第十七話 【勇ましい者、臆病な者】
ケント達が白鳩スーツと戦闘を始めた頃―
「ま、魔物の軍勢だぁ!!!!!!!!女、子供は逃げろー!!!!!」
「火の手が上がってるぞ!!!!!!!」
「消防魔導隊に連絡しろぉおおおおお!!!!!!!」
その日、教会の警鐘が打ち鳴らされた。時刻を告げるものとは違い、非常用の鐘の音は長らく使われていないのが分かるほど音が錆びついていた。村までもう少しというところでその音を聞いたエイダムの小さな手と唇が引きつり、震え始める。
村と爺の住んでいる小屋は丁度今エイダムがいる位置から見て正反対にあった。僅かな逡巡の後、手にしていた水汲み用の桶をガシャンと床にほっぽりだしてエイダムは爺と住んでいる小屋まで駆けて行った。
村なら大丈夫だ、防人隊の人たちも居るし、何があってもアッバが何とかしてくれる!そう自分に言い聞かせながら。
爺はいつもなら今頃は夕餉の支度と言って、一升瓶を空けて、お勝手に鼻歌でも歌いながら立っているはず…
小屋の扉を開けて爺の呑気な姿を見て、
馬に乗っけてすぐに村の皆に知らせに行って、
そうすれば大丈夫。そうすれば大丈夫。悪夢は悪夢で現実じゃない…
エイダムの視界の先に小屋が見え始める。
そして、いよいよ扉の前で息を切らしながら呼吸を整え、しかしその時にさえ爺のいつもの鼻唄は聞こえてはこなかった。
嫌な予感が胸の中いっぱいに、暗雲みたいに立ち込め、エイダムは少し泣きながら扉を開いた。
扉の先で爺が血を流して倒れている。トビラノサキデジイガチヲナガシテタオレテイル?
爺がいつもエイダムに絵本を読んであげているソファから床まで、血と、トロールらしき生物の汚臭のするよだれが光る。
荒らされた部屋の家具、爺が大切にしているお酒を入れておくための水瓶も粉々になって床に散らばっている。
「爺!爺!しっかり!大丈夫、僕が…、僕がアッバのところまで連れてってあげるからね、もう大丈夫だからね、ねぇ、だから気をしっかりして馬に乗っかって!!」
ほとんど悲鳴のようなエイダムの呼びかけに爺は、目を開けることなく、やっとのことで、それでも精一杯いつもの調子で声を振り絞った。
「おぉ…なんゃ…エイダムか…、あんまり帰りが遅いんで待ってる間に飲みすぎてもうたな……」
「爺、喋っちゃダメだよ、ほら掴まって、馬は揺れるけど我慢してね、ね、お願いだから掴まってよ、爺!!!!」
エイダムが肩に回した爺の腕は力無く床にごとんと音を立てて落ちた。
「なに…、そう泣かんでもええ…、アッバに習うたじゃろ…、
極楽浄土で婆さんと酒飲んでくるだけじゃ…、
久々に会うて積もる話してる間にまた爺なるわな…、
せやから当分邪魔しに来た…あかんで……」
「爺っ!?爺っ!!?!?嘘だ!爺っ!?起きて!?ねぇっ!?ねぇってば!!!?」
小屋に響くエイダムの泣き声、エイダムはそれでもそれを一生懸命に小さな胸に押し込めて彼をおぶって馬小屋の馬に括り付けると、自分もそれに跨がって村まで一目散に向かった。爺はもう息をしてはいなかった。
あれや、おらぁ身体がこんなちっこくなってしまうて…、子供にでもなってしもうたか?
ぱっからぱっから揺れてんのは馬に乗ってるからか?
はて、後ろで俺を抱えて馬の手綱引いてんのは誰や?
……、
……、
もしや、仏様が極楽浄土に連れてってくれとんですかい?
