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私証明書

作者: 水綺はく

 この世界は以前に比べて格段に進歩した。

とりわけ私証明書(わたくししょうめいしょ)の存在が少子高齢化となっているこの国の問題を解決する基盤となっていることは明白である。snsの急速な普及、発達に伴い人々はsnsを互いを知る唯一無二のコンテンツとして活用するようになった。

そこに目をつけた政府が新たな方針を提示した。それが私証明書の存在である。私証明書があれば無駄な時間を省いて互いのことを知ることが出来る。無駄な時間を省き、手っ取り早く相手を知ることによって早い段階で堅固な友情、そして何よりも恋愛成就が達成されて婚姻はもちろんのこと離婚率の低下も促すことが出来る。私証明書は恋愛に消極的で自分自身を言葉で表現するのが不得手な現代の若者に最も必要とされている証明書なのである。

「身分証のご提示をお願いします。」

やべっ、忘れた。

確か家の玄関に置きっぱなしだ。何やってんだよ、俺。漫画売るのに必要な身分証忘れて何のために来たんだよ…

家の玄関に虚しく置かれたままの保険証を思い出してうっかりな自分を悔やんだ。

頭を掻いて中々身分証を出さない俺を同い年くらいのアルバイトと思われる女性店員さんが怪訝な顔をする。

「あの…すいません……忘れちゃったんで代わりに私証明書でもいいですか?」

控えめに言ったが女性店員さんはどん引き。それでも溜め息一つ吐いて、

「分かりました。IDを教えて下さい。」と自らのスマホを開いた。

いやいや、俺だって同い年くらいの若い女の子にこんなタイミングで私証明書を開くのは嫌だよ。だって私証明書を開く時って大体、大学で初めて話す人とかアルバイト先の人とか合コンとかなんだからさ…

「確認出来ましたので査定致します。店内ご覧になってお待ち下さい。」

業務的な話し方に小さく会釈して背を向けると店内を見渡す。もう紙の漫画や本なんて売れない現代。店内にいる客の人数もまばらだ。そりゃそうだ。本なんて嵩張るし家に置くスペースは限られる。それだったらスマホやパソコンの中で管理した方が持ち運びも楽で置き場所の心配もない。いらなくなったらボタン一つで消せるのだから。

「査定待ちのお客様!お待たせしました。」

店員さんに呼ばれて向かうとさっきの店員さんとは別の女性店員さんが査定額を伝える。彼女も俺と同い年くらいに見える。

「こちら全部で720円です。お売りになりますか?」

笑顔の店員さんに頷いて720円を手にすると店を後にした。


「何、お兄ちゃん、古本売りに行くのに身分証忘れたの?それで私証明書見せたなんて恥ずかしいー!」

家に帰ると学校帰りで制服姿の妹に揶揄された。

「しょうがないだろ。忘れちゃったんだから。大体、身分証なんてスマホと違って失くしたら手続きが面倒なんだから手軽に持ち運べないよ。」

俺の言葉に妹が、お兄ちゃんって注意深いのかそうじゃないのか分かんなーい。と笑う。

スマホならロックされていて解除されなければプライバシーの侵害は守れるし、パソコンにバックアップデータがあるからすぐに復元出来る。中にある写真や私証明書だってハッカーにでも拾われない限りは見られることもないだろう。

「それよりお兄ちゃん昨日、私証明書の更新終わったんでしょ?いつぐらいに政府から更新のURL届いた⁇私、来週だけどまだ届いてないよ〜。」

妹の言葉に面倒臭そうに、三日前に来るよ。と返した。正直、私証明書は便利だけど更新が面倒臭い。

政府が推進する私証明書とはスマホ内に入れた自分を知ってもらうためのプロフィール張みたいなものだ。名前、生年月日、家族構成、学歴、職歴はもちろんのこと趣味、好きなこと、好きな食べ物、嫌いな食べ物、苦手なことなど細かな情報まで入っている自分の代わりに自分を説明して証明してくれるものだ。俺が相手にIDを教えれば相手は自由に閲覧出来る。ただ毎年更新が必要で更新日前になると長い項目を埋めなければならないのとそれを証明する周囲の証言まで必要とされる。そのため更新するのに一週間はかかる。

「なんで人間ってただ生きてるだけでこんなに証明とか手続きが必要なんだろうな…」

リビングのソファーに寝転んでスマホを開くと大学の友人、淳からラインが来ていた。

誠也!明日みんなで飲みに行くぞー!

