輪違い日本万葉紀 憑依ノ様 渦巻流水
これは、一万千五百字の短編。
◇
きれいな髪……
教室に背を向け、黒板に氏名を記すクラスメイトの長くまっすぐな黒髪に、藍子は少しばかり、見惚れた。
(……でも、あれ、なんて読むの?)
◆
笹龍胆凪玄は、棕櫚竹殺女に対し、口をひらき、話しかけた。
口をひらかずとも話すことはできたが、人間のように口をひらいた。
だから、人間のことを話すのだな、と棕櫚竹殺女はいつもどおりに悟った。
笹龍胆凪玄には癖がある。
人間のことを話すとき、まるで自分が人間であるかのように振る舞う。
ただ、そういえばたしか、前に話しかけられたのは、十万年くらい前ではなかったか。
前だったか、後だったか。
あのとき、もう人間て、いたんだっけ……?
いずれにしても、棕櫚竹殺女は、悟った。
あらゆることを瞬時に悟ってしまうため、時間の感覚というものがよく分からなくなっている。
悟りが、なぜ、時間の概念を超越するのか。
その疑問がふと思い浮かぶと、即座に答えらしき悟りが訪れた。
「それが悟りというものだから」
――立派な包装紙で中身を覆い隠すような表現。
何にでも効く万能薬のような悟り様。
つまり、悟りとは実用には全く役に立たないタイプの美術品のようなものである。
いずれにしても(棕櫚竹殺女はこの接続詞を便利に使っていた。悟りというやつはいわば袋小路にある唐突な招き猫の置き物のようで、それを無視して軽やかに方向転換する必要性にしょっちゅう迫られるから)、「それが悟りというものだ」――はいはい、分かりましたよ。
いずれにしても、棕櫚竹殺女は、自分に対し口をひらき、話しかけようとしている笹龍胆凪玄のほうを、見た。
あたかもまるで人間が相手を見るかのように。
なぜ、棕櫚竹殺女も人間の真似を?
「それが悟りと……」――以下、割愛。
笹龍胆凪玄は、口をひらいたまま、止まっていた。
まるで人間が創作した神の彫像のように。
棕櫚竹殺女は、もう悟っていたけれど、何でも知っているふうの悟りよりも役立つ言葉が、その口から出てくるのを、待っていた。
たとえば、「おはよう」「おやすみ」「こんにちは」「いただきます」「ごちそうさま」「ありがとう」「ごめんなさい」とか。
「はじめまして」「あなたは誰ですか」「おれは笹龍胆凪玄といいます」「ささりんどうなとら、と読みます」「ささりんどう、が苗字で、なとら、が名前です」「君の名前は何て読むの」「おれと同じくらい読み方がむずかしそうだ」とか。
しかし、笹龍胆凪玄は、愛想も色気もなく、停止していた。
笹龍胆凪玄は、口をひらいたまま誰にも話しかけず、自問していた。
「自分は死にたいのか?」。と同時に、「生きたいのか?」と。
そのまま、永遠を思わせるほどの時間が過ぎた。
◆
殺女、なんていう一般的には不吉極まりない、ぶっそうな名前を誰がつけたのか、彼女は知らないし、そもそも気にしたこともない。
『それが悟りというものだから』
そう、彼女は悟っていた。
悟りは常に彼女にまとわりついてくる。
「棕櫚竹殺女、といいます」
四君子高校1年烏組の、烏の腹のような黒板に白いチョークで氏名を記し、しゅろちくあやめといいます、と自己紹介すると、教室には一瞬、無の静寂が訪れた。
「しゅろちく、が苗字で、あやめ、が名前です」
と彼女は淡々とつづけた。
その後の展開は、分かっていた。冗談? かっこいい! 個性的な名前だね。クールだ。芸名? という声や、ぼそぼそと話す小声。
学年が上がり教室が変わるたびに体験してきた。
ぼそぼそと話す小声の内容が、「あんな名前でかわいそう」なのか「あいつに近づくのはやめよう」なのか、彼女の地獄耳をもってすればたやすく把握できたが、興味のないことに対しては、五感を閉じていた。
悟りよりも役立つ言葉を求めて、彼女は人間になったのだ。
いつ、人間になったのか、という疑問とその回答らしきものが瞬時に駆け巡る。
いずれにしても、彼女には戸籍があり、16才になろうとする女子高生の記憶もあった。
その記憶が本物かどうかは、人間の考えることではない。