随分ありがたい温もりでさぁ、もうすっかり極楽浄土についてしまったみたいで
エイダムのこともよろしゅう頼んます。
村の北部は【剣客 覚ノナキ】が付けた火で焼失し、その火の手は今中央の教会にまで伸びようとしていた。
白鳩スーツの部下達の襲撃から生き残った村の男衆が防人隊の後に続き、手に扱いなれぬ槍や剣を持ってホブゴブリン一勢に向かっていく。
だが、数多のホブゴブリン達は既にメイジゴブリンのバフがついて村の防人達では敵う相手ではなくなっていた。
「殺せ!!首を跳ねるか心臓を付きさせ!」
防人隊の隊長が叫んでいる。
「脚を削ぎ目を潰すんだ!!おぉらぁ!!!」
防人副隊長もそれに続いて大声でゴブリンの目から額にかけてを突き刺し、その屍を力技で振り投げる。
焼け落ちた故郷を前に、僅か5歳ばかりの少年は、血を流し息をせぬ育ての親を抱え慄然と怯えていた。
家と、肉が焼ける臭いが風に乗って運ばれてくる。
悪夢が、止められたはずの悪夢が現実となって目の前に広がっていく。
遠くから聴こえる村の皆の叫び声、念仏、怒り、わななき、慟哭…
「なんだ嗚呼?生き残りかぁぁ?」
既に中央に向かった他の白鳩スーツの手下達に出遅れたゴブリンが馬に乗ったエイダムを見つけた。
「逃げて…」
瓦礫の下、そのゴブリンに踏みつけられているいつも挨拶をしてくれるおばさんが目線でそう訴える。
『魔物を見つけたら即討伐せよ』
いつか教会に来ていた僧侶の特別授業のセリフが頭をよぎる。
「無理だよ…出来ないよ…」
倒していかなくてはならない敵を前に立ち向かわなくてはならないその足が竦んでしまう、拾い上げた剣を握るその手が躊躇ってしまう。
あちらでもこちらでも応戦の吶喊と、悲鳴、獣のように敵を殺そうとする余裕のない叫びが空気の薄い高地に響いている。
それらがエイダムの耳をつんざく。
放っておけば彼等は村全部を焼き払い、男衆を皆殺しにし、
武具、食料、果ては何に使うのかも知らないまま家財を皆そのマンティコアの幼体の背中や連れてきた荷車に乗せて、
女子供に暴行の限りを尽くし、あるものはさらに彼らの根城につれてかれてさらに手酷い仕打ちを受けるだろう。
「殺せぇえ!!!!」
いつもは優しくおまけをしてくれるパン屋さんがボブゴブリンの腕を切り落としながらそう叫んでいるのが少年には聴こえる。
「全員生きて返すなァァァ!!!!!!」
いつも村人に率先して挨拶をしている防人隊の人が目を血走らせているのも少年の眼には映ってしまう。
その時ホブゴブリンの幾体かがさらに、エイダムを見つけ、囲み、にじり寄りって来る。
逃げられない事を悟ってエイダムは馬から降り、教会で習った魔法の詠唱を始める。
その時、激しい頭痛がエイダムを襲った。
記憶の刹那はホブゴブリンの生涯をエイダムに訴える。なんてことはない人間と同じ循環であった。
働き、
冷たい上司にけたたましく罵られ、
誹られ、
意気消沈し家に帰るとそこには妻と子達がいる。
玄関の扉を開けるなり飛びついて抱きつく我が子、
抱え連れてキッチンの妻にキスをすると皆で温かい夕食が待っている。
そしてその食い扶持を得るためには、
家族を守るためには、
その手に武器を握って、
血に染めていかなくてはならない。
ホブゴブリンの記憶の最後には白いスーツを着て、鳩を肩に乗せた男、大きな巨体を黒い肌に包み、白い歯をギラリと見せ笑う男二人に「村を焼き払ってこい」と命じられている光景が流れていた。