既読してすぐに、了解!と文字を打ち込む。

飲み会か。いつもの仲間と和気あいあいとしている様子を思い浮かべて一旦眠いから寝ることにした。


「それでさ、結局彼女と別れちゃったんだよね〜」

友人の言葉に俺と飲みのメンバーが、えぇ⁉︎と声を上げる。

「いつ?」

「一週間前、俺から別れようって言った。」

「でも三年も付き合ってたのに!なんで今更⁇」

「うーん…俺は最初の頃の私証明書に載っていた彼女が好きだったのに段々、更新するたびに最初の彼女から変わっていって…それでもいいって思ってたんだけどさ、、、やっぱりなんか違うってなって…」

「歯切れ悪いなー。つまり最初の私証明書と違ったってことだろ?あるある、分かるよ!俺もこの間、合コンで知り合った子が趣味のところに料理って書いてあったのにsns見たら外食ばっかしててさ〜親の証言付きだけどあれは偽造だな。」

イメージと違った。

昔の人々は異性の第一印象から仲を深めた後に失望したとき、このような言葉を発していたと母から聞いた。今はイメージなんてものはない。私証明書があるのだからそれを見てしまえば外見や話す内容からイメージを膨らませる必要がないのだ。みんな最初は黙々と互いの私証明書を読み合ってそこから会話がスタートする。会話が不毛そうな相手だったら別の人のところへ行って、私証明書のID教えて!と言えば興味のない方の相手とは会話を断絶出来る。嫌な相手ならプロフィール閲覧をブロックすることも出来る。人間関係の合理化だ。世の中は便利になった。

「偽造ってやばくな〜い⁉︎そこまでして自分を偽りたいのかよ!プライド高い!」

「そう言うお前だって趣味筋トレとか週一でジムに行ってるだけだろ!」

私証明書は一見すると便利なツールだが意外に内容はみんな真偽を疑うものがある。家族構成などは嘘をつけないが趣味や好きなことなどは証言者が一人いれば記載できるようになっている。ただその証言者が事実を言っているかは不明。中には毎年、証言者にお金を渡して嘘で塗り固めた私証明書を保有する者までいる。

「でもさ、気をつけた方がいいよ。これから私証明書の記載をより本人像の書写しにするために嘘が書かれたら詐欺罪で逮捕されるかもしれないみたいだから!私証明書はsnsと違って自分をアピールする道具じゃなくて婚姻率と妊娠率の増加と離婚率の低下を計った身分証なんだから!」

「マジで〜知らなかった!最近ジムだるくて二週間行ってないし、書き直しの申請しようかな?」

「お前、それだったら逮捕される前にジムに行く量増やせよ。」

盛り上がる大学の同期たち。彼らも最初は入学前からsnsで繋がって互いの私証明書を見せ合ってから入学式で初めて顔を合わせた。snsで互いの顔写真や動画を見ていたし私証明書で中身も全て知っていたから初めて会った時は緊張感も恐怖心も高揚感もなく話すことが出来た。私証明書のおかげで迅速に友人をつくれたのだ。