普通の女子高生は自分の記憶を、よっぽどのことがないかぎり、疑ったりしない。
わたしは今日から、女子高生になった。
「キルビルみたいだな、お前」
放課後の図書室で、一人、机に向かって勉強していたふうのわたしに、話しかけてきた男子がいた。
彼は、あいつのように口をひらいたまま何十万年も固まったりせず、話しかけてきた。
それも、「キルビルみたいだな、お前」という悟りにはほど遠い、やや魅力的な言葉で。
わたしはキルビルというものを知らなかったが、瞬時に理解した後、知らなかったふりをした。
すると彼は驚き、あのタランティーノの名作を観てないのかよ、と言ったので、わたしはタランティーノも知らなかったが、瞬時に理解した後、レザボア・ドックスは観た、耳を切り取られるシーンが好き、とこたえると、その男子はどこかへ行ってしまった。
次に話しかけてきたのは、女子で、わたしの腰まで長いまっすぐな黒髪を話題にしていた。
羨ましそうにしているので、わたしが自分の髪にハサミを入れて肩付近で切って渡すと、その女子も怯えたようにどこかへ行ってしまった。
もちろん、普通の女子高生は、放課後の図書室で髪をばっさり切ったりしない。
ざっと2つの選択肢があった。
髪を切らなかったことにするか(普通の女子高生)、切ったままにするか(普通じゃない女子高生)。
10分待って、あの女子が戻ってこなかったら、髪を切らなかったことにしよう。
すると、10分も経たず戻ってきたが、一人ではなく、さっきの男子と一緒だった。
「うげーっ、まじ切ってる」
と男子は言った。
うげーっ、という言葉に、わたしは惹かれた。
「あんた、頭おかしいんじゃないの」
と女子が言ったので、わたしは彼女を見直した。
友達でもないクラスメイトの髪を無難に褒めるような女は、なんというか、もっと保守的で、つまらないやつだと勝手に決めつけていた。
あんた、頭おかしいじゃないの。
わたしは内心で繰り返して、ひそかに楽しくなった。
「髪、いらないの?」
わたしは、机の上に置かれっぱなしの髪束を掴んで、持ち上げた。
「他人の髪なんて、いるわけないでしょ」
「でも、あなたは薄毛になって、かつらや植毛をするようになる」
「なにそれ、いつの話よ」
「もうすぐ」
「見て、このあたしのふさふさの髪のどこが? 薄毛だっていうのっ」
その瞬間、彼女の髪はたちまち根こそぎ落ちて、丸坊主になった。
わたしが彼女の時間を操作したからだ。
彼女は、椅子に座っていた。そして、百歳の老人になっていた。
「おばあちゃん、起きたの」
わたしは話しかけた。
「いい夢でもみた?」
老人は、しばらく黙っていたが、やがて、しわがれた頬に涙を流しながら、こたえた。
「……おかしな話じゃけどね、あたしが女子高生になって、あんたたちとこうしていた夢を見たんじゃの」
そうして、老人は、ゆっくりと目を閉じた。寿命だった。
この四君子高校で、生涯現役で働き続けることを望んだ“図書室の主”藍子おばあちゃんの最後だった。
うげーーーーーーっっっ…………………
さて、その場に居合わせた男子はどうなっただろう。疑問と回答の高速キャッチボール。彼は、目撃したことと現実の折り合いをつけられず、その記憶を(いつかどこかで観た、題名も忘れてしまったけれど)映画の中の出来事にした。しかしそれでも、あれは映画の中ではなく現実の出来事だという感覚を捨てきれず、誰かに話そうと考えた。ところが、彼は、自分の目の前で突如老人になった女子の顔を思い出せなくなっていた。いくら思い出そうとしても、そこにいるのは百歳の老人、しわがれた顔の“図書室の主”だった。翌日、1年烏組の生徒の中に欠席者はいなかった。彼が知っているように感じている女子は、初めからそこにいなかった。担任の先生からは、“図書室の主”の訃報だけが伝えられた。教室の全員が“図書室の主”のことは知っていた。“図書室の主”こそが現実であるかのように。そんなはずはない。数日後、学校で“図書室の主”のお別れ会が催された。大勢の先生や生徒、OBOGが参列して藍子おばあちゃんと過ごした日々の思い出を語っていた。