクルッともう一度首を傾げる。ヴァレンは、見えもしない自分の頭上を見ようとでもするように顎を持ち上げた。
「……主が不在のようだな」
「野良神獣ってこと? もしかしてラウレンツ様の神獣なのかしら!?」
「可能性はあるが、そうは言っていないな」
「この子、喋らないの?」
ヴァレンの背に乗ったままその顔を覗きこむけれど「キュウキューッ」とフクロウらしい声が返ってきた。「喋ることはできます!」とでも言っているかのようだ。
「神獣なのは間違いないの?」
「神獣同士が近くにいて勘違いするわけがあるか。まあ、たまにこういう惚けたヤツもいるのだ」
失礼なことを言われても、そのフクロウは毛繕いをするだけだ。確かにちょっと惚けているのかもしれない。
「でも神獣なら……どうするのかしら。このお庭に住んでるの?」
「向こうの森のほうだな。しばらく住めなくなっていたが、最近になって戻ってきたそうだ」
「あ、イザベラ元皇妃が伐採して新しい庭園を造る計画がなくなったからってことね。じゃ、やっぱりラウレンツ様の神獣なのかしら?」
会わせてあげるとピンとくるものなのかも? 宮殿に連れていってあげたほうがいいかな? そんなことを考えていると、ヴァレンが鼻先を宮殿に向けた。
「噂をすればなんとやら、皇子のおでましだな」
「あら、ラウレンツ様も朝のお散歩だったのね」
振り向くと、私とは違ってきちんと馬に乗ってやってくる。少し遠くてシルエットしか分からないが、宮殿にいる金髪はラウレンツ様だけだ。
「ね、あなた、あそこの人を見て何か感じたりする? 一応この国の皇子なんだけど」
「恩義以外なにも感じないそうだ」
「ヴァレンは私になにを感じるの?」
「愛情だろうか?」
「愛され育ちってことね、嬉しいわ。おはようございます、ラウレンツ様」
馬がブルルッと鼻を震わせて止まると、ラウレンツ様はすぐに馬から降りた。少し呆れた顔になりながら――ひょいと私を抱き上げる。謎の浮遊感に「ひゃっ」と変な声まで出てしまう。
「ちょ、ちょっと、なんですか?」
「そんな恰好で散歩したら足が冷える。言えば馬車を出したのに」
そのまま馬の上に乗せられてしまった。びっくりした……意外と力が強いのね、ラウレンツ様。
でも確かに、このまま立っていたら霜焼けになってしまっていたかもしれない。ちなみにラウレンツ様は……と足元をみると、しっかり防寒ブーツを履いていた。厚底の編み上げで頑丈そうだし、日頃のブーツで来た自分が馬鹿みたいに思える。
「それで、このフクロウは? 珍しいね、こんな時間にいるなんて」
「……なにも感じませんか?」
「このフクロウに? 可愛らしいとは思うよ」
そうではないのだが……。フクロウに視線を移したけれど、何も言わずに羽に顔を埋めるだけだ。寝ぼけて朝起きてしまっただけで眠たいのかもしれない。
「……ヴァレンの頭に乗っていますし、このまま歩きましょうか」
神獣だし、恩義も感じているらしいし。ヴァレンは若干迷惑そうな顔をしたけれど、眠り始めているものは仕方がない。
「ラウレンツ様はもうお仕事に戻られます?」
「いや、まだ大丈夫だよ。たまには朝の散歩もいい」
その場合、馬は一頭しかいないけれど、まさか私が乗ったままラウレンツ様が馬を引くのだろうか? それはさすがに主人相手に申し訳ない――と思っていると、ラウレンツ様は軽々と私の後ろに乗った。
「どうした?」
「……いえ、馬って力持ちですよね」
「ああ、2人くらいならね。男2人だと馬にも悪いけど」
背中にラウレンツ様がいるお陰で、少し暖かい。寒さで強張ってしまった体から心地よく力が抜けていくのを感じながら、馬に揺られてゆっくりと庭園を歩き回る。
「このフクロウ、イザベラ元皇妃が庭園の建築を予定していた森に住んでいたようです。ラウレンツ様が建築計画を止めたお陰で戻ってきたんですよ」
「そうだとしたら悪いことをしたね」
「ラウレンツ様はそれを止めたって話です」
「皇族の責任であることに変わりはない。それに、動物にとって幸いだったというのはあくまで結果論だよ」
つまり、そこにラウレンツ様の善意はなかったと。ラウレンツ様らしい自分に厳しい意見で、つい首を傾げてしまった。
