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魔力のうねりを感じ取り、アーシャはとっさに風魔術を発動させて少年を突き飛ばした。
蔦が生えるように、少年が今までいたところに石の床から細い金属の綱のようなものが湧き出ていた。明らかに拘束具と見えるそれに、少年は転がりながら炎を放つ。綱は高温の炎を浴び、一瞬で黒く砕け散った。
アーシャは風魔術で跳躍して少年の傍に降り立ち、邪魔にならないように、しかし助けられるように少し後ろに位置を取った。
「その子を渡してもらおうか?」
どこからともなく現れた人物が、少年を指さしてアーシャに言う。魔術を使っているのか魔道具を使っているのか、変声されて性別も年齢も分からない。黒いローブを着てフードを目の下まで引き下げた姿もぼやけて見えており、どうやら目くらましの魔術がかかっているらしかった。
そうした魔術はそれなりに知られている。解除も可能だが、悠長に試している場合ではない。ましてアーシャは結晶に魔力を頼っている身、優先順位を間違えると結晶の魔力が尽きて脱出さえままならなくなる。
「あいつだよ。俺をこんなところに閉じ込めた奴らの一人だ」
「こんなところとはご挨拶だなあ? 路上暮らしから救って寝食も整えてやったというのに。贅沢な環境だろう? まあ、君が台無しにしてしまったわけだけど?」
「自由を奪われて無理やり魔術を使わせられて贅沢も何もねえだろうが! この人さらいが!」
叫んだ少年ががくりと膝をついた。慌てて振り向くと、ひどく顔色が悪い。小刻みに震えて息が荒く、確かめてみると手足が冷たい。典型的な魔力欠乏の症状だ。
アーシャはおぼろげながら事態を把握した。少年は攫われる形でここに連れてこられて閉じ込められていたのだろう。
魔力を持つ者は王侯貴族に多いが、一般の人々の間にも突然変異的に現れることがある。多くは魔術協会に見出されて支援を受け、魔術教育を施されるが、もちろん全員を把握できるわけではない。親が我が子の魔力の発露に気付いて――物がひとりでに燃えたり湿ったりしてしまうとか、変形してしまうとか、動いてしまうなどの異変に気付いて――魔術協会に連絡を取ることが多いため、親のない子の場合は把握が遅れるのだ。あるいは――よからぬ考えを持つ者に利用されてしまうこともある。
この少年もおそらくはそうした者に捕まってしまっていたのだろう。アーシャは耳に意識を集中させて、
「痛っ!」
とつぜんアーシャの耳に痛みが走った。ぱきんと音を立てて魔道具のイヤリングが砕け散る。
「連絡を取られては困るからな?」
ローブの人物が言った。アーシャがカレンに連絡を取ろうとしたのを察して阻止されたらしい。
(かすかな魔力の流れを察知された……相当な手練れだわ)
アーシャは歯噛みしたが、これはこれで連絡になると気持ちを切り替えた。アーシャと連絡が取れないことに気付いてくれれば、異常事態が起こったのだということは伝えられる。
「お前は魔術協会の魔術師だろう? 我々も協会を表立って相手にするのは避けたい。そいつを置いて立ち去れば見逃してやるぞ?」
「できるわけないわ」
アーシャは即答した。そんなことは魔術師として、人として、できるわけがない。
(でも……どこまで戦える?)
アーシャはじりじりとした焦燥感とともに考える。左手に握り込んだ結晶は夏の氷のように刻一刻と小さくなっていくし、懐に入れてある結晶でどこまで保つか。
(私に、魔力があれば……!)
それを今ほど痛切に願ったことはない。体内に魔力があれば自在に引き出して戦い続けることができるのに。
少年にちらりと目をやるが、ぐったりとしてもう戦えそうにない。まだ命に関わるほどではないが、そうとう苦しいはずだ。一刻も早く安全なところで休ませて、治療を施してあげたい。
「やる気か? 馬鹿だなあ?」
(やるしかない……!)
ローブの人物が手を掲げると、それに応えるように辺りの床から多数の綱が湧き上がった。
もう結晶の消費速度を気にしている場合ではなかった。アーシャは少年を背に庇いつつ、風を操作して手を触れずに懐の魔力結晶を取り出した。
蛇のようにしなる綱がアーシャと少年を狙ってあちこちから襲い掛かってくる。一般人の身体能力ではとても躱し切れないそれらを、アーシャは手当たり次第に迎え撃った。
綱を無理矢理ねじ曲げて方向を変えたり、組成や密度を変えて脆くしたり動きを狂わせたり、相手の魔術に干渉して術の行使を阻害しようとしたり、思いつく端から試して対抗していく。
「ふうん?」
ローブの人物が笑う気配がした。顔は見えず変声されてもいるが、面白がるような嘲笑的な響きだけは紛れることなく伝わってくる。
アーシャの方は当然、面白がるどころではない。少年と自分を守るため、魔術の知識を総動員させて事態を打開しようとする。
(相手は明らかに、土属性だわ)
主に固体を扱う土魔術は、制作や加工と相性がいい。屋敷の建材から綱を生成して自在に操る様子からは、土魔術への高い適性が窺えた。
(そのはず、なんだけど……)
なぜか違和感がつきまとう。
しかし悠長に考えを深めている時間はなかった。
アーシャを試すように、今度は綱が何本も合体して巻き上がっていく。綱を編み上げてできた綱が極太の凶器となり、二人をめがけて突っ込んできた。
「!」
アーシャはとっさに風魔術を発動させ、少年を強引に自分の方へと引き寄せ、抱え込んで飛びのいた。
一抱えもありそうな金属の綱が、二人が寸前までいた場所の床に激突した。硬い大理石のタイルが砕け散り、衝撃が伝わって二人の体が床から浮く。
(あれが、体に当たっていたら……)
アーシャの頬を冷や汗が伝った。
ローブの魔術師がアーシャを嘲笑う。
「さあ、次はどうする?」
今度は綱がばらけて丈の高い草のように変じた。魔術師の足元から床の形状が変わり、アーシャたちの方へ波及してくる。草原を風が渡るように綱がなびいて迫ってくる。その切っ先がそれこそ草のように鋭いのを見て、アーシャは慌てて少年を抱えたまま宙に逃れた。
(まずい……)
空中戦を強いられると、風結晶の減りが格段に速くなる。あと懐にいくつ残っていたか、大きさはどうだったか、あまり思い出したくない。しかしアーシャの記憶力が現実を残酷に突きつけてくる。あとどれだけ戦えるか――それは、二人の命があとどれだけ保つか、と同義だ。
短い猶予で状況を変えるべくアーシャが動こうとした、その時。