彼女は決して、まばたきひとつの合間に百歳になったわけではなかった。当たり前のことだが。そんなはずはない。彼女は目の前で、突如老人になったのだ。それは、あの女も見ていたはずだ。そうだ、あの女も見ていたはずだ。彼は、自分が大きな勘違いをしているのかもしれないと考えた。そもそも女子高生が突如老人になったりするわけがない。あの女に訊いたところで、馬鹿扱いされるだけだろう。それでも、訊いてみたい。でも、何を? 今や顔も名前も覚えていない、クラスに存在していた証すらない女子高生がいたと言って、それが一瞬で老人化して“図書室の主”になったのをお前も見ただろう、と訊くか? それで伝わるか? 第一、あの女は、平然としている。もしあの老人化を目撃していたなら、もっと違った態度でいるはずだ。やはり、この記憶がおかしいのだろうか。そんなはずはない。繰り返すが、そもそも女子高生が突如老人になったりするわけがない。あの女はおれと同じものを見ていないのだ。なぜなら、あのとき、「おばあちゃん、起きたの」と話しかけていたじゃないか。あの老人が以前から老人だったみたいに。そんなはずはない。やっぱり、この件で、じたばたするのはやめよう。どうせ、曖昧な記憶を披露したところで、何が変わるわけでもないし……
そんなはずはない。
棕櫚竹殺女は、その声を聴いていた。
タランティーノの映画が好きな男子生徒の中にある、とある記憶――クラスメイトの非人間的な老人化――が徐々に意識をなくすように自殺しようとするのに対し、抗い、もがき、消えていく声。
「早く人間になればいいのに」と、棕櫚竹殺女は呟いた。
「キルビルみたいだな、お前」
植田は、腰まで長いまっすぐな黒髪の女子が一人で本を読んでいるのを、放課後の図書室で見かけた。難しくてぶっそうな名前の新しいクラスメイトだ。
椅子の背に垂れた黒髪が、柳にそよ風のように揺れた。
「この髪のことか」
「そうそう。やっぱりキルビル意識してる? 名前も暗殺者みたいだしなー」
「………」
「あ、ごめん。でも、おれはかっこいいと思うぜ、その名前」
「自分でつけたわけじゃない」
「本当に。まじでかっこいいよ。平凡な名前よりぜったいクールだって」
「じつは、ここだけの話、本当に暗殺者なんだ」
「え?」
「今も変装している。ほら」
棕櫚竹殺女は、手にしていた本の間からハサミを取り出すと、自分の長髪を肩付近でばっさり切った。
「は?」
うげーっ、なにしてんだよ、と慌てる植田の眼前に、掴んだ髪束を差し出した。そして、言った。
「髪、いらないの?」
髪、いらないの?
そんな はずは ない。
植田が小刻みに震えて動揺するさまを、棕櫚竹殺女は観察した。
「髪、いらないの?」
繰り返した。
棕櫚竹殺女の視線の先にいる男子は、やがて動揺が静まったかのようになると、口を半開きにし、目も見開いたまま、固まった。
「じつは、ここだけの話、本当に暗殺者なんだ」
「は?」
「今ハマってるオンラインゲームの中で」
「あーそういうこと。で、その暗殺者の得意技は? どうやって殺す?」
「記憶と時間の操作」
「ん?」
「あなたを、今この瞬間に、あと1分で死ぬ老人にすることができる。生きていた証や存在そのものを消滅させることもできる」
「怖いなあ。でも、どういうこと?」
「人間の認識に沿って言えば、一人の人間は大木に茂った無数の葉っぱ、万葉の一枚だ。一人ひとりの意識は大木で繫がっている。それを人間は『深層意識』とか『潜在意識』とか『無意識』と呼んでいる。実際はそんな構造ではないが、それが人間の認識レベルなのだからしかたない。そのレベルで説明するなら、たとえば一枚の葉っぱが急に老化して落ちたとしよう。通常、その葉っぱの喪失は、死という形で周囲の葉っぱに理解される。しかし、その老化が非人間的な方法で行われたとき、周囲はおろか当人でさえも記憶の整理ができなくなり、おおかたは夢という形で処理される。そして、老化が非現実的でショッキングであればあるほど、その衝撃は枝から大木の幹へ流れ込み、人間の根本意識にとって都合よく浄化される。つまり、大木が万葉に向って関連記憶の抹消・改変を指示する。その結果、急に老化した葉っぱは、初めから存在しなかったことになる。そういうシステムだ」
