今、私にできることは……
職員室のあちこちで、携帯電話がけたたましい音を立てている。これから地震が来ると言っている。「今時は、こういう機能もついているのか」と、初めて聴く緊急地震速報音に感心していると、すぐに地震がやって来た。
数日前の地震を体験していたので、「あれ、またか。最近、続くなあ」というようなことを一瞬思ったような気がする。そして、すぐに身の安全を守るよう校内放送を流した。
「地震です。地震です。全校の皆さんは、先生の指示に従って、落ち着いて行動して下さい」
マニュアルには、これを二回繰り返すとある。(震災後の研修で、地震時の適切な校内放送について学び、それ以降は、「地震です。地震です。今すぐ,上から落ちてくる物・横から倒れてくる物から自分の体を守りなさい。地震です。地震です。今すぐ,上から落ちてくる物・横から倒れてくる物から自分の体を守りなさい」と放送した)
避難訓練は、ついこの間、二月にやっているし、数日前の地震のときも校内放送で全校児童に指示を出して避難させている。危機管理マニュアルに従って、間違いなく対応した。
今回も、揺れがおさまったら避難の指示をするつもりでいたが、なかなか揺れがおさまらない。これまでに体験したことのない長い長い横揺れだった。
私の横で校長が身をかがめながら辺りの様子を見ている。
「校長先生、机の下に入ってください」
と、自分も机の下に頭を入れる。
やがて、揺れがおさまらないまま、室内の蛍光灯が切れる音を聞いた。
シューーッ。
エネルギーを使い果たしたロボットが動かなくなるような感じ。電気の灯りには音があったのだ。静寂の中で建物が軋む音だけが聞こえる。
室内が暗くなっても、揺れはおさまらない。何分ぐらい揺れていたのだろう。
揺れが収まってから、ハンドマイクを手に廊下を走った。途中だった校内放送を完結させなければならない。前回の地震のときは、暖かかったが、今回は雪が降っている。
「雪が降っています。外套を着なさい」
一階にいる下学年に向けて何度か繰り返した。
二階に駆け上ると、上学年の子供たちはすでに廊下に出て外套を着ようとしていた。
先生たちは、落ち着いて子供たちを誘導していた。子供たちは、誰一人として声を出すことはない。声も出ないくらい怖かった。これからどうなるのか不安だった。
何人かの子供と目があった。
「外は雪が降っています。寒くないようにして外に出なさい」
マニュアルにはない指示を繰り返した。
未だかつて感じたことのない異様な揺れだった。それほど遠くない所で、もの凄い異変が起こっていると直感した。
全校児童三百名が玄関前に整列している。冬季の避難場所は玄関前と決まっている。グラウンドには、除雪車が飛ばした雪が山になっているのだ。それは、校舎の周りも同じだ。 この後、どう対処すればよいのか。
停電しているのでテレビは見られない。放送室に行けばラジオがあるが、今すぐに使うことはできない。しかたなくあまり使ったことのない携帯電話のアイモードを調べてみた。
画面に「岩手で震度7」という横文字の文が映った。その下にある文を見るためにスクロールするが、先に進まない。そして、それきりその情報は途絶えてしまった。
あいかわらず雪が止む気配はない。時折余震が来て、校舎や電線を小さく揺らしている。子供たちは、しゃがんだまま次の指示を待っている。
管理職と各主任が集まり、子供たちの傍らに輪を作って、この後の対応について話し合った。主任会議である。
雪の降る中、子供たちをこのまま外に出している訳にはいかない。そこで、体育館に三百人を移動させることにした。体育館は、地域の避難場所にも指定されている。子供たちは、一端教室に戻り、帰りの準備をして体育館に集まった。
と、職員室にいた事務職員が、体育館に走ってきた。
「ラジオが繋がりました。三陸の方、大変なことになっているようです」
その場にいた職員が皆彼の方を見た。
「三陸に大津波が来た、と言っています」
「大津波」
すぐに、昭和五十八年の日本海中部地震を思い出した。当時、日本海には津波は来ないとと言われており、その俗説が人的被害を広げた。しかしあのときは、「大津波」とは表現していなかった。
五年生の社会科の教科書に載っていた田老町の防潮堤が目に浮かんだ。あの大きな防潮堤は、その大津波を食い止めたのだろうか。
「教頭先生、保護者の皆さんが、集まって来ています」
