プロローグ
「……――――! ――――――!!」
幼いながら端正な顔立ちを悲痛に歪めて、黒髪の少年――ルディが何かを必死に叫んでいる。両拳を赤黒く腫らして血を流し続けながら、目の前のものを必死に殴り続けている。
可愛い弟子の痛々しい姿に、師匠たる魔術師のアーシャは――微笑んだ。
なるべく自然に。ぎこちなくならないように。何も問題ないのだというように。
もちろん内心に余裕はない。彼の手のひどい有様は直視するのが難しいほどで、すぐに手当をしてあげたい。その手よりもさらに痛みを訴えているであろう彼の心も心配でたまらない。師匠としても、姉代わりの存在としても、彼を抱きしめて安心させてあげたい。
でも、叶わない。
ルディが必死に叩き壊そうとしている巨大な赤い塊は、刻一刻と硬質に透き通りつつある。彼が暴走させた莫大な火の魔力は結晶化を終えつつある。――アーシャを、その中に閉じ込めたまま。
彼が必死になって事態に抵抗しようとしてくれているのは痛いほど分かる。何を叫んでいるのかはもうほとんど聞こえないが、内容は想像がつく。自惚れではなく彼には慕われている自覚があるから、アーシャのことを呼んで、アーシャの行為を止めようとしてくれているのだろう。
でも、止めない。
アーシャが彼の魔力を結晶化することを止めれば、莫大な彼の魔力は大爆発を引き起こし、辺り一帯を焼き尽くし、甚大な被害を出してしまうだろう。
決して、そんなことがあってはならない。巻き込まれてしまう人たちにとっても、ルディにとっても。
(これでいい……私ひとりの犠牲で済むなら)
冷静に判断しつつ、細心の注意を払って結晶化の魔術を紡ぎ続ける。頭の中で複雑な魔術式を描き、脳が焼き切れそうな負荷に耐えながら魔力を制御しようと試みる。莫大な魔力が拡散しないように、自分を中心にして――自分を閉じ込めて――魔力結晶を完成させようとする。
結晶化の魔術は得意だが、さすがにこれほど大きな魔力をこれほどの大きさの結晶にしようと試みたことはない。不可能に近いと思われるような難易度だが、アーシャは術者を――自分自身を――核とすることで突破口を見出した。
もちろん試したことなどないから不確実だし、魔力の奔流を制御するのも至難だ。だが、余計なことを考える余裕がないのは却って幸いだった。この魔術が成功した後、自分がどうなってしまうのかを考えずに済むのだから。
魔力は空気中に、水や土の中に、人間の体の中に、さまざまな形で存在する。気体として、液体として、固体として、あるいは他の形で。その最も純粋で高濃度な形が固体の、結晶だ。
その中に閉じ込められた人間がどうなるかだなんて――誰に分かるだろう? 術式を組んだアーシャ自身にだって分からない。
死ぬのだろうか。即死だろうか、緩やかに死ぬのだろうか。それとも仮死状態で済むのだろうか。それとも、意識を保ったまま身体を動かせずに……
(いけない、余計なことを考えては駄目)
結晶化の魔術がいよいよ終わりにさしかかり、余計な考えがするりと忍び込みそうになる。アーシャは頭を振って考えを追い払おうとし、その頭がもう動かせなくなっているのに気づいて慄いた。
自分を閉じ込めて硬く完成していく魔力に圧迫されて、頭が真っ白になりそうだ。空気ももう通わず、息をしようにも口が開かない。
口元が微笑みの形のまま固まっていることが僅かな慰めだ。恐怖に引き攣った顔を愛弟子の目に焼き付けることにならなくて本当に良かった。恨んでなどいないし、罪悪感を持ってほしくない。……無理だろうけれど、それでも。
(ルディ、どうか……幸せに)
莫大な魔力と不幸な境遇とを併せ持った少年に、どうかこれからの幸いを。
自分が傍で見守ってあげられないのが辛いけれど、彼ならばきっと莫大な魔力を使いこなせるようになるはず。不出来な師匠だけど、せめて祈らせて。
「――――――!!!」
少年の絶望の眼差しに、精一杯の慈愛の眼差しを返して――これが最後だと力を振り絞り、アーシャは瞼を閉じた。