第四十一話 【インタビューウィズカウンセラー】
皿の上の鶏肉のような見た目をした赤い肉にはぱっくりと裂け目がついていて、裂けた両側が丁度火に他の部分より炙られて膨れ上がっている。
目の悪い私はそれを手にとって、丁度バーベキューのトウモロコシにするように顔に近づけてぎょつどして皿の上に放り投げた。
私が肉のいい加減に焼けて膨れ上がっていると思っていたものは人間の口びるで、その口元はどことなく笑っているようにも見えたからだ。
何故それが人間のだとわかったのだろう。嫌な逡巡。
焼身自殺に失敗して無惨な姿になった人間のただれた皮膚のようにそれは紅く、脂の上に光の跳ね返ってるのがまた体から出た膿のようで、化膿黄疸、ついに堪りようもなくなって私の口の中に先程入れた一口目が胃酸と共にやってくる。
それを鶏肉と勘違いしたのは私の目が悪いからだけではない。
その肉は丁寧に何日も日干しされて中華街の屋台で売られている干し肉のように水分を失って本来のサイズよりも一回りも二回りも小さかったからだ。
肉の裂け目、炙れた口元には他のマッシュドポテトとオイスターソースのような橙色の何かがぐじゃぐじゃと詰まって、痴呆老人が介護食をぼたぼたとこぼすかのようにそれは肉一面に広がっていた。
私はその炙れた肉片をじっと見つめる。どこか見覚えがあるが、なぜかそれが誰だか思い出せない。
もうその肉の周りのオレンジの何かが腸なんかに見えてくると、直視するのも怖くてブルブル震えてきだしたが、なぜかどうしてもその口びるから目を話すことができない。
誰かに似て…、確かに見覚えがあるのだ。
どうか映画のセットか、幻覚か、張り込んで撮った放火事件の写真から既視感が来ているのであってくれと思いながら他の部分を恐る恐る突くと、中からは他にプラスチックの破片やらが、突付くたびにトイレの芳香剤の匂いを撒き散らしながら出てきた。
干からびた米のようにも見えるそれが何なのかはもう、わからない。
怖くなって、とにかく店を後にしようと急いで取材道具の入ったカバンとコートをひっ捕まえる。
するとウェイターも、厨房の店主も、皆こっちをじっと見ている。
そんな気がする。
気のない素振りをして、一流レストランの微笑みを携えながら、私の一挙手一投足をじっと見ているような気がする。
この後、このレストランのあるビルの上の階で取材の仕事があるが、それもキャンセルしようかと言うほどに私の心は震えていた。
だが、なぜか逃げ道はないように思えた。
大事な取材を、レストランの料理が恐ろしく見えたからと言ってすっぽかせば今度こそ会社をクビになる。
そうして行きていけるほど、私は器用な人間でも、ましてピエロのように人生の綱渡りが上手な人間でもない。
レストランの出入り口の扉がやけに遠く見えた―
新聞記者なんて金にもならない仕事をやってはや5年、今日は巷で評判の腕の良い心理【カウンセラー】の取材が昼過ぎから入っていた。
つい先日、多忙で滅多にメディアに出ないという彼のインタビューのアポが取れたと編集長が大はしゃぎしていたが、その取材をするのも、その取材記事をまとめるのも私だというのに…。
そしてそれは他の記事の合間を縫ってどれだけ急いでやっても到底定時までには終わらない仕事、駆け出しの、特に文才もない若造の新米記者の私が一面記事、或いは二面記事を任されるというのはつまりそういう給与の支払われない時間の犠牲の上に成り立つ業績であり、悲しいかなそんな社会のブラックを嘆いて記事にして載せることは出来ないというのが現実だ。
もちろん、私だって入社したての頃は、初めて任される大仕事を昼も夜もなくする事に何か『意義』であったり、『やりがい』みたいなのを感じていた。そのことは認めざるを得ない。
しかし、それが一年続いて、二年続いて、一緒に入社した同期がついぞ辞表を出して、自分のデスクの上で一日に一箱も二箱もタバコの吸い殻が溜まって、サービス残業の時間だけが増えていけば当然失われていく。
まるで若さのようにそれは失われていく。
それでもせっかくやりたかった仕事につけたという満足感、
これから転職をして果たして上手くいくのかという不安、
少なくとも月給、福利厚生は保証されているからというお情けのような安心感、
それらが自分を騙し騙し会社という組織に縛り付け、
やがて思考を放棄して、