という職員の声に外を見ると、保護者数十名が校門周辺に集まっている。心配して駆けつけてくれたのだ。私は、再びハンドマイクを持ち、外に出た。
「保護者の皆様、ご心配をおかけしております。子供たちは全員無事です。子供たちは現在、体育館に避難しております。この後、安全を確認した後、集団下校することになっておりますので、ご協力お願いいたします」
子供たちと一緒に帰ってくれる保護者がいれば心強い。
吹雪など悪天候の時に、地区単位で集団下校をすることは珍しくない。その際、いつもであれば、保護者には電話連絡網でその旨を伝えている。しかし、今は停電のため電話は使えない。どう対応したらよいものか……。 再び主任会議を開く。
会議では、次のことが決まった。
一、子供たちの帰宅先を確認する。
二、帰宅先に保護者(父母、祖父母等)が在宅しているか確認する。
三、保護者が在宅している子供のみ集団下校をさせる。
四、集団下校は、地区担当教員が引率し、保護者に直接引き渡す。
五、帰宅先に保護者が在宅していない子供は、学校に据え置き、保護者の迎えを待ち、保護者に直接引き渡す。
子供たちから聞き取ったところ、多数の保護者が帰宅先に在宅しており、子供たちの大部分は集団下校で帰り、担当教員により保護者に引き渡すことができた。
学校には、二十数名の子供たちが残った。核家族で両親共稼ぎの子供たちである。しかし、その多くの保護者たちは、我が子の安否を案じ、仕事を切り上げ、真っ先に学校に向かった。
やがて、夕暮れになった。
理科を担当している教務主任は、理科準備室から大量のロウソクを持ち出し、職員室に提供した。
保護者の迎えを待つ子供たちは、体育館から暖房のある給食室に移った。
誰かが給食室のドアを開けるたびに、子供たちの視線が向けられた。そして、自分の迎えであったことへの安堵と、期待がはずれたことへの落胆が何度か交差した。
薄暮となり、給食室にロウソクの灯りがともされた。給食室には数名の子供が残されているばかりである。
担当する子供を保護者に引き渡した教員は、早々に職務を終え家路に着いた。すでに家族の安否は確認しているが、自宅がどうなっているのか心配である。
私の家は教員同士の共稼ぎ世帯である。長男(翔)は東京の大学院生、長女(苗)は仙台の整形外科クリニック勤務、二女(明)は、大学入学が決まったばかりの高校三年生である。
地震の後、職場で子供たちへの対応に追われている私のところに長男からメールがあった。
「こっちは大丈夫です。明と母さんと連絡がとれました。これから、苗と連絡をとります」
そして、その後間もなく、
「苗と連絡とれました。大丈夫だそうです」
とメールがあった。仕事中の父母に変わって、家族の状況を取りまとめたファインプレーに、心の中で拍手を贈った。しかし、このとき、私はまだ太平洋側で何が起こっているのかを知らない。
午後七時過ぎ、ロウソクの灯りがともる給食室に、最後の保護者がやってきた。四年生の女の子と一年生の男の子の姉弟は、母親の迎えに頬を緩ませた。
校長と教務主任と明日の相談をして、学校を出たのは、午後八時過ぎだった。玄関の施錠をするとき、いつものように警備システムを操作しようとしたが、停電のためシステムは機能しなかった。戸締まりを入念に行い、学校を後にした。
街灯の点いていない暗い道を車が進む。
数年前に起きた学校事故のことを思い出した。あの時は家に帰れなかった。事故の処理、保護者対応、マスコミ対応など、深夜まで職場に残っていた。
「家に帰れば九時か、まあまあ、早い帰宅だ」
車を車庫に入れようと、リモコンでシャッターを開けようとしたが作動しない。二度、三度とリモコンを押してみた。
「あっ、そうか、停電してたんだ」
車を外に止めたまま、灯りの点いていない玄関のドアを開け家に入ると、妻と明が懐中電灯を照らしてくれた。二人とも防寒具を着たままだ。ダイニングテーブルにロウソクの灯りがあった。テーブルの上には、カップ麺・お握り・パンなどが並んでいる。
プロパンガスが使えるのかどうか不安だったので、まだ使っていない。
それにしても寒い。FF式ストーブは電気がないと使えない。
「車庫に反射式の石油ストーブがある」
家を建てるときに、捨てないで取っておいたストーブである。車庫の棚から三人で下ろして居間に設える。何と灯油も入っている。燃え始めの灯油の臭いが鼻を突くが、そのオレンジ色の炎に、ほっと心が和む。これで寒さは凌げそうだ。
反射式ストーブの上にヤカンを載せてお湯を沸かした。お握りをアルミ箔で包んでストーブで暖めた。