飲み会の帰り道、酔っ払って泣き言を言いながら千鳥足の淳を友人二人が困り顔で腕を掴みながら必死に歩かせる。

「いつも酔うとこうなんだからさ、私証明書にもいい加減書いといた方がいいぞ!流石に長い付き合いの友達だから許せるけど女の子が知ったらどん引きするよ…」

呆れ顔に変わった二人を見ながら一人だけ途中から方向が変わる俺は仲間に手を振ってまた歩き出す。

私証明書といっても所詮は箇条書きの文章。snsと一緒で人の全てを完全に把握することは出来ない。

今にも自分を巻き込んで溶けそうな暗闇の夜空をスマホの明かりで照らしても宇宙の全ては覗けない。代わりにスマホを照らさなくてもまばらな星々と三日月が見えた。

「あのっ!落とし物です‼︎」

急に後ろから声が聞こえてビクッとした。

振り返ると俺の前に知らない女の子が俺のパスモにつけていたキーチェーンを持っている。

知らない人。だけど見覚えのある…

首を傾げながら、ありがとうございます。と言って受け取った。受け取る時、わずかに彼女の指に触れて思わず緊張した。

そのまま背を向けて帰ろうとしていると、

あのっ!とまた声を掛けられてもう一度振り返る。

「すみませんっ!良かったら、もし駄目なら駄目でいいんですけど…連絡先、交換しませんか?」

俺は思わず目を見開いた。

snsを介してではなく直接言葉で連絡先を聞かれたのは何年ぶりだろうか。しかもまだお互いのことを何も知らない。俺と彼女は私証明書をまだ見せ合っていないのに…

「あっ、こんなこと急に言ってごめんなさい。気持ち悪いですよね…連絡先が駄目ならこちらの私証明書のIDだけでも教えたいんですけど…」

彼女に言われて俺は彼女の私証明書とラインの二つのIDを受け取った。

「もし気が向いたら連絡して下さい…」

ショートカットの彼女のすっきりとした目元を見つめるとドキドキして何も良い言葉を返すことが出来なかった。

家に帰ると俺は彼女のラインを登録した。

ミクと書かれたラインの名前を見て彼女の名前を呟いた。そのあと彼女の私証明書を覗いた。

本名美紅、令和○年×月×日生まれ。

それなら20歳。俺と同い年だ。

俺の大学から一駅先の女子大生だ。

趣味 お菓子作り、漫画集め

あ、趣味合うな。俺はたまに妹に付き合ってお菓子を作っていた。妹がお菓子作りを趣味にする!と言って始めたのだが不器用で全然上手くいかないために見かねて一緒に作るようになった。やがて飽き性の妹がやめたお菓子作りを未だに暇つぶしで継続している。漫画も好きでよく読む。

それから彼女の経歴を見ていくうちに惹かれていった。

この子と話が合いそうだな。

彼女にラインを送ってやり取りを開始した。


私証明書はプライバシー侵害だ!

人権侵害!私証明書反対‼︎

最近、大学の前でこう言ったデモを見かけるようになった。

人々がプラカードを持って更新する。声を大にして叫ぶ。選挙前になると駅前や公園内で野党が私証明書の撤廃を訴える。

「与党が推進した私証明書のせいで国民の皆様は新たな苦しみを与えられた。私証明書のせいで起こるいじめ、差別は後を絶ちません。人間関係を初めから決めつけるなど人々から感情を奪い取ってしまうのと同じではありませんか!」

駅前に集まる一部の支援者が、そうだ!反対!と叫び声を上げて拍手する。いるのはほとんどがお年寄りや中年世代だった。

俺はそこを横切って私証明書で仲良くなった大学の同期たちと合流した。

それでも私証明書で差別やいじめが起きているのは事実だ。犯罪歴や家族関係に問題のある人間は私証明書を見ればすぐに分かる。人に知られたくない何かしらを持っている人間は私証明書を作らない、あるいは見せない。だから私証明書を見せてくれない人にはあまり積極的に近寄らない。

私証明書見せて!は人として繋がろうの合図。

私証明書を見せるか見せないかはこの後、人間関係を築けるか否かの判断基準。

見せてくれないのなら繋がれない。それは常に何かしらのコミュニティに所属する人間の当然の主張だ。

snsをやっているかどうかと同じ。それ以上に大切な私を代表する証明書。

今やこの国は外見至上主義ならぬ私至上主義になっていた。

「反対!ってさ、別に強制じゃないっつーの。こっちは好きでやってんだから。それがたまたま大多数なだけでしょ。年寄りはやってなくても若者はみんなやってんの。野党は時代に置いてかれた年寄りを味方につけたいのかな?でも今、日本が求めているのは若者の意見でしょう?若者が求めているものが勝つんだよ、世の中!」

でもそんな若者も少数の意見は勝たない。強気な意見に便乗する大多数の人間が勝つのだ。

講義を終えて大学の友人と歩いていると本名さんからラインが来たのですぐに既読した。ここ数日、何回かやり取りをして楽しかったので大学帰りに会う約束をしていた。

駅前で彼女と待ち合わせると黒のワンピースを着た彼女が駆け寄る。

「あ!そのキーホルダー‼︎」

本名さんの鞄についているブルドックのキャラクターのキーホルダーを見て思わず声を上げた。これは俺が最近好きなマスコットキャラクターのぶるぶるくんだ。

「証明書にこれが好きって書いてあったから…雑貨屋さんで見つけて買ったんだ。」

クールな見た目に反して照れた表情の本名さんに胸がキュンとした。

ああ、この感覚。久々だな。

好きなものが同じなのではなく、自分の好きなものに関心を持ってくれたことに胸が熱くなった。

これから二人でスタバに寄ろうとしている道中に一匹の白い猫が通りかかった。

「あ!猫‼︎」 声を上げる本名さん。

「猫好きなの?」

「うん。あの長い尻尾が滑らかに動くのを見ていると癒されるんだ。」

嬉しそうに話す彼女を見て意外だなと感じた。彼女の私証明書には好きな動物が犬だと書いてあったからだ。

それから二人でスタバに言ってたわいもない話をすると私証明書には出てこなかった彼女の意外な一面をたくさん知った。彼女の話を聞くのも楽しかったし、自分が話している時の彼女の笑い声が心地良かった。

