子取様
白装束に身を包んだ七夏と僕の二人。
神月さんを目の前にして、初めに案内された部屋に座っていた。
「さあ、好きなように聞くと良いよ。無いならこれからする儀式のことを伝えるけど、良いかい?」
徐ろに七夏が挙手をする。彼女の傷では正座は不可能なため、患部に氷嚢を当てながら、座椅子に寄りかかっている。レディファーストとはいえ、内心ちょっとだけ羨ましい。ちなみに僕は座布団だ。慣れないこともあって足が痛い。
「…ねえ、神月さん。コトリ様って、なんなの…?」
「そうだね。一言で表すと悪い神様。もう少し付け加えれば、元人間だ。君たちもあの御神体を見ただろう?」
「ああ…。人間の髪の毛と、乳児よりも小さいミイラがあった……」
「そうだ。それが『子取様』だ。志野山神社が祭り上げている神様だね。ただ、君たちが知りたいのは子取様じゃなくて、コトリ様のことだろう?」
神月さんは子供に童話を読み聞かせるみたいに、落ち着いた声音で、ゆっくりと物語を紡いでいく。
「コトリ様の正体は末前みよだと言われているんだ」
「末前みよ……?つまり、末前家の人間か?」
「うん、そうだよ。江戸時代中期に、この村で酷い飢饉があったんだ。君たちも社会科の授業でやっただろう?あれは一部地方に限定されているが、関西付近もなかなか酷くてね。志野邦も被害を受けたんだ。当たり前のことだが、当時村は過疎化なんて言葉はなくてね。今はこんなに少なくても、人口は2000人はいたと言われているよ。そこに、どうしようもない飢えがやってきたらどうする?」
「どうするって…、ただ死を待つことしか出来ないんじゃないかしら?」
「そうだね。食べるものなんてない。普通ならば餓死するだけだ。だが、末前家は違った。何せ集落が成り立った時からの村の名家だ。地主でもあり、村全体を担い、村人たちを統べる長でもある。したがって、その血を残すために子孫を産まなければいけなかったんだ。飢饉になった時、末前みよは身重でね。腹の中に赤子がいたが、栄養が足りずにかなりの危機に向かい合ったと言われている」
「話の先が全く予想できない。それでどうしたんだよ……?」
「人を殺して食べたんだ」
人が人を殺して喰う。カニバリズムだ。人が生きていく上で、やってはならない定めである。
「人を殺すと言っても、またこれがかなり特殊でね。村の妊婦ばかりを狙って、生きたまま腹を裂いて子供を食べたのさ。彼女がどれほどまで狂っていたかを想像できるかい?無論、子供を食べた後もその母親を食べていたみたいだけどね。1人だけじゃない。血肉は人を狂わせる。何人も何人も、飢えが満たされるまで、末前みよは罪を繰り返した」
「……なんだか西洋の悪魔憑きみたい」
「確かに。今だったらそういう見方もあるかもしれない。流石に悪魔の存在は浸透していなかったけどね。彼女の罪が露呈すると、末前家の人間はみよを勘当した。ただの村八分じゃない。このような鬼には処刑が必要だ。だから、罪を償うために、志野山の奥地に吊るしてね。それもキリストの磔のように。みよの犯した罪と同様、生きたまま彼女の腹を裂いて、腹の赤子を取り出した。そして末前家の人間でみよを食べたそうだ。頭と胎児だけを残して、ね」
「……狂ってる…」
「ああ。狂ってる。だから末前家、いや村全体はコトリ様の存在を隠したがるんだ。末前家だけじゃなくて、村の名誉に関わるからね。私も研究者の端くれだが、ここまで行き着くのには苦労したよ。デタラメ書籍と呼ばれてしまったのは大変遺憾だが仕方がない。勝さんから口封じされているから、詳しくは書けなくてね。それでも、この村の歴史は誰かが語られなければならないのだと、私は思うよ」
身内が犯したカニバリズムの果てに、村ぐるみで隠蔽した事実。末前家が呪われた家系だというもの、この話を聞いてしまったら、納得するしかない。
子孫を残さなければならないプレッシャーから生まれた悲劇。人という生き物はとても残酷で愚かだ。
