24.血縁関係と玉座の権利
「――ねえ、見て」
私達が階段を上りきる直前、気付いた誰かがヴァレンへ視線を投げた。
「あれって……イヌ、よね? ほら、あのグレイの毛の……」
「イヌだろうとも、こんなところにオオカミがいるはずない」
「それより、あの犬を連れている方……」
ラウレンツ殿下――と群衆の心が一体になったように、その囁き声が揃った。
その瞬間、好きに歓談していた貴族達がみな一斉に手も足も止め、まるで掛け声でもあったかのように、その場で正式な礼をとった。
背筋に僅かな震えが走る。おそるおそる見上げたラウレンツ様は、いつもどおりの微笑を浮かべているだけだったが……。
まるで、この空間すべてが、ラウレンツ様ひとりに掌握されたみたいだ。腹筋に力を入れ直し、ラウレンツ様の雰囲気に呑まれそうになるのを堪える。
これが、いわゆるカリスマ性というものだろうか。商人としての彼は朗らかな少年で、皇子としての彼は少々のらりくらりとした側面を見せるだけで、前者と大差ないと思っていた。しかし、こうして帝国中の名だたる貴族の前に出ると、そしてその隣に並ぶと、こんなにも格が違う。
そのまま中央へとエスコートされる間も、招待された貴族は皆、顔を上げなかった。私まで緊張で倒れてしまいそうなほど、この空間は、ラウレンツ皇子殿下への畏敬に満ちている。
「――皆、顔を上げてくれて構わない」
特段大きくもないのに響く声は、まるで生まれながらの為政者だ。ぶるっと、今度は高揚感で震えた。
もしかするとこの皇子、私が思っている以上に有能で、彼の隣で働くことそれ自体が面白いのかもしれない、と。
「久しいな、ノイマン公爵」
ラウレンツ様は、その貴族らの中で最も豪華な正装に身を包んだ中年の男性に声をかけた。明るいブラウンの髪も髭も、少し無駄な肉のついた体つきも年齢相応だけれど、グリーンの目が妙に若々しい――野心にも似た輝きに満ちていた。なるほど、これは油断ならないはずだ。
「こちらこそ、ラウレンツ様。そしてこの度はおめでとうございます。ロザリア皇子妃殿下との婚姻、心より、お祝い申し上げます……」
そのノイマン公爵が私の顔を見て硬直し、続いて、その隣のノイマン公爵夫人も顔を上げて絶句する。
「――ごきげんよう」
私の顔が白くない。ただそれだけの理由で。
「皇子妃の、ロザリア・シュテラ・アルブレヒトです」
公爵と夫人が顔を上げたのを皮切りに、残りの貴族達も顔を上げ、私の姿を認めてどよめいた。
あらやだなにかしらあのお顔、まさか白粉を買うお金がないんじゃないかしら、皇子妃殿下に限ってそんなはずは、でも皇子妃殿下の出自は誰も知らないのだからもしかしたらとんでもない貧乏人なのかも、ラウレンツ殿下はなぜあんな化粧もろくにしない女性を妃に――なんて、仮にも皇族を前に、帝国貴族が悪口を囁くことはない。それでも、そう陰口を言いたいのが見てとれるような雰囲気だった。
でも、他人に指を指されるのは王城で慣れっこだし、今ここで相対しなければならないのはノイマン公爵夫妻のみ。扇を広げて微笑みながら「ごめんなさい、驚かせてしまって」と――ヴァレンに視線を落とした。
「これはヴァレン、私の愛犬なのです。ノイマン公爵夫人も犬を大層可愛がっていらっしゃるとうかがいましたので、今宵はお言葉に甘えて一緒に参りました」
ヴァレンは座り込み、黄色い目をキラッと輝かせ、キュウンと鳴いてかわいこぶった。きっと内心は「ところで飯はまだか?」に違いない。
ノイマン公爵夫人はといえば、「問題はそこではない」と言いたげに、その優しげなブラウンの目を右へ左へと泳がせた。
「そう……なのですね。ええ、私もレオナールという犬を飼っております。もとは牧羊犬ですのよ……おいでなさい、レオナール」