エイダム、ホブゴブリン、どちらともなく胸の中は曇天と悲しい雨に包まれていく。
エイダムがその頭痛を持って膝から崩れ落ちると、少しの躊躇いのあとホブゴブリンは剣をエイダムの首目掛けて振り下ろす。
知恵を持てば、或いは持たずとも小さな自分の子と同じ年月しか生きぬ者を殺すのは良心を苦しめる様な事なのだろうか。
にじり寄るホブゴブリン達の一番後ろで、さっきまで人間だった挨拶をいつもくれるおばさんが首に咬み傷を付けられ、血を流し、ゴブリンと同じ肌をしてこちらをじっと見ている。ゾンビの如く。
声にならぬ声と共に少年エイダムは魔法詠唱を終えようとしていた。そして終える前に、おばさんと目が合って、彼は振り上げた剣を手から落とす。
「殺゛ぜぇぇえ!!!!!!!!!」
「殺っちまえ椏椏椏エエエ!!!!」
「偽ギャハハハ歯歯歯歯歯歯!!!!!」
エイダムが再び顔を上げると、そこには昨日家に泊まった市石田という珍しい服を着た女性が背を向けて立っていた。
自分の首をはねようとしていたゴブリン達全員の首が床に、台所のまな板から落としたタマネギの様にゴロゴロと転がっている。
「新さん…、爺が…爺が…」
新検校という女の下の名前をまだ発音できないエイダムは彼女をそう呼びながら泣きじゃくる。
女は馬に乗せられた爺を見て、少年になんと声を掛けていいのかわからなかった。
共感覚、鋭敏な聴覚、御告げ、女神より下賜されたこの力がこの少年をどれほど今苦しめているのだろうか…、推し量ることもできない。
少年の表情、彼がここに来るまで何《﹅》を見てしまったのかを察してしまった。
「童…」
女の逡巡、せめて少年エイダムには生きていてもらいたい。
彼ら二人を襲うその乾いて掠れた絵の具の深緑を塗ったゴブリンというモンスターは、ささくれて血だらけになった棍棒を持って二人を殴り殺そうと笑みを汚し、近づいてくる。女はすでに慣れるの土地で、この村に火をつけた剣客との闘いで一歩も動けない程に疲弊しきっていた。
女は素早く馬から爺を降ろし、少年を力付くで馬に乗せるとその馬の腹を蹴る。あまりの速さの出来事にエイダムは馬が走り出すまで何が起きたのかわからなかった。
馬は女の意図を察したのか、エイダムの静止を聞かず山の麓まで駆けていく。
エイダムはその時ふと、あの女神様ならこの悪夢を終わらせてくれるんじゃないかと考えた。馬の手綱を引き、いつもの山の五合目まで急いでエイダムは向かう。
「女神様!女神様!お願いです!村を!爺を!皆を助けて!!!」
悲痛なエイダムの訴えに女神と呼ばれた天より降りし声は、しかし余裕のない声で答えた。
「エイダム、それはできません。ここより即刻離れなさい!」
いつもとは違った雰囲気にたじろぐエイダム…
「でも…、でも!このままじゃ皆が!」
もう泣きべそと鼻水で顔一杯にした少年はそれでも引き下がらない。
「どうか言うことを聞いて下さいエイダム!」
エイダムは知っていた。なぜこの天より降る声がこの山にいるかを。
村には伝承がある。かつて聖七教会と謳われた教会の一つは牧父アッバが仕えている村の教会で、それはこの山にかつて世界を脅かした古代魔導兵器を封印する為に建てられたのだと。女神様に一度その事を聞いた時には誰にも口外しないようにと珍しく真面目な口調で言われたから覚えていた。エイダムは村を救うにはもうそれしかないと考えていた。それが例えどれほど恐ろしいものであっても…
その時稲光が天を割る。まるで星という卵から新たな生物が誕生するかのように―