「……?いや、待てよ。その時点で跡継ぎがいないなら、末前家は終わっているじゃないか?そうなると七夏は生まれていないはずだ」
「僕にはそんな性癖がなくて、とても気持ち悪い話に感じてしまうのだが、近親婚だよ。そうすれば、本家の血は途絶えない。みよの母親と祖父が子供を作ったと言われている。これもやってはいけないことだけどね。代々末前家は女系だということを悠司くんは知ってるかい?近親婚を繰り返すとよく偏ると言われているんだ。今のそれは当時の名残だね、きっと。話を続けるよ?」
僕と七夏は頷く。座椅子に凭れかかる彼女の方を見ると、硬直しているようだった。話が突飛すぎたのだろう。だが、予想を裏切らないグロテスクな話に目だけは光を取り戻している。
「みよを処刑した後、飢饉は時間が解決し、束の間の平穏が訪れた。かと思いきや、話は終わらないね。また異変が起きる。山で遊ぶ子供が突如姿を消すんだ。大人たちはその現象を『神隠し』と呼ぶけど、薄々とそんなものじゃないと分かっていた。ある時、1人の子供が偶然こちら側に帰ってきてね。『恐ろしいものを見た。神様がうちにやって来る』。そう言って大人たちは察した。これがコトリ様伝説のはじまりだ。狙われるのは子供だけ。山に入り、彼女が亡くなった場所に近付くだけで、その存在を奪ってしまうか、運良く戻れても自宅まで迎えに来る。あれは問答無用で子供を消そうとするんだ。末前みよは子供を産むことに固執していた。つまり、これはみよの呪いだ。だから、村人は末前みよ、改めコトリ様を畏れて、彼女の遺物―――髪の毛と胎児を御神体として祀りはじめた。本殿に御神体が無いのは、単純に力が強すぎて危ないからだね。なるべく人目の付かない山奥、末前みよを殺したあの場所に祠を安置をしたんだよ。これがコトリ様について、だ」
「と、なると……、アガリビトはどうなるんだよ?あの気持ちの悪い見た目は明らかに人間じゃないし、子供にしか見えないというのも謎だ…。あまりにもフィクションすぎて、僕には理解できない」
「水子の霊って成長するんだ。悠司くんは名古屋住みだったよね?愛知には地蔵盆はないけど、知ってるかい?地蔵盆が何のためのお祭りかっていうことを」
「水子供養だ。でも、そうだったら、この村は変だろ?水子供養の祭りにはどう捉えても見えない。志野邦での地蔵盆は行方不明になった子供の墓替わりじゃないのか?」
「うん。その解釈は間違いじゃないね。とっても良い線いってるよ。そう、その通り、地蔵盆は水子供養。山で消えた子供、言い換えればコトリ様に連れて行かれてしまった子供を供養するものだ。それと、あの御神体のひとつ。末前みよの中にいた胎児。あれの供養も入っている。みよと胎児、ふたり合わせてコトリ様だからね。だけどね、コトリ様の呪いとは兎に角凄いんだ。祭りで鎮めるのが難しいぐらい。よって呪いは成長する。異形化する。その結果、あれに最も近い存在である子供が見えてしまうアガリビトの完成だ」
「ってことは、わたしのお姉ちゃんと悠司くんのお兄さんもアガリビトに?あの化け物になってしまったの…?」
「あの子たちはあの山に取り残されているだけだ。つまり、子供たちは既に亡くなっていて、あの場に残されたのは、呪いという概念だけ。ここはかなり難しいところだから、アガリビトになったということは否定できないけどね。それに、アガリビトは神様にも限りなく近い。日本人って掛詞好きだろう?『上がり人』と『祟り人』を掛けて『アガリビト』。『祟られる』じゃなくて、『崇められる』んだ。故に、神様。コトリ様の一部なんだよ。子供たちを少しでも安らかに眠らせてあげるにはそれしかないんだ」
「でもお墓はない。…墓ぐらいは作っても良いと思う」