決して白粉には触れるまい、そんな決意が見えるかのように、ノイマン公爵夫人は体ごと視線を会場の奥へと向けた。そこにはヴァレンより一回り小さく、黒に近いグレイの毛の犬が鎮座していた。垂れた耳と、立派な髭のように長く白い口元の毛、それにくりっとした黒い目が可愛らしい。
「まあ! シュナーザートですね! 帝国では珍しい犬種ですよね、私、シュナーザートも大好きなのです」
「そ、そうですか、それはなによりで……レオナール、どうしたの? こちらへおいでなさい」
手招きされても、レオナールはぴくりとも動かない。まるで石像のように固まってしまっている。
日頃人見知りしないとすれば、十中八九、ヴァレンのせいだ。ヴァレンを見た動物の行動は、興味津々に近寄ってくるか、恐れおののいて距離をとるか、大抵はそのどちらかなのだから。
なんだか悪いことをしちゃったかも。眉尻を下げていると、ヴァレンは前足を伸ばして、そのまま伏せた。危害を加えることはないぞと、そういう意思表示だ。
ただ、だからといってレオナールが動くことはなく、仕方なく公爵夫人は「大変申し訳ございません、日頃あんなことはないのですけれど……」と私に向き直り、もう一度私の顔に視線を戻す。公爵夫人の顔はもちろん真っ白で、それでも分かるくらいには目鼻立ちの整った、私史屈指の美女だった。ノイマン公爵と違って(というのも失礼な話だが)、顔立ちも優しく上品で、豊かに育ったお嬢様がそのまま公爵夫人となったと言われて納得する雰囲気の方だ。
「改めまして、ノイマン公爵が夫人、エリザベートと申します。それで、ロザリア妃殿下は……、どちらのお国から? 失礼ながら、ラウレンツ殿下ったら幼い頃から秘密主義ですの。だから今回もそう、ロザリア妃殿下のこともちっとも教えてくださらなかったのよ」
「ラウレンツ殿下が何もお話しにならなかったのであれば、私も秘密にしたほうがいいかもしれませんね。殿下はこう見えて意外と独占欲が強いのです」
ゴホン、と大きな咳払いが響いた。そんなところで貫禄を出さなくてもいいですよ、ラウレンツ様。
「あらあら、ラウレンツ殿下ったら……すっかりロザリア妃殿下の言いなりですのね」
「……ええ、まあ、ぼんやりとしたところのある私にはこのくらいがちょうどいいですが」
「いただけませんなあ、ラウレンツ殿下」
そこで、呆気に取られていたノイマン公爵が一歩前に出た。ラウレンツ様より少し背が低いけれど、身体が分厚いのでラウレンツ様より少し大きく見える。
「男たるもの、皇族たるもの、それではいかんでしょう。女の尻に敷かれるのではなく、その尻を叩くくらいの気概でなければ。例えば今日のロザリア妃殿下の出で立ち、殿下はいかが思いますかな?」
「自然体ながらとても綺麗ですね。我が妃ながら、これほどまでに美しい女性は帝国広しといえど見つからないでしょう」
そういうラウレンツ様こそ、ごく自然な誉め言葉です! 練習した甲斐がありましたね! 思わず心の中から称賛の拍手を送ってしまう。表情も真剣そのもの、素晴らしいですラウレンツ様。宮殿でのぎこちないお世辞を口にしていた人と同じとは思えません、見違えました!
一方でノイマン公爵は「そうではありませんでしょう」と呆れた声を上げた。
「皇子妃殿下を捕まえて申し上げるのも失礼ですが、殿下のことを我が息子のように可愛がってきた私としては、忠告せざるを得ませんな。妃には、然るべき身分であることはもちろん、然るべき見目麗しさを備える女性を選ぶべきでしょうとも」
「本当に失礼なことを言うものだな、ノイマン公爵」
が、続くラウレンツ様は、その顔に苛立ちのようなものを浮かべてみせた。
「大方、大半の女性の身形こそ是という前提にあるのだろう。しかしそれはいささか乱暴ではないか」
ふむ、これはいただけない。妃を大事にしていることをアピールするのは大事だけれど、それにしてはちょっと声が険を帯びすぎていた。