私証明書を見たはずなのに証明書と違う知らない一面がどんどん出てきてもっと彼女を知りたいと感じた。

知りたい。そんな感情は長らく感じていなかった。知りたいと思わなくても端末で知ることが出来るから。でも彼女は端末で知ることが出来ない姿を多く含んでいて自分とは似ていない彼女を知るのが楽しかった。

今まで彼女をつくるときの基準は自分に似ている人間だった。もちろん、性格や外見は違くていい。むしろ違う方がいい。ただ金銭感覚とか恋愛観念とか趣味とかそう言ったものは同じ方が良いだろう。そう感じてそれらが全て自分の基準に当てはまる女の子を選択してきた。それは俺だけじゃない。俺の周りはみんなそうしている。そう言った感覚を初めから会話せずに知ることが出来るツール、それが私証明書。

俺と美紅ちゃんはその後も頻繁に会って互いの知らないところを探し合った。それぞれの同じ部分と違う部分を見つけあって知ると例えそれが違う部分であってもどんどん気持ちのポイントが貯まった。

「ポイントカードみたいだね。」

美紅ちゃんの言葉に、え?と返すと、

「知れば知るほど貯まっていくの。ポイントカードって最初から満タンよりも少しずつ貯まっていくのが楽しいでしょ?」と屈託無く笑う。

ポイントカードは貯まれば得をする。良いことが起こる。俺と美紅ちゃんはそんな関係なのかな。

「これらは立派な私証明書詐欺です。友人や恋人が該当するあなたも裁判で訴えれば損害賠償を請求出来ます!」

テレビで流れるCMを眺めながら、そういえばこのCM、よく観る動画サイトでも流れていたなと思い出した。広告もネットで頻繁に見かけるし電車内にも掲示されていた。

「最近は随分と敏感な世の中になったね〜。」

母がソファーに寝転んで煎餅を食べながら呟いた。

「嘘って言うけれど、お母さんがお父さんを好きになった時はお父さんによく思われたくてついつい好かれようと頑張っちゃったものだけど今の時代だとそれも詐欺になっちゃうのかね、それじゃあ恋愛なんて出来ないよ。」

母がチョコチップクッキーに手を出したタイミングで、それは俺のお菓子。と呟くとピタッと手が止まった。

「新しく来たご近所さんに私証明書ないんですか?って言われてさ。ないと付き合ってもらえないみたい。恐くて付き合えないんだって。確かに今は何しでかすか分からない人間が多いからね。お母さんも私証明書やろうかしら。」

母の言葉に思わず、やらなくていいよ。と返した。私証明書に染まる母を見たくない。私証明書を重要視している息子の俺が何故か母の私証明書を見たくないと感じている。だって父以外の母の恋愛遍歴なんて知りたくない。世の中には知りたくないことだってある。知らなくたって幸せなこと、知らない方が幸せなことだってある。

「今度、俺の家で一緒にお菓子作らない?」

美紅ちゃんに尋ねると美紅ちゃんの表情が強張った。俺と美紅ちゃんが付き合い始めて一か月が経っていた。

俺は慌てて、「いや、家っていっても実家だし家族もいるから!」と返す。すると美紅ちゃんも慌てた様子で、そうじゃないの!と言った。

「ごめん、趣味にお菓子作りって書いたけれど最近始めたばかりで料理はどっちかって言うと…苦手で……」

口籠る美紅ちゃんに、え?と返した。

そうなんだ。思っていた姿と違った。

「それなら俺が教えるよ。」

美紅ちゃんに笑顔で返すと彼女が目を見開いて俺を見た。俺は美紅ちゃんの少し驚いた時の表情が好きでたまにその表情に巡り合えると嬉しかった。

美紅ちゃんの表情は俺の気持ちのポイントカードを貯める。ポイントカードは貯まると良いことが起こるんだよね?