「駄目だね。あちら側に取り込まれたら神様の一部だ。現世に留まることは出来ない。勝さんの奥さん…唯子さんも同じことを言っていたよ。唯子さんは特にあの二人を可愛がっていたからね。だから、悠太郎くんと沙雪ちゃんのお墓を作ろうと提案したけど、それは出来ない。村の風習にただ私たちは従おうとすることしか出来ないんだ」
唯子さんが僕に会ったことがあるかもしれないと、謎の既視感を持ったのは、きっと無意識的に僕の兄と僕を重ねていたのかもしれない。
「神月さん、質問しても良いか?」
「ああ。どうぞ」
そう返されて、僕は疑問に思ったことを率直に伝える。
「地蔵盆…、いや、村の道端に並んでいる地蔵菩薩あるだろ?ばあちゃんから聞いた事なんだけど、それに1日2回お供えをするよな?その団子って何の意味があるんだ?」
「そのままだ。生前の末前みよが好きだったのは餡子がないお団子。それに由来しているよ。気休め程度のおまじないだね」
祖母が言っていた『神様は餡子がない方が好き』という発言。案外そのままであった。
七夏は腑に落ちないようで、また短く挙手をする。彼女が気にかかっていることは、僕もなんとなく分かっていた。
「ねえ、神月のおじいちゃん。こっそりお団子の中身見ちゃったんだけどね、中の御札、煤がついたみたいに真っ黒だったわ」
「中身を見たのかい?処分する予定のやつを?」
「ええ。そうよ。わたしに至っては何回もやってるし。だって気にならない?誰もこの村のことを教えてくれないのなら、わたしが探すしかないじゃない」
「そうか。君たちが祟り人を見ることが出来たのは、それが関係しているのかもしれないね」
「やっぱり見ちゃいけないものだったのか?」
「過去に親族がコトリ様に連れて行かれた家がやることなんだ。悠司くんは何個持たされた?」
「5個だ」
「じゃあ5人、過去に山に入っていなくなってるね。悠太郎くんの他にも、この時代になるまで、宵嵜の家系の子供があちら側に行っているんだ。七夏ちゃんはお供え物を何個持たされた?」
「おばあちゃんと手分けしたから…、合わせると40個はあるはず。え、と、すると……?」
「お察しの通り。さっきも言ったように、コトリ様は末前の人間を嫌うからね。末前家だけは例外で、山に入らなくても連れていくようなんだよ。分家でも、七夏ちゃんも末前家の一員だ。悠司くんと明らかに違う点があるだろう?」
「…声。『殺してやる』ってずっと響いてたの。今は収まったけど、あの山に居る時は、狂い死ぬかと錯覚したぐらいね。それぐらい酷く響いてた」
「そうだね。それが呪いだ。末前家も勿論のことだけど、コトリ様の呪いは強力すぎるんだよ。そのための魔除の御札と、地蔵盆祭り。分かったかい?」
「まあ、何となくな…」
「わたしも何となくなら…。情報量が多すぎよ…。個人的には大満足だけど。…おじいちゃん、話してくれてありがとう」
「どういたしまして。勝さんがこの場にいたら、君たちには話せなかったかな。村人の血を継いでいても、子孫には話さない決まりになっているらしい。まあ、私からしたら隠すことは全くもって無駄なことだと思うけどね」
書く本は胡散臭くても、この人は僕たちの見方だということに安心した。
志野邦に来てから気になっていたことが消化されていく。肩の荷が降りて軽くなった気分だ。
「まだあるんだけど聞いても良い?」
「11時半までならね。その時間になったら儀式の準備をするから。それは後で僕から言うから、七夏ちゃんは他に何が気になったのかい?」
「色々とね。…あの山の中、とても赤かったの。それに時間も。少ししかいなかったはずなのに、こっちに帰ってきたら3時間は経過していたわ。これはどういうことなの?」
「志野山は呪われた空間だからだね。呪いは概念だけど、あれに魅入られてしまうと、こことは違った時間を過ごすことになる。言い換えれば4次元的な感じかな?分かりにくいかい?」
「う、うーん…。その空間にいるアガリビトは、おじいちゃんが撃ったあの銃で霧散したように見えたのよ…。それはどうして?」