食事をしながら、明の話を聞いた。
明は、すでに高校の卒業式を終えていた。つい先日、合格発表があり、長かった受験生活にピリオドを打ち、次のステージへの準備をしているところだった。
地震が起こったとき、彼女は居間にいたらしい。強い揺れに驚きダイニングテーブルの下に避難した。長い揺れが続いた。途中で停電となり、怖くて暫くはテーブルの下にいたそうである。父や母にメールをしても繋がらなかった。兄からルールがきて一安心した。 妻は学校にいた。小学二年生を担任している。帰りの会の途中だった。すぐに子供たちを机の下に避難させ、揺れが収まるのを待った。ハンドマイクの指示で、全校児童が小ホールに集まった。新築して間もない校舎で、耐震性は充分に確保されており、中でもその小ホールが一番安全と言われているらしい。保護者への引き渡しを終えたのが午後七時。帰宅途中にいつも行っているスーパーに立ち寄ったが、停電で真っ暗だった。家に帰ると、明が懐中電灯を照らして迎えてくれた。
明は友達からのメールで、近所のコンビニが開いているという情報をつかんでいた。すぐに二人で食料調達に出掛けたのだそうだ。
ロウソクのほのかな灯りの上で、灯りが点かない蛍光灯が静かに揺れた。また余震がきた。
私は、仏壇の引き出しから、太くて長いロウソクを取り出した。母の葬儀のときのものである。あれから十五年。母のロウソクは明るく温かい。
翔と苗の所には、帰宅してから、ずっと電話を掛け続けている。メールでは連絡が取れているが、本人の声が聞きたい。
翔への電話が繋がった。
翔が住む多摩地域もかなり揺れたらしい。大学の十九階にいたので怖かったと話していた。ただ、停電などはなく、ライフラインは確保されているので心配ないようだ。
心配なのは、仙台に住む苗のことだ。
夕飯のカップ麺とお握りを食べ終わって、妻からの電話がやっと繋がった。地震の時、苗は勤め先の整形外科クリニックにいた。クリニックの患者はお年寄りが多く、地震直後は、その方々の家族への引き渡しが大変だった。棚から落ちたカルテ等が散乱し、その片づけにしばらくかかると言っていた。
苗は海岸線から十一キロメートル、仙台東部道路から七キロメートルの所にあるアパートに住んでいた。部屋の中は、棚の上の物が落ちる程度で、大きな被害はなかった。停電で外は真っ暗。部屋の中では、懐中電灯を使うしかない。それに水道の水も出ない。
苗は、冷蔵庫の中のあり合わせの物を食べ、一晩を一人で過ごした。
私たちは、その夜を、ラジオを掛けっぱなしにして、反射式ストーブの前で過ごした。
ラジオが、地震発生時の各地の様子を伝えていた。
「午後二時四十六分に、三陸沖を震源とする震度七の地震が発生し、その後、大津波が押し寄せ甚大な被害が出ている」
ラジオが、そのことを何度も繰り返している。
三陸の大津波のことは、自分が小学生のときの教科書に載っていたのを覚えているし、教員になってからは、子供たちへの指導内容として必ず取り扱ってきている。日本海中部地震による津波被害は、忘れられない。遠足で男鹿半島を訪れていた小学生たちが犠牲になったことは三十数年たっても風化することなく胸の中にある。だから、三陸沿岸で、今、何が起きているのかは、ある程度想像できるはずだった。
ラジオが再び、三陸沿岸の複数の場所に大津波が来たと言っている。家や畑や車まで津波に流されたと言っている。大災害だ。しかし、先ほどから繰り返されるラジオの声にいくら耳を澄ましてみても、その声から津波の実像を描くのは難しい。暗い部屋の中で依然として収まらない余震に神経をすり減らしていた。
次の日は、土曜日で学校は休みだったが、事情の許す職員に学校に来てもらった。子供たちが登校する月曜日の連絡をするためである。
電気の点かない薄暗い職員室の中で、集まった職員に提案した。
「月曜日の授業について子供たちに伝えなければなりませんが、停電のため、電話による連絡網は使えません。そこで、お願いしたいのが、家庭への文書の配布です。各登校班長の班長の保護者に配布をお願いしたいのです。いかがでしょう」
先生たちは、互いに顔を見合わせて小声で話している。そして間もなく手が挙がった。三十代の男性教員である。彼は地区児童会を担当している。
「確認ですが、その班長の保護者へ配布は、我々教員がやる、ということですね」
「はい、そのようにお願いしたいと思います」