数日後、俺の家で美紅ちゃんと一緒にお菓子を作った。作ったのは簡単なクッキーだったけれど美紅ちゃんは思っていた以上に不器用で砂糖の分量を間違えたり、薄力粉をこぼしたりして何度もごめんと謝っていた。

「大丈夫、大丈夫。まだ慣れてないから慌てずにゆっくりやろう。」

俺が言うと美紅ちゃんは嬉しそうに頬を染めた。

「誠也くんって見た目の印象と違って優しいよね。お菓子作りが趣味って書いてあって意外だなって思ったの。」

美紅ちゃんの言葉に俺は違和感を覚えた。

美紅ちゃん、俺たちもっと前にどこかで会ってない?

本当にキーチェーンを拾った時が初めての出会いだった?

焼き上がったクッキーは俺と美紅ちゃんが作ったものがはっきりと分かった。美紅ちゃんが作ったものは形が崩れていて、楊枝で描いた顔が不細工だったからだ。

「なんか私のクッキー、ブサイクだね…」

落ち込む美紅ちゃんに俺は笑って、

「俺は美紅ちゃんが作ったクッキーの顔の方が好きだよ!」と返した。

美紅ちゃんの作ったクッキーはブサイクだけど俺の好きなぶるぶるくんに似ていて愛嬌のある憎めない顔をしている。俺は自分の作った整った笑顔のクッキーよりもこっちの方が愛しく思えた。

美紅ちゃんは嬉しそうに頬を赤く染めて、

「私は誠也くんの作ったクッキーがいい!」と笑い返す。俺は美紅ちゃんの笑った顔が好きだ。

美紅ちゃんと交際を始めて3ヶ月が経った頃だった。家でテレビを観ていると携帯が鳴った。何も考えずに出ると警察からだった。

美紅ちゃんが詐欺罪で捕まった。

そのことを聞いた瞬間、寝転がっていたソファーから起き上がって呆然とした。

「これらは立派な私証明書詐欺です。友人や恋人が該当するあなたも裁判で訴えれば損害賠償を請求出来ます!」

テレビから流れるCMの言葉を前にスマホを持ったままの俺は目を閉じた。

「あなたは騙されていたのです!それは恋ではなく詐欺です!傷つけられたあなたは損害賠償を請求出来るかもしれません‼︎」

CMの雑音が煩くて俺は思わずテレビを消した。

美紅ちゃんは女子大生ではなくアルバイトを掛け持ちするフリーターだった。年齢も俺より一つ歳下で名前以外、何から何まで嘘だった。漫画だって読まない子だ。そんなのは分かっていた。だって漫画の話をしても美紅ちゃんは全くついていけてなかったのだから。それでも俺のことを知りたいと俺から漫画を借りたり、あらすじをネットで調べたりする誠実さが愛しくて好きだった。父親と母親の経歴も嘘。父親は練り物工場で働いていて母親は蒸発していなかった。おまけに蒸発した母親は窃盗の前科持ち。決して恵まれているとは言えない彼女の本当の私証明書を眺めながら、ああ、また彼女の知らない一面を知ったなぁ。とぼんやり感じた。

彼女の本当の私証明書。彼女の全てが分かる私証明書。そんなはずがない。だってここには俺と彼女が一緒にクッキーを作ったことも彼女がブルブルくんのキーホルダーを買って鞄につけたことも、俺の漫画を一生懸命読んでいたことも、彼女をもっと知りたくて猫カフェに行ったことも、気持ちのポイントカードの話も何も記載されていない。

私証明書。こんなものに一体、俺たちの何が分かる。

悔しさ、悲しさ、申し訳なさで涙を流すと初めて会った警察官に、

「あまり落ち込まないで。まだ若いんだから、悲しいのは今だけだから。」と言われ余計に悔しくなった。

俺は彼女を訴えなかったけれど全ての経歴に嘘を書いていた彼女は詐欺罪で捕まって俺と美紅ちゃんはそれ以来、一度も会うことを許されなかった。

それから二年。

就活の準備をしている俺は慌ただしい毎日を送っている。

「誠也、今日さ、誠也の家で漫画読んでいい?」

彼女の奈緒子に言われて俺は、いいよ。と返しながら複雑な気持ちになった。

同じ大学の後輩、奈緒子は互いの私証明書を見合って慎重に交際を始めた。奈緒子の私証明書は俺と趣味や好きな食べ物やキャラクターなど似ている点が多くてすぐに意気投合した。一緒にいると互いの私証明書通りの話をする。私証明書である程度の人格も読めている分、摩擦が生じなく温和な交際を続けている。