棕櫚竹殺女の視線の先にいる男子は、口を半開きにし、目も見開いたまま、固まっていた。
「今も変装している。ほら」
棕櫚竹殺女は、手にしていた本の間からハサミを取り出すと、自分の長髪を肩付近でばっさり切った。
うげーっ、なにしてんだよ、と慌てる植田の眼前に、掴んだ髪束を差し出した。そして、言った。
「かつら、だよ」
棕櫚竹殺女は頭部に手をかけ、かつらを外した。髪留めのピンを外し、軽く頭を振ると、肩にかかるくらいの地髪の毛先があらわれた。
「あーびっくりした。おどろかす……」
いいかけて、植田は、突然、停止した。
棕櫚竹殺女の視線の先にいる男子は、口を半開きにし、目も見開いたまま、固まっていた。
「ノイズか」
大木から指示が出ても、万に一つの割合で関連記憶が完全に抹消・改変されず、かすかな残像のように留まることがある。
この男子の場合、目の前で突如起きたクラスメイトの老人化の衝撃が、おそらく棕櫚竹殺女の黒髪に付着したのだろう。
ノイズとなった記憶のかけらは、普段は意識の隅でおとなしくしているが、外部から強く刺激されると、意識を強制切断して停止させてしまう。
そ ん な は ず は な い … …
自分の中のノイズに気づいてしまった人間は、二度と正気に戻れない。
棕櫚竹殺女は、無表情のまま、まばたきをひとつ、した。
彼は、椅子に座っていた。
そして、百三歳の老人になっていた。
「おじいちゃん、起きたの」
棕櫚竹殺女は話しかけた。
「いい夢でもみた?」
返事はなかった。老人は、ひからびた唇をかすかに震わせながら、それを閉じ、ゆっくりと目も閉じた。寿命だった。
この四君子高校で、生涯現役で働き続けることを望んだ“図書室の主”植田おじいちゃんの最後だった。
「じつは、ここだけの話、本当に暗殺者なんだ」
「は?」
「今ハマってるオンラインゲームの中で」
「あーそういうこと。で、その暗殺者の得意技は? どうやって殺す?」
「寿命が来た人間をあの世へ送る」
「それ、暗殺者っていうより、死神じゃん」
「あなたを、今この瞬間に、あと1分で死ぬ老人にすることができる。生きていた証や存在そのものを消滅させることもできる。たかが死神にそんなことができるとは思えない」
「たしかに、そんな設定のゲーム、聞いたことないよ。じゃあ、何だろう」
「………………上級死神?」
丘菊ケーコの名前は、戸籍上、「卦子」と書いて「ケコ」と読む。卦は「カ」とも読むのに「カコ」ではない。「カコ」だったら、どんなによかっただろう。「カコちゃん」というのは、普通でかわいい。それが「ケコちゃん」だと、まるでゲコゲコ鳴く蛙のニックネーム。「カ」と「ケ」では、大違いだ。
恥ずかしいので、自己紹介のときはカタカナ表記の「ケーコ」にしていた。少々無理があるのは分かっていたけれど、いまどき、名前なんて何でもありの世の中だからぎりぎりセーフとも思っていた。
それに、今回はラッキーだった。棕櫚竹殺女さんが自己紹介時間の主役になってくれたから。カタカナ「ケーコ」に対する少々の違和感をクラス中の皆が忘れてくれた。自分の子供に殺女と名付ける親って、いったいどんなキチガイ? 自分の親以上にキチガイな親の犠牲になった同級生と初めて出会い、丘菊ケーコは、棕櫚竹殺女と友達になろうと決めた。それは、優越感を得たかったのかもしれないし、重い十字架というか、ネガティブな宿命を生まれながらに背負わされた名前と、どう折り合いをつけてこれまで生きて来たのか、いわば彼女の処世術への興味も強かった。
丘菊ケーコは、肩にかかるくらいの黒髪の女子が一人で本を読んでいるのを、放課後の図書室で見かけた。
「棕櫚竹さん」
声をかけると、セミロングの黒髪が、柳にそよ風のように揺れた。
「あら、こんにちは」
棕櫚竹殺女は、本から目を上げると、にっこり微笑んだ。
「えっと、丘菊さん……?」
「覚えていてくれたんだ」