「銃が苦手なのではなくて、鉄が苦手なんだよ。勝さんのは鉄の玉だからね。何故か祟り人は近付くことは出来ない。諸説はあるけど、魔物は鉄が苦手だということから由来しているんじゃないかな?蹄鉄とか、そうだろう?」
「じゃあ、フェンスが鉄なのは、アガリビトが嫌うからってことになるのか?」
「ああ。そうだよ。だからあれは外に出てくることはない」
「もうそろそろ良いかい?」と神月さんは言う。
僕らを確認すると、障子を開け、予め廊下に置いてあったのだろう。4枚の御札と小皿、そして塩、酒のようなものを取り出した。
「まずはこれを呑みなさい」
「これってお酒…?」
「御神酒だ。今の話を聞いていたのなら、何となくでも分かったはずだろう?これからコトリ様が君たちの元に迎えに来る。今の私の仕事はあれに君たちを渡さないことだ」
僕らは指示に従い、御神酒に口をつけた。お猪口は、餃子の小皿よりも小さく、思ったよりも飲めてしまった。苦いような甘いような、不思議な味が口の中に広がる。
神月さんは次に、部屋の四隅に盛り塩を置き、壁に難しい文字が記された御札を貼る。
「神月のおじいちゃんはここにはいてくれないの?」
「ああ。大人にはどうすることも出来ないからね。せめて安全だと言える本殿の傍のこの部屋しか、気君たちを軟禁することしか出来ないんだ」
そのまま神月さんは続ける。
「12時。日付が変わってから日が昇るまで、その間にコトリ様がやって来る。このお部屋はきちんと清めたから、コトリ様は入ることができない。ただ―――」
「ただ?」
「――――何があっても、この障子を開けてはいけないよ」
あちら側に踏み入ってしまったせいで、村の言い伝えのようにコトリ様がやって来るのだろう。
僕らは固唾を飲み込み、神月さんの話に耳を傾ける。
「コトリ様はあらゆる手段を用いてこの扉を開けようとしてくる。君たちは日が昇るまで、決して声を出してはいけないし、この部屋の中にいる素振りを見せてはならない。寝ても良いけど寝言や鼾をかいたら終わりだ。コトリ様は中に人がいるのが分かると、あの山へ連れて行ってしまうからね。折角作った結界も無意味だ。ちなみに、君たちの姉、兄上はこの儀式の最中に連れて行かれた」
七夏は黙る。俯き、苦しそうに押し黙る。
そして、悲しそうな声でぽつりと話し出す。
「……わたしたちは、朝まで大人しくしていれば良いってことね」
「声と音さえ出さなければ。出来るかい?」
「やるわ」「できます」と僕はそれぞれ返事をした。
「私は勝さんと本殿で祝詞をあげる。君たちの家族は社務所で待機している。皆ふたりの無事を祈っているよ。さあ、戦うんだ。信じているからね」
時計が置かれる。デジタル式の電波時計だ。
時刻は23時55分。日付が変わるまで僅かしかない。
「それじゃあ、私は外から結界を張るね」
明かりが消された。廊下も点灯されていないため、真っ暗になる。
神月さんは立ち上がり、退室する。
部屋に残されたのは、僕と七夏。耳を澄ますと遠くから祝詞のようなものが聞こえてくる。村長が僕らの為に夜通し唱えるのだろう。
「…コトリ様ってどんな神様なんでしょうね」
「人を食うんだ。禍津神の他に無いだろう」
「わたしは鬼と呼んでもおかしくないと思うわ」
七夏は続ける。
「…お姉ちゃんは途中できっと声を出してしまった。それが凄く怖いのよ。たった6時間と思うかもしれない。だけどわたしがその間に音を出してしまったら悠司くんも道連れになってしまう…!」
「大丈夫だ。僕だって不安だよ。……君は今日犯したことに後悔はしたか?」
「したかもしれないし、しれなかったかもしれない。分からないわ。でも、全てを知ることが出来たのは、罪を犯した対価でもあると思う。だからこそ戦わなきゃいけない。それに全て終わったら改めて謝罪と感謝を伝えなきゃならないと思うの」
「だね。答えは出てるんだ。弱気になるなよ、七夏」
僕がそう言うと七夏は笑った。
明日になるまでもう数分。僕らは覚悟を決める。
