22.社交界の顔ともとの顔
「あの皇子もなかなかいいことをするじゃないか」
フンフンと鼻を鳴らしながら、ヴァレンは私のドレスのまわりをくるくる回る。私が身形を整えて部屋に戻ってきたのに、顔に白粉を塗っていなかったからだ。
「今までのお化粧、そんなに変だった――って、確かにずっと言ってたものね」
「そのとおり、今に始まったことではない。が、人間の美的感覚自体を理解しかねるという意味ではいまの化粧の必要性すら理解できん。その意味で私は顔になにかを塗りたくること自体には口出しをせん、生き物にはそれぞれの求愛の形があるのだからな。だが害を及ぼすとなれば話は別だ」
ぴょんとソファに飛び乗ったヴァレンは、そこで優雅に伏せる。元皇妃が買い集めたアンティークのひとつ、金の縁とグレイのスェード生地で作られたアンティーク調のソファだ。そこにいるとただの犬でも神獣に見えるだろう。いわんやヴァレンをや、だ。
「泥水で顔を洗えと言われて従う者はいないだろう。それだというのになぜあんなものを顔に塗るのか、まったくもって理解に苦しむ」
「だってそれが正装なんだもの。だから……本当にこんな顔で人前に出ていいのかしら……」
鏡を覗きこむと、渋い顔をした私がいた。こんな顔を見るのは一日の始まりと終わりだけなので、まるで自分じゃない誰かが鏡を見ているような違和感がある。しかも、顔はそんな風に気の抜けた有様なのに、頭と首から下は今までになく美しく飾られている点もちぐはぐだ。
「もしこんな姿で王城を歩いていたら笑いの的よ。そんな隙を見せることになるなんて……想像するだけでお腹が痛くなってきたわ……」
「いまは皇子妃、帝国のファーストレディだ。堂々としていればいい」
「頭ではそれは理解してるわ。でも理屈に感情がついていかないのよ……あ、どうぞ」
ノック音に返事をすると、「ロザリア、準備ができていると聞いたんだけど」扉の向こう側からラウレンツ皇子が現れた。相変わらず手には紙束を抱えているので、また歩きながら仕事をしていたらしい。しかもこの皇子は庶民的なことに、人を使わず直接私を呼びにくる。例によって元皇妃の悪政のせいで伝達係が機能停止していたことの名残らしい。
「こんにちは殿下。正装を見るのは初めてですけれど、素敵ですね」
今日は公爵主催の舞踏会の日だ。先日のラウレンツ様の提案のとおり、私はこれから皇子妃として参加し、ナチュラルメイクを披露する。
だから、今日のラウレンツ様は、銀色の生地に金糸を用いた刺繍入りのコートを着ている。銀色はモンドハイン帝国の象徴たる色なので、服の生地に用いることができるのは皇族だけ、さらに刺繍などに用いることができるのも貴族だけ、と決まっているそうだ。
かくいう私のドレスはブロンドのような小麦色を基調として、銀糸で刺繍がされている。皇族の正装は銀色の生地というルールの例外で、皇族の女性は金色を模したドレスに銀糸で刺繍されたものを着るそうだ。契約妃なので帝国の伝統に従うのは当然だし、ドレスの好みもあまりないし、なんなら袖を通した瞬間にいかに高価なものか理解したので、このドレスを着ることに文句はない。
ただ、ラウレンツ様の隣に並ぶと、色合いが対になっているので少々気恥ずかしい。だからなのだろう、ラウレンツ様も入ってきた瞬間に固まっていた。
「……言いたいことは分かりますよ、ラウレンツ様」
ラウレンツ様は顔に出ないようだが、私は顔に出てしまう。なんなら今日は白粉も塗っていないので頬が赤くなるのを隠しようもなかった。
「私達が手を取ってダンスに興じれば、まるでサーカスのコンビのように見えてしまいますよね……」
「……ごめんなんだって?」
「サーカスのコンビです。見たことありませんか、二人組の芸人で、一方は赤地に青、もう一方は青地に赤の模様の服装で踊るのです」
「……サーカスと一緒にしないでくれ」
「失礼しました、帝国とその皇族を馬鹿にしたわけではなく、二人だけの皇族というのはなんとも物寂しいのでつい」
でも、考えてみれば銀色のヴァレンが隣に立てば二人組ではなくなる。……いや、私がラウレンツ様とヴァレンに挟まれてしまっては余計に滑稽な図ができあがってしまう。由々しき事態が生じるが、これも仕事の一環なのでやむをえまい。
「それよりラウレンツ様、お待たせいたしました。私は準備ができておりますので、いつでも出発できますよ」
「……ああ、うん、そうだね。馬車の準備もできたと聞いているから、一緒に降りよう。ヴァレンも連れて行くことは伝えてあるから、おいで」
ヴァレンはソファから飛び降り、素直にも私達の足元までやってくる。なんならラウレンツ様をじっと見つめ、ラウレンツ様がたじろいだ。まるでアイコンタクトだけれど、まさか私をさしおいて2人が仲良くやっているわけはあるまい。
でもじゃあこの視線の意味は……と見守っていると、ラウレンツ様が咳払いして――笑みを作った。
「小麦色のドレスがよく似合っているね。シルバーの瞳とのコントラストもとてもきれいだよ」
「パーティーでの予行演習ですか?」
笑みが凍った。……まさか誰か見ているのか? そうだとしたらいまの発言は非常にマズイ。慌てて洋扇を開きながら微笑み返した。
「わざわざ声に出していただなくても、ラウレンツ様が私を大事にしてくださっているのはよーく分かっております。殿下の妃の座を狙う方への牽制なのでしょうけれど、私達の仲睦まじさに付け入る隙なんてございません。ね!」
ついでに腕も絡ませてみせたが、ラウレンツ様は微妙な身じろぎをしただけだった。この皇子、意外なところで演技が下手らしい。ヴァレンだって呆れた顔を向けている。
「さあ参りましょう、殿下。私、パーティで殿下とご一緒できる日を楽しみに待っていたのです」
「そう――いや……うん、そうだね。俺も楽しみにしていたよ」
「殿下、人前では一人称にお気をつけくださいませ」
社交界でのラウレンツ様がどうかなんて知らないが、これで大丈夫だろうか。私の心配が正しいのか、ラウレンツ様も眉間に深いしわを刻んでいた。