「だって」
「変わった名前だからでしょ」
丘菊ケーコが先に言うと、それはわたしも同じ、と棕櫚竹殺女は笑いながら言った。
「私、棕櫚竹さんと友達になりたいの」
丘菊ケーコは、単刀直入に切り出した。
棕櫚竹殺女は笑顔のまま、さらりと断った。
「ダメ」
「え、なんで! 私のこと、あまり好きじゃない?」
「わたしは、人間じゃないの。だから、友達にはなれない。残念だけれど」
棕櫚竹殺女が教室で自己紹介をしたときのような、無の静寂が訪れた。
「……これって、何かの儀式?」
そう言った瞬間、丘菊ケーコは、九十八歳の老人になっていた。
「ほらね、ケーコおばあちゃん」
次の瞬間、九十八歳の老人は、十五才の女子高生になっていた。
丘菊ケーコは、図書室の床にぺたりと座り込み、放心していた。我に返っても、気が抜けたようにただ棕櫚竹殺女を見つめるばかりだった。
「なに、今の……」
「急に寝るから、びっくりした」
「私、寝てた……?」
「夢でもみたの」
丘菊ケーコは、呆然としていたが、しばらくすると、涙を流しながら、こたえた。
「私ね、お父さんがいないの。物心ついたときには、お母さんしかいなくて。死んだわけじゃなくてどこかにいるらしいんだけど、私が生まれて、すぐ離婚して、私の名前、お父さんがつけてくれたらしいんだけど、ひどいよね、こんな名前、一言、文句いいたくてさー、でもお母さん、ぜんぜん話してくれなくって。写真もないの」
棕櫚竹殺女は、黙っていた。
「ひょっとしたら、お父さん、死んじゃってるのかもしれないと思って。お母さんもお父さんの今のことは知らなくて、だから私に何も話してくれないのかなって。心のどこかでそう思っていたからだと思うんだけど、死にそうな夢を見たの。すごくリアルな夢だった」
「夢じゃない。あなたはあと1分で死ぬところだった」
「……夢じゃない、よね。あれは、お父さんなんだと思う。どこかにいるお父さんの中に私が入り込んだんだ。お父さんはもうすぐ死ぬ。死んじゃっているかもしれない」
丘菊ケーコは、両手で顔を覆い、嗚咽を抑えるようにした。
「丘菊さん、あなたの父親は、今もピンピンしている」
「どうしてそんなこと分かるのっ」
「彼は、何度も死のうと思った。しかし、宿主が死んでしまったら、自分も死んでしまう。彼には生きたいという欲求もあった。だから、迷いつつ、まだ生きている」
「そんなの信じられない。さっきの夢は、あれよ、人生の最後に見るっていう不思議な、父の最後の夢に私が呼ばれたんだ。ああっ、お父さんーーー!」
「彼は宿主を簡単に殺したりしない」
はたして聞こえているのか、丘菊ケーコがヒステリックに泣き続けるので、棕櫚竹殺女は面倒になって、いっそこの女もあの世へ送ってやろうかと考えたとき、彼女の父親が、あろうことか、丘菊ケーコの父親が、棕櫚竹殺女に対し、話しかけて来たため、さすがに驚いた。
『それが悟りと……』――はいはい。
「はじめまして。ケーコの父親のサシといいます」
その声は、遠くから、大気を突き抜けるがごとく明瞭で、なぜか、時間の感覚がない棕櫚竹殺女に、どこか懐かしい響きを感じさせた。
「それとも、あなたには、ササリンドウナトラ、と言ったほうがいいかもしれない」
数十万年ぶりに聞いた、笹龍胆凪玄の声だった。
「たしかに、そんな設定のゲーム、聞いたことないよ。じゃあ、何だろう」
「………………上級死神?」
「上級って、あれだろ、ファンタジーでいえば上級魔導師とかの、上級?」
「そう」
「会社でいえば、上級副社長とか。シニア・バイスプレジデントの上級?」
「そう」
「うげーっ。シニア・シニガミーだ」
笹龍胆凪玄は、肩にかかるくらいの黒髪の女子が一人で本を読んでいるのを、放課後の図書室で見かけた。
「棕櫚竹さん」
声をかけると、セミロングの黒髪が、柳にそよ風のように揺れた。
本から、目を上げた。
「えっと、サシ君、だっけ?」
棕櫚竹殺女は、その新しいクラスメイトが笹龍胆凪玄であることを悟っていたが、あえて人間の名前で、サシ君、と呼びかけた。なぜ、笹龍胆と言わなかったのか。いずれにしても、ここは人間の世界だ。
