19.形のないものと中身のないもの
ラウレンツ様の指示で今までの化粧をやめさせられ、「使っていた白粉は捨てろ」と命令までされ、それどころか「もう顔に塗るな」とまで言われ、私の顔は頬と唇に誤差程度の薄紅、ついでにかなーり控えめなアイラインしか許されなかった。
こんな顔で、皇子妃として、しかもよりによって辺境伯の前に出ていいものか。ラウレンツ様について「黄金の間」に向かっていると、ちょうど散歩から戻ってきたヴァレンが足元に合流した。私の顔を見て首を傾げているので、きっと「なぜそんな今から寝るような顔で?」と言いたいのだろう。私だってそう思うけれど、ラウレンツ様が命じたのだから仕方がない。
辺境伯を迎えるという「黄金の間」は、その名のとおり五面を黄金に覆われた広間だ。ちなみに一面は窓だから黄金に覆われていないだけだし、窓枠はちゃんと黄金でできている。この宮殿の中でももっとも金がかかっている部屋らしく、小国を建てるくらいの額にはなるのだとか。
そんな物理的に眩しい「黄金の間」に入ると、既に席に着いている男性がいた。その顎から口元にかけてが赤毛の口髭に覆われていて、まるでスリムな熊のよう、とても辺境伯には見えなかった。
なにせ、髭をはやしている貴族なんて見たことがない。ラウレンツ様といい、帝国男性の美意識はエーデンタール国と異なるらしい。
「待たせてすまない、ヴィル殿」
「いえいえ、こちらこそ急に失礼しました。ラウレンツ殿下が婚姻なさると聞くと、いてもたってもいられず」
立ち上がったナハト辺境伯は、見た目の年齢はラウレンツ様と親と子くらい離れているように見えた。しかし、さすが辺境伯なだけあって、体格はいい意味で年齢不相応、熊の毛皮でできたコートを羽織っている点も含めて、いかにも要塞の主だった。
その鋭い目が私と、そしてヴァレンを一瞥する。反応からして、どうやら私という皇子妃が「犬を飼っている」ことは知っているようだ。
「お初御目にかかります、私はヴィルヘルム・モン・ナハトと申しますが……ロザリア様、ですかな?」
なんだこの美しさと縁遠い女は――そう思われているとしたらラウレンツ様のせいだ。
それを顔に出さぬよう微笑み、十年以上日の目を見ることのなかった礼を披露した。
「ロザリア・ステラ・アルブレヒトでございます。お目にかかり光栄です、ナハト辺境伯」
「……なるほど」
皇帝から仕えている辺境伯だと聞いているが、一体どんな男か。寝起きのような顔というとんでもないハンデを背負わされてしまっているせいで冷や汗が流れる中――ナハト辺境伯は破顔した。
「いやあ、非常にいいご令嬢を見つけましたなあ。英雄色を好むというのに殿下はさっぱりと思っておりましたが、いざ婚姻してみれば、中々見る目があるではありませんか」
「ヴィル殿ならそう言ってくれると思っていた。今まで婚約せずにいた甲斐があったというもの」
「それは結果論というものです。この年で相手のいない令嬢など見つかるものではありませんからな。ロザリア様が折れてくださって本当によかった」
笑いながら「よくやったぞ」とでもいうようにラウレンツ様の肩を叩き、辺境伯は椅子を引く。なにやら印象は良いようで何よりだが、私が折れたとはどういうことか? 私も座りながらラウレンツ様に目配せすると、その視線が素早く泳いだ。
「……まあ、ロザリアは、もとは他国の王子妃となる予定で育てられていたからな。皇子妃となることを最終的に承諾してくれたのは僥倖というほかない。これもヴィル殿をはじめとして皆が帝国回復に努めてくれたお陰だ」
なるほど、私はどうやら「どこかの王家に嫁ぐ予定ではあったものの、そこへラウレンツ様が長年横恋慕しており、その熱烈なラブコールの甲斐あって最近ようやく折れて婚姻を快諾した」ということになっているらしい。どこぞの劇場に三文芝居の脚本として売れば多少お金になるのではないだろうか。
「それで殿下、結局ロザリア様はどちらの国からやってきたので? 帝国女性とはずいぶん雰囲気が違って――」
ナハト辺境伯の目がもう一度私の顔を見た。寝起きのようでごめんなさい。
「豊かなブラウンの髪に、美しいシルバーの瞳、可愛らしい――などと申し上げるのは失礼かもしれませんが、いやはや大変美しい細君です。なにより非常に明るく健康的な顔立ちをしていらっしゃる、大変結構じゃありませんか」
健康的……。お世辞に便利なその言葉の真意は図りかねた。しかしラウレンツ様は微笑みながら「そうでしょう」と頷いている。
「肌を白くみせる女性が多いですが、あれはどうにも理解できない。一時期仮面舞踏会が流行りましたけれど、最近の流行は死仮面舞踏会と言っても過言ではない」
「相変わらず口が悪いですなあ、殿下。しかし分かりますよ、私もどうも女性の美意識についていけず、年ですかなあ」
かと思ったら、そろって大真面目に女性の化粧を罵倒するときた。なるほどこの皇子、どうやら私の顔を見ていつも「死体のようだ」と思っていたらしい。
「その点、ロザリア様はいいですな。ロザリア様のお国では自然に近い化粧が流行っているので?」
「え……ええ、まあ……そう、ですね……」
いや、エーデンタール国でも肌は白ければ白いほどいい。よく言われることだが、人前に出るときは必ず事前に白いシーツと自分の顔を見比べ、そのコントラストが限りなく小さくなるようすべきだ。