「分かりました。ところで、その配布する文章はどのようにして作るのですか。この停電では印刷機も使えませんが……」
と、彼は続けた。
その通りである。しかし、私には考えがあった。
「実は、そのことで、地教委へ問い合わせたことがあります。役場では緊急用の発電機で急場を凌いでいるということだったので、その電気で印刷機を動かせないか、という提案をしました」
小さく頷いてる横顔がいくつもあった。
「しかし、地教委が役場総務課に問い合わせたところ、その発電機は、印刷機には対応していないということでした」
先生たちは、じっと話を聞いている。
「そこで、考えたのですが」
と言って私は、一枚のカーボン紙を両手で摘んで掲げた。先生たちには、なるほどと頷いた。
「そうです。これで写すんです。元になる文章はここにあります。一人二、三回写せば目標に達します。よろしくお願いします」
と、言い終えるのを待たずに、先生たちが動き出した。各学年部が声を掛け合って作業が進められた。校長も、養護教諭も加わった。一人でも多い方が作業は早く終わる。
平成十一年三月十二日
保護者の皆様へ
○○町立○○小学校
大地震への対応について
余震の続く中、皆様におかれましては、さぞかし不安な日々をお過ごしのことと拝察致します。
さて、三月十一日の大地震の際は、子供たちの引き取りにご協力いただき、誠にありがとうございました。お陰様で、全児童が無事に帰宅することができました。
学校施設については、幸い大きな被害はありませんでしたが、全町内の停電・電話の不通が続いています。そのため、三月十四日(月)の授業については、今のところ実施の目途が立っておりません。
つきましては、今後の対応について、次のようにご連絡いたしますので、子供たちの安全確保等、宜しくご協力お願い致します。
○今後の授業実施については、電気・電話の復旧を待ってご連絡致します。
○余震、停電が続いていることから、子供たちには、不要不急の外出を控えるようご指導ください。
A四版のコピー用紙に複写された文章の文字は不揃いだが、子供たちと保護者に一刻も早く伝えたい、という気持ちが込められていた。
先生たちは、文書を携えて担当地区へ向かった。文書を手渡しながら、子供たちの情報を得ることもできた。校長も私も、子供たちに変わりはないという報告を受け、一安心した。
大地震の翌日、休日にも関わらず学校に出てきてくれた先生方に感謝の気持ちで一杯だった。子供たちのことを守る教育公務員として当然のことではあるが、このような時にこそ力を合わせることができる教師集団を誇りに思った。
夜、ロウソクの灯りで夕食を摂っていると、玄関のインターホンがピンポーンと鳴った。
妻が、
「あれ、宅配便かしら」
と言うのと同時に、部屋中の灯りがバチバチと音を立てるようにして点灯した。
電気の復旧をインターホンが知らせてくれたのだ。そのことが可笑しくて家族で笑った。
しかし、テレビを付けてみると、その笑いは鳴りを潜めた。
ラジオで語られていたことが映像となって流れている。それは、想像を絶するものだった。日本海中部地震で撮影された津波とは桁が違っていた。
到着直後の津波をヘリコプターのカメラが捉えた映像が流れる。海岸に到着した波が静かに陸に上がっていく。ゆっくりとしたスピードに見える。そろそろ止まって引き返すのかと思うくらいゆっくりに見える。そして、次にカメラは川を逆流する津波を捉えた。波は逆流しながら堤防を乗り越え田んぼに流れていく。そして、今度は、また海岸から来た津波を捉えた。陸に上がった津波はそのまま田んぼにまで入り込んで上っていく。枯れ草に覆われた茶色い田んぼを津波が駆けていく。画面の左側から別の津波がやってくる。それは、さっき川を逆流していた津波だ。海岸からきた津波と川からきた津波が一緒になって進んでいく。津波が道路を飲み込む。その先に車が見える。人が走っている。
昨日からずっと、こうやって放送されていたんだ。
そして私は、改めてとてつもなく大きな災害であることを実感した。しかし、それらの報道はほんの一部に過ぎなかった。その後、時間が経つに連れて、東北地方の沿岸各地の被害状況が少しずつ伝えられていった。
三月十三日、日曜日。昼近くに校長から電話があった。地教委から電話があり、明日は、町内の小中学校全て、授業を実施するという内容だった。ただ、明日は学校給食の準備ができない。停電の影響で一部の食材が使えなくなったのだ。