それに、笹龍胆は、笹と龍胆の組み合わせでは、ない。
「はい、サシ、です」
「ササ、ではなく、サシ、なのね」
「はい?」
「何か用?」
「藍子さんを探しているんだけど、知りませんか」
「図書室の主の藍子おばあちゃんのこと?」
「同じクラスの巣瀬藍子さんです」
「それが悟りというものだ」
「はい?」
(ノイズか)
それにしては記憶が明瞭だと、棕櫚竹殺女は思った。
「同じクラスに巣瀬藍子さんなんて人、いたかな」
「棕櫚竹さんの次に自己紹介していたじゃないですか。さっき、植田君が巣瀬さんを図書室で見たって言ってたんだけど」
(ノイズ、じゃない)
ノイズなら、藍子の存在はサシだけの残像のはずだった。なのに、植田も藍子のことを覚えている。さらに、老人化して消えた植田という男子も、なぜか抹消されず、クラスメイトの一人として存在している。
こんなことは初めてだったが、ノイズが変形した症状とも考えられる。
棕櫚竹殺女は、確認した。
「植田君て、同じクラスの植田君だよね」
「はい、同じクラスの植田そだち君のことです」
「図書室の主の植田おじいちゃんではなく?」
「ところで、図書室の主って、何ですか」
(これが、人間の世界か)
棕櫚竹殺女は、悟った。
何かが、逆転しかけている。あまりに稀有な現象のため、それを表現するのに、逆転、という言葉しか思いつかない。
「名前で呼ぶのね、藍子さん、て」
「はい、幼馴染なんです。さすがに、藍子ちゃん、とはもう呼ばなくなりました」
「わるいけど、ここでは見かけてない」
「そっかあ、どこいったんだろ。どうもお邪魔しました」
サシは、礼儀正しく頭を下げると、図書室を出て行った。
(逆転……)
この状況は、逆転というより、巻き込まれた、という感覚のほうが近いかもしれない。
わたしは、棕櫚竹殺女は、何に巻き込まれたのか。疑問と回答の高速キャッチボール。
いずれにしても――
“図書室の主”のほうが、この世界から抹消されたようだった。
「それでは、あらためて、シニア・シニガミー様」
「何でしょう、植田そだち君」
「あなたは、なぜ、いつも図書室にいるのですか」
「なぜといわれても」
「読書が好きだからですか。それとも、獲物を探すのに図書室が便利だからですか」
「獲物?」
「実際、あなたは図書室にばかりいます。もはや図書室から離れられないといっても過言ではない」
「植田君?」
「つまり、シニア・シニガミー様、あなたこそが“図書室の主”なのです!」
「うげーっ」
「………」
「ちょっと真似してみた」
笹龍胆は、笹と龍胆の組み合わせでは、ない。
テト
ナニ?
呼ばれて、テトは返事をした。
テトというニックネームは、テトラポットから来ている。
テトラポットが特別好きなわけじゃないし、テトラポットに捨てられていた赤子だったというワケありの話でも、ない。
「あなたのお父さんが好きでね、テトラポット。毘沙門亀甲に似ているって、よくわからないこと言っていたわ。テトラポットは、波を消すブロック。だから、あなたの名前には、風がやんで、波がなくなり、海面が静まったようすをあらわす『凪』の字を選んだの」
海岸で風の音に身を任せていると、そんな母親の声が、思い出されたように聞こえてくる。
「それでね、テトラのトラを取って、ナトラ。凪玄と書いて、ナトラなのよ」
気のせいなのは、分かっていた。テトは、父親について、母親から何も聞かされていなかった。十五年間、一度も。
テトには、父親がいなかった。正確には、生後一か月の頃に抱っこされ、二歳の頃に数回会って以降、父親とのふれあいは彼の人生から消えてしまった。十五才になった今も父親とふれあった記憶が残っていると、サシに言ったら、半分は信じていないようだった。本当の記憶なのかどうか、それはテトにも自信がない。テトの願望が生み出した偽りの記憶でないと断言することは、逆に、その記憶を偽りと認めることのような気がした。
テト
秋晴れの午後、青い風景の水平線と白い雲を眺めているテトの傍には、同じクラスのサシがいた。
ナニ?