それなのに何故だろう。奈緒子といて楽しいと思えないのは。いくら奈緒子が私証明書で良いと思った相手でも、慎重に選んだ相手でも付き合い始めると違和感を覚えた。

奈緒子といても楽しくない。いや、楽しいはずなのに、昔の俺だったら。

鞄からパスモを出してキーチェーンを見つめる。

「それもう古いでしょ?新しいのに換えたら⁇」

奈緒子がスマホをいじりながら俺を一瞥して何気なしに言った。彼女のスマホケースは最初から俺と同じブルブルくんだ。

捨てる?そんなこと出来るはずない。

俺はもう昔の俺じゃないんだよ。

美紅ちゃんを知る前の俺には戻れない…

「誠也。」

名前を呼ばれて俺は奈緒子を見た。

「もうあれから二年経つんだよ。誠也が傷ついている気持ちは凄く分かる。私だって誠也を騙した元カノが憎いよ。好きでもないものを好きだと偽るなんて最低だよ。年齢も職歴も全部嘘で彼女は完璧な犯罪者だよ。でも前に進もう!私と誠也なら好きな漫画一緒だから無理しないでどこまでも話せるでしょ?」

笑顔で俺の手を握る奈緒子に力なく、そうだな。と返した。

私証明書。俺と美紅ちゃんの思い出を捻じ曲げた証明書。でも俺はそれを頼りに生きていたから美紅ちゃんが嘘を並べたおかげで美紅ちゃんの知らない一面を知ることが出来た。美紅ちゃんが吐いた嘘は俺を引き寄せた。その嘘がたとえ犯罪でも俺は美紅ちゃんの嘘に魅せられて美紅ちゃんを愛した。その愛に偽りはなかった。

俺は美紅ちゃんを覚えいる。初めて顔を見たあの時の美紅ちゃんを。古本屋で査定が終わった後に笑顔で金額を言った美紅ちゃんを。俺の私証明書を盗み見てそれに染まろうとした美紅ちゃんを。染まり切れずにブサイクなクッキーを作った美紅ちゃんを。

全て知っていた。知らないけれど知っていた。それ以上に好きだから。愛していたから。

「やっぱり今日はなし。妹が体調悪いみたいでさ…」

奈緒子にそう言って一人で帰ることにした。

帰り道、俺は何故か遠回りをした。

迂回する必要などないのに飲み会でよく使う居酒屋を横切ってあの時と同じ経路で帰る。

あの時と同じ経路。美紅ちゃんと初めて会った時の経路。初めてじゃないのに初めての振りをした俺と美紅ちゃんの出会いの場所。

夜道を照らす街頭にまばらな星屑と三日月。あの時と同じ情景。それなのに俺は一人。

俺は試しにパスモについているキーチェーンを落としてみた。静かな夜道にキーチェーンの落ちる、チャラッという音だけが響く。

美紅ちゃん、俺はもっと君を知りたかったよ。

あのっ!

あの時の美紅ちゃんの声が鮮明に蘇る。

キーチェーンを差し出す彼女の頬が赤かった。

それから夜道に虚しく落ちたままのキーチェーンを見つめると悲しみで涙が溢れた。

忘れろ。忘れろ。

この二年間、懸命に願ってきたこと。

もう二年なんだから、忘れろ!忘れろ‼︎

俺は涙を流しながらキーチェーンに背を向けた。そのまま前進して離れていく。

さようなら、忘れられない思い出。

さようなら、永遠に心に刻まれた私恋愛書。



「拾っていいの⁉︎」

 後ろから声が聞こえて振り返った。

「なんでまた落とすの?私が拾っていいの?」

俺は目を見開いて立ち尽くす。美紅ちゃんが申し訳なさそうに俺を見ていた。

「私、嘘つきだったんだよ。なのに何でまたここに来て同じのものを落とすの?」

美紅ちゃんが困った顔で言う。

「なんでいるの?」

これが現実なのか分からないまま美紅ちゃんを見つめて聞き返した。

「好きだったから思い出に浸ってただけだよ。ここで誠也くんと出会ったなあって…だって今日、三日月でしょ。」

まばらな星々の横で三日月が光っていた。

俺は美紅ちゃんに近づいて彼女を強く抱きしめた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです。 気になる人に良く見られたい気持ちや新たな発見にときめく所共感しました。 [一言] 一見便利そうだけど証明書類と紐付けされたプロフィール情報とか怖いなと思いました。 ちょっ…
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