*
異変が起きたのはそれから2時間経ってからだった。
とにかく神経を使うため、段々と疲れが解放され、うつらうつらとしている中。廊下の床が、ギシィと軋む音がした。
その音に七夏は目を覚まし、僕の方を見る。声は出してはならないため、機内モードにしたスマホのメモ帳で彼女は意思疎通を図ろうとしてくる。補足しておくと、機内モードにしているのは、SNSや通話等の音のなる通知を受信しないためである。
『おじいちゃんじゃないよね?隣で祝詞聞こえるし』
僕は首を縦に振って肯定した。
「…おい、もう大丈夫や。出てこい」
背筋が凍るようだった。癖の強い関西弁。どこからどう聞いても、それは村長の声だ。七夏も顔を強ばらせ、僕の手を掴む。その手は微かに震えていた。
「平気や。さっきは平手で叩いて悪かったな。痛かったやろ?腫れてないかオレに見せてくれへんか?」
無論、僕らは無視をする。七夏はまたスマホに文字を打ち込んで、僕との筆談を試みようとする。
『神月のおじいちゃんが言っていた何がなんでも開けようとするのってこれのこと?』
『多分な』
『偽物だよね?これで6時間耐えれば良いのかな』
『分からない でも、こんなんじゃ終わらないと思う』
隣から聞こえる祝詞。それが一段と大きくなった。宮司二人も異変を察したのだろう。神月さんと共に村長は本殿にいる。ゆえに、障子の前にいるのは偽物だ。分かりきっているはずなのに、返答をしそうになる。甘い香りに釣られるみたいに、声を返したくなる。
僕と七夏は互いに手を握りあってその誘惑に耐える。
「なあ!?なんで!?なんで開けてくれへんの!?!?なんでや!?!?」
あれの声が嗄れていく。扉には手を触れられない。だから、偽物は、コトリ様はバンバンと足で床を叩く。その音がなる度に目を瞑り、聞こえない振りをして凌ぐ。
「おい!!!!開けろって!!!開けろって言うてんやろ!?!?聞いてないんか!?!?」
暗い、昏い部屋。月が出たのであろうか。
月明かりに照らされていく。薄らと障子にシルエットが顕になった。間違っても、祖母や村長とは異なる背丈。末前みよは彼女が生み出した罪と同じように、生きたまま腹を裂かれて死んだ。そう言われれば納得出来てしまう影。
呪い。目に見えず、酷く曖昧な表現である。だが、今はその単語がしっくりとおさまるのだ。
『あれが、コトリ様?』
問う七夏に『だろうな』と僕は返した。
嗄れた声は段々と変化していく。村長の声から僕の見知った声へ変わっていく。
「……悠ちゃん?おはぎ作ったわよ?悠ちゃん??いるんでしょ?ばあちゃんよ?開けられない?」
祖母そのものの声。祖母しか知らない、僕の好物、おはぎの名称を出す。
違うのだと何度も、心の中に言い聞かせ、耳を塞ぐ。それでも直接響く。どんなに僕が拒絶しようとも、コトリ様はしつこく僕を呼ぶ。
「開けろよぉぉぉぉ!!!!!!開けろぉぉぉぉ!!!!!!!」
荒々しく廊下に響く。ヒステリーや更年期障害だとかそんなんじゃない。叫んだ声からは祖母の面影は消えていく。
人ならざる叫び声に変化したところで、また七夏の様子がおかしくなった。
あの山で祠の中身を見た時と同じように、両耳を手で覆い、光のない瞳は虚空を見つめる。彼女の呼吸が荒くなる。
『どうしたんだよ?』
スマホの画面を見せても返事はない。それどころか、画面に触れようとする様子を見せない。
『また声が聞こえるのか?』
七夏の肩を揺する。だが、僕が力を入れた方向と同じ向きに頭がガクガクと揺れるだけだ。
「開けろぉぉぉぉ!!!!!!!!!!はやく開けろぉぉぉぉ!!!!!!」
耳障りなぐらいあれは鳴く。僕が真面目に考えようとすればするほど、思考を邪魔していくようだ。
目の前にはあれ、そしてあれに対するように狂う七夏。こんな異常事態に囲まれて、僕までがおかしくなってしまいそうだ。
どうすれば良い?僕はどうしたら彼女を救える?