テトは、呼びかけにこたえた。とりあえず、この海岸で唯一響いている風の音に向かって。
テトハ チチオヤニ アイタイカ
ワカラナイ
チチオヤガ テトニ アイタガッテイタラ?
ワカラナイ
「いいか、凪玄。お前のお母さんは、シングルマザーでもお前のことを一生懸命に育てている。お前は知らないだろうけど、お前の父親はひどい男だったから、お前に会いに来ないし、養育費もまったく払っていない。お前のことはこのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんとお母さんが育てている。そのことをくれぐれも忘れるんじゃないぞ」
気のせいなのは、分かっていた。テトは――凪玄は、父親について、まわりの大人たちから何も聞かされていなかった。
たぶん。
祖父の言葉は、この風が運んできた空耳だ。
テト チチオヤハ オマエニアイタガッテイルヨ ズット マエカラ
この言葉も、空耳だ。
そんなはずはない。
テトは――笹龍竜凪玄は、「死にたい」と思い、同時に、「生きたい」と思った。
「自分の子供と会いたくない親なんて、いませんよ」
海岸を吹き抜ける秋風のなか、サシの声が聞こえた。
笹龍胆凪玄は――サシは、まわりに誰もいないのを律儀に確かめてから、海に向かって乱暴な言葉を叫んだ。
「くそったれ、ばかやろう!」
今のサシは、十五才の高校生で、父親がいなかった。その彼も、やがて娘が生まれ、我が子と会えない父親となるのは十九年後のことである。
サシはまだ一人だった。
風が、ふと止んだ。
テト
呼びかけたが、返事はなかった。
海岸にひとり佇むサシは、将来の娘の姿を知らないように、テトがどんな姿をしているのか知らなかった。
季節外れの海辺のカフェに、一組の男女が差し向かいに座っていた。
女は、四君子高校の制服を着ていた。
男は、50歳の中年になっていた。
「お父さん、どうしたの、ぼうっとして」
男は、我に返ったようになった。
しばらく黙っていたが、やがて、苦笑交じりにこたえた。
「……おかしな話だけど、どうやら、夢を見ていたようだ」
「今?」
「ああ。寝ていたみたいだよ」
「でも、外を眺めてたじゃない」
「そうだったか」
「変なの。――それで、どんな夢?」
「学生の頃に戻ってさ、海に向かって叫んでるんだ。娘と会いたいって……」
そうして、男は、ゆっくりと目を閉じた。寿命だった。
丘菊ケーコの父親サシが、娘となにげない言葉を初めて交わした、最後の時だった。
テト
ナニ?
呼ばれて、テトは返事をした。ナニヌネノ?
「あなたは、私のお父さんなんだから、そんな馬鹿なこと言わないの」
と丘菊ケーコは、注意した。
「ハヒ」
「はい、のつもり?」
「フヘホ」
「いい加減にして」
「フヘホ」
「もう!」
季節外れの海辺のカフェに、一組の男女が差し向かいに座っていた。
二人とも、四君子高校の制服を着ていた。
「サシ君」
「はい」
「テト君」
「うん」
「ササリンドウナトラ君」
「そう」
「このノイズみたいなものは何? そもそもこれはノイズなの?」
「………」
「わたしたちは、ここで何をしているの」
「………」
棕櫚竹殺女は、もうとっくに悟っていたけれど、この多重人格障害で海辺の病院に入院していることに一応なっている笹龍胆凪玄を、急にからかいたくなった。
「お父さんには、会えた? ――サシ君」
◇◆◇
サシとは、二人が向き合うこと、二人ですること。
サシとは「差し向かい・差し向かう」が略されたもので、漢字では差しと書き、二人で向き合う(対座する)ことを意味する。また、ここから「二人で(する)」という意味でもサシは使われる。具体的には「サシで飲む(サシ飲み)」「サシで勝負する(サシでケリをつける)」といったものがこれに当たる。ただしサシといった場合、例のような実際に向き合ってする行為やそれに準ずる行為にのみ使われ、「向き合う」と関係ない行為には使われない(例:「二人で花を育てる」を「サシで花を育てる」とは言わない)。
――日本語俗語事典より
(了)