「あぁ、他の会社に行ったあいつは上手くやれてるのかしらん」等と考える時間が増えてくる一方だった。
だがその思考が次の「転職」や「労働組合への本格的な参加」といった考えに至る前に次の仕事が舞い込んでしまう。
どのみち私に逃げ場などない…。
そう思いながら今回のインタビューの前に思い切って取材をする予定のカウンセラーの事務所が入っているビルの一階でお高めのランチを注文したのであったが、果たしてこれはどうしたものだろうか…。
結局料理には全く口をつけなかったものの、これはこれで記事のネタになるな等と店を出る頃には職業病が出てしまっている自分がいた。
やけにお高そうな彫刻の施された大理石の階段をそうして2階分登り、分厚い漆で塗られた扉をノックする。
中では既に受付の綺麗な女性が私の来訪を待っており、慣れた案内で私を奥へ通す。
ーインタビューが始まるー
「人間の心というのは複雑なものです。
カウンセリングをやっているとよくそう思います。
多重人格なんてのは自分とは全く関係のないものだ、なんて思っている人が世の大半なんでしょうけど、その実一人の人間の中には二律背反とも言える全く矛盾した正反対の感情や思考が同時に存在していたりしますね。
コインの裏表だなんて要領を得た比喩表現も嫌いではありませんが、僕はその猥雑に一つの心の中に押し込まれている様々な欲や自制心が同時に叶うところが見たかったんです。わかりますね?」
「有り体に言えば、これ以上聞きたくない話をそれでも訊ねてしまうと言った感じですか?」
カウンセラーは悠然と椅子に手を置きながら書斎の絨毯に革靴を沈め、窓辺の日のよく当たる所に置かれた棚の前で立ち止まった。
彫刻を覆う漆塗りのいやに高そうな、いや実際に高いであろうその厨子の上、赤茶の何の変哲もない植木鉢から伸びる観葉植物の木の幹に無造作に突き刺さったそれは、血肉色のピンクでどこからどう見ても脳髄器官にしか見えない。
その幹と脳のようなものの結合部からは痛々しそうに黒く固まった血が蜜のように垂れてこびりついている。
「誰しも悠々と青空に葉叢をより広げようとしている木を見て、理科室の脳の模型にそっくりだなと思った事があるでしょう。
これはまぁそういう意味であえて言うならば私なりの基督耶蘇教に対する化学的性質を持った一種のオーナメントと言っても過言ではないかもしれません。」
男は植木鉢の隣りにあったビーカーから、中の液体をスポイトで取り出すとその脳の上に一滴垂らした。
液体は薄気味悪いほど透明で、晴朗とした昼下がりの陽光を綺羅キラと跳ね返し、不純物の無い清廉潔白とした感じがある。
なぜだか私はその時液体洗剤の『飲ムナ キケン』というラベルの注意書きの事を思い出していた。
「それは生き物の脳ですか…?」
冗談めかしてした私の質問に【カウンセラー】は答えない。
液体の垂れた肉の一部は焼けただれ、紅々と薄い血線を垂らしながらグロテスクに中身を露見させてゆく。
そして脳がビクビクと蠢いて、収縮運動を繰り返している。自転車で転んで思いっきり腕を擦りむいた時の皮膚の下にある人間の生々しい肉というのはあんな感触をしていなかっただろうか?
「彼らは何を思っているんだろうね?」
私はつい堪らずに聞き返した。
「彼ら、とはこの脳の元の持ち主達のことですか?」
男はそれまでの芝居がかった紳士調の仮面を少し付け直して、その僅かな最中に素顔が垣間見えてしまったかのように微笑を溢した。
「彼らは今でもこの脳の持ち主だよ?」
その言葉の意味する所を理解し切る前に、編集長にこれだけは聞いてこいと言われていた質問をした。
「そういえば新理学療法士さんは実は【魔人パクリカ・レプリカ】の仲間なんじゃないかーなんて噂がまことしやかにあるのですけど…」
最後にハハハとから笑いを入れて、あくまで噂程度の事ですよという部分を強調する。
「だとすると、困りましたね。私は彼に自分達を嗅ぎ回る者はこうして綺麗に生けておけと言われているのですが…」
アルコール消毒された純銀のメスで、何度も、何度も、茹でたブロッコリーや人参を優しく切るみたいにして形を整えられ、一つの木の盆栽、葉叢の塊になったそれらの脳という肉塊の痛覚神経や視覚、恐怖を考える海馬なんかは全て残っている。
いくつも並ぶその脳の盆栽、うちの一つは自分が新聞記者として心理カウンセラーの事務所をインタビューしに訪れているという夢を見ているかもしれない。