「ラウレンツ様、ストイックなのは結構ですけれども、疲れてしまいませんか? たまにはご自身をお褒めになっては」
「権限と責任は表裏一体じゃないか、君もよく言っている」
「それはもちろんそうですし、例えば今の私が帝国に不利益をもたらした場合、それはラウレンツ様も責任を負うべきことです。しかしそれは、ラウレンツ様に私を選ぶ権利があり、現に選び、そして私の横暴を止めるだけの思考力があって然るべきだからです」
仕事の合間に記録は見せてもらったけれど、イザベラ元皇妃が皇妃になったときのラウレンツ様は、まだろくに喋りもしない幼児だった。それからイザベラ元皇妃の暴走が始まったとして、よちよち歩きのラウレンツ様がその悪辣っぷりを理解して、ましてやこれを止める手立てを考えるなど無茶な話だ。
「幼いラウレンツ様は確かに皇子としてあらゆる特権を得てきたと思います。不作でも食に困ることはなく、読みたいだけの本を与えられ、雪に凍えながら眠ることもなかったでしょう。でもその権利の裏にあった責任は、どれほど辛くとも皇子の立場から逃げ出さないこと程度のはずです。皇族である以上は連帯責任だなんて、思考停止の乱暴な議論です。恋の病だかなんだか知りませんが、誰より責任を取るべきは皇帝ですし」
なんて、ここに皇帝陛下がお忍びで現れたら叩き斬られてしまうのだが。思わず口にしてしまった後で、そっと周囲を見回した。大丈夫だ、木しかいない。
「だから、なんでもかんでもラウレンツ様が責任を感じることではないと思うんですよね。もちろん、当時から守られてきた皇子の立場の延長が今ですから、今、イザベラ元皇妃の爪痕に適切な治療を施すべきなのはその通りなのでしょうけれど。イザベラ元皇妃がしたことを、ラウレンツ様ご自身の悪行のように背負いこむ必要はないでしょう」
といっても、ラウレンツ様は、夜遅くまで仕事をし、しかしもったいないと言って月や雪の明かりで書簡を読むのをやめないのだろうけれど。
最初は仕事中毒かと思ったけれど、ラウレンツ様はその肩に責任をなんでも乗せ過ぎているだけだ。ただ、その責任感ゆえに仕事をせずにいられないという意味では仕事中毒と理解して間違っていない。
「皇子ですからそういうわけにもいかないのかもしれませんけど、ラウレンツ様はもう少し肩の力を抜いてもいいと思いますよ。私も、いる間はお散歩くらい付き合いますし……」
ふ、と背後から腕を回された。
何事かと思ったら、背中から抱きしめられている。
「……どうかしましたか?」
「……だったら、ずっと傍にいてくれ」
自信なさげな声は、ラウレンツ様らしくなかった。ヴァレンにさえ隙がないと言われるのに、背中に感じるラウレンツ様は無防備そのものだ。
「……もちろん、必要とされる限りは構いませんよ」
「必要でなくなることなど、あるものか」
背中には鼓動も感じた。冬用の分厚いマントを貫通して感じるということは、よほど高鳴っているに違いない。
……この人、本当に女性慣れしてないのかも。途端に、まるで年下の子どものように思えてきて、お腹に回った手に、おそるおそる自分の手を重ねた。
「……あの」
「ロザリア、俺は――」
キューッ、とフクロウの鳴き声が響き渡ったのはそのときだった。バタバタッと羽音も響き、私とラウレンツ様が驚いているうちに……私の後ろに着地した。腰のあたりでは、もぞもぞと生き物が動く感覚がする。
「…………」
「……あの、大丈夫ですか? 私、お尻でフクロウを押し潰してませんか?」
「……大丈夫だけれど、これはどういうことかな」
「私とラウレンツ様の間が暖かそうに見えたんでしょうか? 賢い子ですね」
振り向くと、フクロウはまた羽に顔を埋めてうとうとと眠り始めているところだった。お陰で完全にただの白い塊になってしまっている。
が、それはいいとして。知らん顔で歩いているヴァレンをじろりと見降ろした。
「ヴァレン、あなたわざと起こしたでしょう。だめよ、意地悪しちゃ」
「……まったくだ」
ラウレンツ様の呟きは、まるでフクロウとシンクロしたかのように妙に恨み深く聞こえた。