だが、今の僕には、どんなに考えても分からなかった。
七夏の息が更に荒くなり、呻き声が漏れそうになる。声を上げてはならない。中にいるということを知られてはならない。声をあげたら結界が破れてあれが中に入ってきてしまう。
白装束の袖を彼女の口の中に入れて枷にしようと試みる。しかし、口に入らない。袖が短すぎるのだ。
止むを得ず、右手で七夏の口を覆う。
―――お願いだ、声を上げないでくれ。
しかし、僕の願いは叶わない。
「ッ!!!!」
電撃が流れるかのような熱い刺激が右手に迸る。
七夏が僕の掌を強く噛んだのだ。 その勢いで、小指から手首までの皮と肉が持っていかれる。
怯んで彼女の口元から手を離してしまった、その瞬間、七夏が僕の血がまとわりついた口で、この世の終わりのように叫んだ。
「うああああああっ!!!!!!!ごめんなさい!!!!ああっ、……ゆ、許して!!!!!」
ダンッ!
音がした。僕は無意識に俯いて、目を瞑る。右手の痛みなんて気にはならなかった。それよりも恐怖の方が上回っていたからだ。
声を出してしまった。僕たちはどうなる?
あれに連れていかれるのか?
鼻を劈くような刺激臭。匂いではなく臭い。夏場のゴミ捨て場のような、顔を顰めたくなる混沌とした臭いがした。
恐る恐る目をあける。目の前に見えるのは、正座をした僕の足と、それに向かい合う、土のように血色の悪い足。嫌な予感がした。僕が知ってる人じゃない。いや、知っていなくても、遥かに禍々しい存在であることは、土色の両足とは対象的な、鮮やかなほど紅い血液で分かる。
僕は見上げる。
「……」
恐怖で言葉が出なかった。
生きているとは到底思えない、瞼の限界まで開いた瞳。額にベッタリと張り付いた髪の毛から覗くそれは、僕をやき尽くすかの如く、見下ろす。
滴る血は腹からだった。グロテスクなぐらい大胆に裂けた下腹部は、そこだけ服が無くなり、中の内臓の様子がよく見える。赤い華が咲いていると思ったが違う。見つめれば見つめるほど、虚無に堕ちそうな。そんな深い深い赤色を帯びた臓物が零れ落ちる。
「お前は20までには貰う」
想像していたよりもずっと低い声。その意味を理解するのに数秒かかる。目の前の女から出たものだ。貰う?僕が?いや、違う。僕が聞きたいのはそんなことじゃない。
七夏は?七夏はどうなるんだ?
「…、お、おい」
僕は遅れて返事をする。だが、そこには誰もいない。そう。誰もこの部屋にはいない。
開きっぱなしの障子。外から吹き込んだ涼しい夜風が、僕の汗で湿った装束を撫でる。
四隅を囲んでいた盛り塩と御札は、白玉の中身を割った時のように、黒く煤けていた。
それだけで僕たちが儀式に失敗したことが分かる。
「……悠司くん」
どれだけ惚けていたのだろう。
血だらけの右手を庇う僕の様子を目の当たりにしたのは、宮司二人。神月さんと村長だった。
「…………七夏は?」
彼女は横にはいない。そこにいた痕跡もない。腰掛けていた座椅子だけが抜け殻のように置かれていた。
あれだけ血を滴らせていた女もだ。何一つ痕を残していない。残っているのは僕と、僕がさっき流した血だけだ。
あれは幻だったのか?