すぐに電話連絡網を使って保護者に連絡する(当時はまだメール連絡システムが普及していない)。給食を準備できないため、放課時刻を午前十一時四十五分とした。
三月十四日、月曜日。子供たちが登校してきた。先生たちみんなで校門に出て子供たちを迎える。幾分緊張した面持ちの子供もいるが、平常通りの登校風景である。
「教頭先生、おはようございます」
笑顔の挨拶が、私の心に元気を与えてくれる。 この日、朝一番に臨時の全校集会を開いた。子供たちは、大地震を体験し、これまでに感じたことのない何かを感じている。大きな揺れ・余震・停電・テレビに映し出される大津波。子供たちは、それらのことを上手く整理できないまま学校に来ている。
始めに校長が話した。
「三月十一日、皆さんが五時間目の勉強をしていたら、急に大きな地震が来て、長い時間校舎が揺れました。揺れている途中に停電になり、放送もできなくなりました。それでも、皆さんは先生方の言うことをよく聞いて行動することができました。お陰で誰一人怪我することなく、本日全員元気で学校に来られたこと、本当によかったと思います。
しかし、皆さんも知っているとおり、お隣の岩手県や宮城県では、大津波が来て、今大変なことになっています。安否不明の方が沢山おられるようです。とても心配なことです。
私たちは、この二日間、電気のないところで過ごしました。場所によっては、未だに停電が続いている所もあります。ガスも水道も使えない所もあります。
私は、ここにいる皆さんと共に、被害に遭われた皆さんの無事をお祈りしたいと思います。そして、私たちは、今私たちができることをやりましょう。
皆さん、私たちが、今やれることって、何なのでしょう。このことは子供であるみなさんも一緒に考えていかなければならないことだと思います」
私は、教頭として、三月十一日からの経緯を子供たちに伝えた。
「始めに、今回の大地震・大津波について、今分かっていることを皆さんと一緒に確認したいと思います。
三月十一日、金曜日。午後二時四十六分、地震は起こりました。全校の皆さんは、全員無事でした。地震の途中から停電となりました。
三月十二日、土曜日。電気が復旧しました。テレビのニュースでは次のように伝えていました。
○宮城県全体で一万人が安否不明。
○岩手県全体で一万人が安否不明。
○安否不明者は、全体で数万人規模。
学校が孤立していて、子供と先生たちが救助を待っているところもあるそうです。皆さんの親戚や知り合いにもいるかもしれません。
昨日三月十三日、日曜日。管直人総理大臣が会見しました。管総理大臣は、
『戦後六十五年で最も厳しい危機。大変な事態。国民の総力をあげて対応する』
と述べました。
行方不明者の捜索は、今日が山場となるそうです。十万人の自衛隊員が出動し、海外からも救助隊が駆けつけているそうです。
電力会社では、節電のため、輪番停電を実施する、と言っています。
私たちが、今やらなければならないことは何でしょう? 何だったらできるのか考えて下さい。友達同士で話し合ってほしいと思います。
震度六級の余震が三日以内に起こる確率が七十パーセントあると言われています。まだまだ油断できません」
「今やれること」「今やらなければならないこと」。くしくも、校長も私も同じ意味合いの命題を子供たちに投げかけていた。
そして、私自身も、同じことを自分に問いかけていた。
「今、私にできることは……」
携帯が繋がるようになって、仙台の苗とは毎日連絡を取り合っていた。
苗の住むアパートは、二日間停電が続いたが、水道も使えるし、ガスはプロパンなので大丈夫とのこと。ただ、物資が不足していて、スーパーに毎日朝早くから並んで買っているという。
一人暮らしの苗が心配だった。すぐにでも車で仙台まで行きたい気持ちだったが、学校を休む訳にはいかない。そこで、仙台からの定期バスを手配することにした。バスは二十四日まで満席だった。仙台からの帰省を望む多くの人々が切符を求めているのだろう。これは、土日のいずれかに車で行くしかないと思った。ところが、幸運なことに、キャンセルが出て、苗の休暇に合った切符を手に入れることができたのだった。
苗の顔を見て安心した。仙台の東西を結ぶ地下鉄も復旧したそうだが、断水が続いている地域がいくつもあるという。
苗は、米やら野菜やら、詰め込めるだけの物資を調達して仙台に帰った。ずっとここにいればいいのに、と心の内で思っていたが、苗には苗の生活がある。仙台への定期バスは、いつもよりも存在感を増してエンジンを低く響かせていた。