見えている肌はすべて雪のように白ければ白いほどよく、頬はあまりふっくらせず、目もとも少し暗いくらいが最も美しい――それが女性の常識だ。
「覚えているかヴィル殿、一時期非常によく売れた白粉には鉛が入っていたことを」
「もちろんですとも、殿下に言われ、辺境伯領でも取り締まりましたからな。しかしまだ性懲りもなく売る者もいますな、イザベラ元皇妃の美しさが手に入るだのなんだの銘打って……」
下手に口を挟めることもないな……。そう思いただ適当に頷いていたけれど、ただの罵倒が思いがけない方向に発展して我に返った。
鉛入りの白粉は、どんな白粉よりも肌を白く見せることができると有名だ。エーデンタール国でも非常に人気があったし、それこそヴィオラ様も一時期使っていた気がする。
ただ、鉛の入った白粉を塗ると体調を崩すものが多いという噂もあった。実際、私はヴァレンに「そんなものを肌に直接つけるな」と叱られた。だから、体に害のない範囲でなるべく白く見える白粉を選んでいたのだけれど……。
「そこでヴィル殿、これは思い付きなんだが、ロザリアにはこの化粧で社交界に出向いてもらおうと思って」
「はい?」
「ほう」
いや、いやいやいや。ナハト辺境伯は興味深そうに目を大きく開いたけれど、冗談じゃない。今日はあまりの剣幕に渋々従ったが、これから名だたる帝国貴族の前にこんな顔で出ていけだなんて、そんなの凌辱――とまでは言わないけれど酷い嫌がらせだ。
「いえあの、ラウレンツ……殿下、それはちょっといただけません。白粉を塗らずに社交界に行けなんてそんなの、私が殿下にパンツを履かずに政務につけと言っているようなものです!」
「面白い細君ですな、ラウレンツ殿下」
ハハハ、なんて声を上げて笑われたが、笑いごとではないのだ。化粧をしてもなお、エーデンタール国での私は「不美人」と言われ続けてきた。帝国皇子妃がそんな誹りを受けては皇族の沽券に関わるし、契約妃として義務を果たす(そして稼ぐ)ことが必要な今こそ、誰よりもきちんと化粧をせねばならない。
が、ラウレンツ様は「まあよく聞いてくれ、ロザリア」なんてもったいぶる。
「なぜ女性は死仮面かと思うほど肌を白く塗りたがるのか考えてみてくれ」
「肌は白ければ白いほど美しいと言われているからです」
「そこだ。“言われているから”、言い出したのは誰だ」
「さあ……。でも流行なんて噂みたいなものですし、どなたか権威ある方がおっしゃったのではないでしょうか?」
「いまの君は帝国で最も権威ある女性の一人だよ」
目から鱗が落ちた。そうか、契約妃で仕事の権限があーでこーでくらいしか考えていなかったけれど、いまの私は回れ右と言えば国民に右を向かせることができるまでの権力を(外形的には)与えられてしまっているのだ。
だから、私が「新しい流行です」と堂々とこの化粧をすれば、皆それに従うと。
「……おっしゃることは分かりましたが……なぜそうする必要が? 殿下はパンツを履かずに政務についたほうがよいとお考えなのですか?」
「パンツの話はしていない。さきほど話しただろう、鉛入りの白粉はもう何年も帝国内で出回っていてね、これを製造する者もそうだが、利用する帝国民の健康も害されるし、時に動植物にも影響が出てしまう。非常に危険で害のある代物だから、俺はぜひともこれを排除したいんだ」
まあ、それは確かに……。足元のヴァレンも、自分が喋ってはいけないこと以外忘れているのか、うんうんと頷いている。神獣のヴァレンからすれば、自然に悪影響を与える毒物が駆逐されるのは当然喜ばしいだろう。
「でも、いくら使うな・作るなと言っても、どうしてもこれを欲しがる女性はいて、ゆえに作る連中がいる。肌を白く塗るのに、今のところ鉛以上のものはないのだろうね。であればどうするか、前提の問題だ――需要を否定する。肌を白く塗らなくてよいということにしてしまえばいい」
もちろん、帝国皇子妃とはいえ、肌を白く塗らずに現れれば、最初はギョッとされるか、少なくとも唖然とはされるだろう。でも、流行なんてしょせん形のないもの、流行の権威が勝手に決めているだけの代物だ。
「これからの流行は自然なメイクでしょう?」なんて、私がさも当然のようにこのメイクで登場すれば、肌を白く塗りたがる人はいなくなる。
「なんなら『まだ白粉を使っているの? クラシカルなのねえ』くらいの皮肉を言えばたちまち一掃されるかもしれませんね。貴族令嬢の方々って流行についていけないことを何より恥となさいますし」
「ロザリアが言うことはないけれど、そう言ってくれる貴族はいるだろうね」
「恐れ入りましたラウレンツ様、パンツを履かずに政務につくというのとは似て非なるお話でしたね」
「非でしかないだろう、いい加減にそのたとえから離れてくれ」
あきれ顔のラウレンツ様の向かい側で、クックックとナハト辺境伯が笑いを零した。
「殿下……何度も言ってしまいますが、いい妃殿下ですな。安心いたしました」
「わざわざ足を運んだ甲斐があったかい?」
「もちろんでございます。これからも誠心誠意、お仕えさせていただきましょう」
笑いながら、その後の二人はラウレンツ様の幼い頃の話だの、宮殿の昔話だのに花を咲かせていた。