いや。違う。僕の手の傷が証拠だ。現に七夏は取り憑かれたようにおかしくなって、声を出した。そうしたら、大きな音がして、あれが目の前に現れたのだった。
その事実を伝えようとするものの、僕の口は震え、上手く言語を紡げない。
「良いんだ、良いんだよ」
目から雫が落ちる。様々な感情が波のように押し寄せてくる。
そんな僕を神月さんは優しく抱きしめた。
「……な、七夏は……。いきなり……、いきなり、あいつがおかしくなって……、祠を開けた時みたいに…」
震えが止まらない。あの女の低い声が、七夏が叫んだ甲高い叫び声が、耳から離れない。こびりついたまま、僕から離れようとしない。
「君が残ってくれただけで私は嬉しい。元から無謀なことだったんだ。あれに立ち向かうなんて」
「…ど、どういう……ことだ?」
「末前家にとってあの存在は毒であり手枷。君にとっては呪いでも、彼女にとってはそれを上回るものだ。…七夏が末前に生まれてきて、あれに興味を持った時点で全ての運命は決まっていたのだよ」
「七夏…、自分の声がずっと聞こえるって…、言っていた。どういうことだよ……?」
「初めに言っただろう。呪いなんだよ」
「だったら…村長は……?」
「ああ。オレは婿養子や。…あいつのことに関してはな、しゃあないと言いやしゃあない。…末前の人間の運命やからな」
「なんでそんな…運命だとか呪いだとか、そんな言葉だけで片付けられんだよ……」
歯をぐっと食いしばる。僕はあれに抵抗することは出来たのだろうか。
いや、できなかった。
だがしかし、抵抗することはできなくても、もっと早い段階であいつが山に入ることを止められたはずだ。
「追い詰めるのはやめなさい。君が止めても七夏ちゃんはあちら側の世界を知ろうとしたんだ。今更後悔したところで何も帰って来ないよ」
「……どうすりゃ良かったんだよ…。僕に何かが出来たはずだ……!」
「おのれはこれからのことを考えなさい」
「そうだね。君はあれに何か言われたはずだ。なんて言われたのかい?」
言おうとしてあの顔を思い出す。あの大きく開いた眼球に何処までも見られているみたいに思えて、また声が詰まる。
「……20まで……、僕が20になるまで貰うって……、そう言ってた」
僕が言うと、宮司二人は互いに顔を見合わせた。その表情からかなり良くないことだという事が分かる。
「良いか。悠司くん。今すぐこの村を離れなさい。21になる歳まで絶対に志野邦に来ちゃいけない。私からおばあちゃんとお母さんには伝えるから。良いね?」
僕は頷くしかない。
「ちょっと待ってなさい」と村長が退室をする。
数分後、戻ってくると何かを取り出した。
「……これは?」
「村の外にいる限りおのれの姿が、あれから見えなくなるお守りみたいなもん。片時も離さんといて」
小袋に紐が通されたペンダントのようなものだ。この小袋の中に御札が入っているのだろうか。僕はお礼を言ってそれを受け取る。
「それ。お風呂に入る時も外しちゃ駄目だよ。油断禁物。例え、名古屋にいても、あれは来る。何処までも付きまとってくるから」
「……約束は守るよ」
「分かったならそれで良い。その傷、縫わなきゃね。病院へ行こう。立てるかい?」
腰を上げようとする。だが、僕の両足は言うことを聞かなかった。
「勝さんは社務所に向かって郁江さんを呼んできて。……心苦しいかもしれないけど、七夏ちゃんの両親にも」
「わぁっとる。悠司のことはそっちに任せたからな」
「うん。私の仕事だから」
村長が社務所に行ったところを見届けると、ハンカチを懐から取り出して僕の手に巻く。
「まずは止血しなきゃね。…だいぶ止まってるけど、いつまた血が出るか分からないよ。痛むかい?」
「…ああ。でも七夏の方がきっと痛いと思う」
神月さんは悲しそうな顔をする。その表情が時々僕に見せた七夏の顔と似ていて、また悲しみが込み上げてきた。
「七夏は祟り人になったのか?」
「……少なくとも、地蔵盆で鎮られる対象になったよ」
「僕も、20まで油断していたら、それと同じになるのか?」
「そうだね。……私からはそうとしか言えない」
肩を借りて立ち上がる。
時計を見ると夜中の3時10分だった。夜明けまで2時間以上もある。
「駄目だったけどさ。…あのさ、神月さん」
僕の方に顔を向ける。「なんだい?」
「…ごめんなさい」
七夏はきっとこの言葉を伝えたかっただろう。
神月さんは悲しそうな表情を変えなかった。「いいよ」とも「許すよ」とも言わない。
これが僕と七夏、二人がの犯した罪。
知ってはならない禁忌に触れた者の末路だ。