国道脇に横たわる漁船。内臓をえぐり取られた家屋。野原と化した街に残るコンクリート。崩れ落ちた岸壁。瓦礫を積み上げる大型ショベル。
震災から五ヶ月後。八月十一日、木曜日。私は、名取市閖上の海岸に立っていた。妻、そして、翔と明も一緒である。お盆で帰省する二人を仙台駅で車に乗せ、それから苗を迎えに行く予定だった。そして、せっかく仙台に来たのだから、被災地の様子も見ておきたかった。
しかし、そこに苗の姿はなかった。彼女は、一緒に閖上に行くことを強く拒んだ。被災後一週間を一人で過ごし、職場に通い続けた彼女が経験した辛い思い出が蘇ってくるのだろう。
震災から七年が過ぎた。
私は、この三月で定年退職となった。
平成三十年四月十一日、水曜日。私は、妻と共に石巻の小学校跡地へ向かった。
カーナビの道案内で目的地に向かう。これまで走ってきた海岸線と違い、津波の痕跡は見えない。北上川に沿って三十号線を走って目的地に到着した。ところが、そこは震災後移転した学校だった。
その後、川沿いを行ったり来たりしていたが、結局分からず、通りがかりの釣り人に尋ねると、
「ああ、それだったら、ここから十キロメートルぐらい下流です。信号があって、その土手の下に見えるから、すぐ分かりますよ」
と、親切に教えてくれた。
川沿いの道をしばらく行くが、津波の痕跡は見あたらない。しかし、信号に突き当たったとき、その斜め前方に茶褐色の建物があった。
坂道を降りて土手の下に向かう。学校の前の道を復興工事のダンプカーが行き交う。駐車場となっている所に車を停めた。交通誘導員の方が道路の横断を見守っている。
私たちは、何故ここに来たのだろう。
それは、三人の子を持つ親として、つい先日まで小学校に勤めていた教員として、犠牲になった子供たちと教職員の方々に祈りを捧げたかったから。
校地のあちらこちらに花が植えられていた。被災前の校舎の写真や活動する子供たちの写真が掲示されている。私が勤めてきた学校と少しも違わない日常の学校がそこにあっ
た。
空洞になった校舎の中から小鳥の声が聞こえてくる。子供たちの教室だ。どの教室からも中庭が見えるように弧を描くように配置されている。そして、教室には、当たり前のように黒板が設置されていた。
教室棟の二階と体育館の二階を結んでいた通路が、倒れてそこにあった。通路を支えていたコンクリートの柱が、折れて鉄筋をのぞかせている。
体育館の前にコンクリートの塀があって、そこに宮沢賢治の「アメニモマケズ」の詩と「銀河鉄道の夜」の絵が描かれていた。子供たちが描いたのだろう。そして、「世界全体が幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない」の言葉と各国の子供たちが手を繋ぐ絵があった。その塀の向こうに、扇状の階段がある。ここは、野外ステージ?
毎日の学校の営みが、ここで繰り返し繰り返し行われていたのだ。
お二人の方が校舎内外の整美にあたられていた。子供たちのために花を絶やさない。子供たちのために学校をきれいにしておく。子供たちのために学校を守っていく。そんなふうに見えた。
かつて、幾人もの子供が学び、幾人もの父母・祖父母・地域の方々に見守られ、発展を続けてきた学校。私たちは、その校舎にも祈りを捧げた。
あの日、東北と関東は、同時に激しく揺れた。人々は、声を押し殺して揺れが収まるのを待った。
学校は一斉に、最も安全と判断した場所に子供たちを避難誘導した。親は皆、我が子のことを案じた。すぐに学校にやってくる親もいた。
家族は、互いの安否を確認するために、携帯で連絡を取り合った。
「どこかで何か大変なことが起こっている」と誰もが思った。津波が来ることは分かっていても、まさかあんなに大きな津波が来るとは誰も予想できなかった。
私は、
「今、私にできることは……」
と自問する。
今、私にできることは、東北の海を見に行くこと。
小さな入り江の砂浜に防波堤が築かれていた。あの無機質な灰色も、陽光と潮風を受けながら、次第に風合いを増していくだろう。そして、その灰色の隙間から、タンポポが茎を伸ばし、青い海を背景に黄色い花を咲かすだろう。
今、私にできることは、自然の恵みと脅威を深く感じ取ること。
私たちの命は、自然の恵みを享受し、その脅威から身を守ることによって受け継がれていく。生きていた命の記憶を胸に抱いて、私たちは、これからを生きていくのだ。
(了)