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家族の絆

作者: じろ

人は感情の中に怒涛の怨念を刻み込む、ある種の本能を有しているのだろうか?

その考えが確信となった今、自分の心にも魔性の兇刃が伏在していることを悟った。


父の本家はO線N駅の近傍にあり、高祖父(こうそふ)の代から続く旧家なのだという。

これは父方本家との縁の断絶を決したときの物語である。


私は寛容と非暴力、天賦人権を信条としてこれまで歩んできた。

ガンジーやトルストイのような宗教基軸の平和思想ではなく、あくまで純粋な精神哲学的理念として…

民族や異宗教の間の対立、マイノリティーへの偏見や差別は、偏狭と壁をのり越えることで解消できると考えていた。

戦争や侵略、植民地支配に因る積年の恨みもまた、相互理解により寛解(かんかい)されてゆくものと信じていた。

しかしこの単純な上辺(うわべ)の理想は、(もろ)くも崩れ堕ちてしまうことになる。

祖父母に対する恨みと反発が、私のなかで許容しうる限界を越えてしまったのだ。

人は胸の深淵(しんえん)怒涛(どとう)怨念(おんねん)を刻み込むための、動物的本能のようなものを有しているのだろうか?

その考えが確信にかわった今、己のなかにも魔性の兇刃(きょうじん)が潜んでいることを悟った。


 私は両親がともに16歳のときにこの世に生を受けた。

私の両親に会った同級生たちは、父母ともあまりにも若いので驚いた顔をする。

中学生の頃は随分と冷やかされもした。

しかし私にとってそれは小さな自慢でもある。

家族は私が小学生の頃、O市に家を借りて住んでいた。

家族構成は私と妹、両親それに祖父である。

何故祖母がいないのか、そのことを問うてみたことはついぞ一度もなかった。

父と祖父の仕事は茶園の運営である。

そのため幼い頃から茶に囲まれて育った。

『おじいちゃんが作る狭山茶は日本一』これが我が家の合言葉であった。

”色は静岡、香りは宇治、味は狭山でとどめさす”と謳われている、その狭山茶である。

祖父がつくるお茶のうち、とくに色の濃い濃茶(こいちゃ)と鮮やかな青緑色の薄茶(うすちゃ)合組(ブレンド)して作った抹茶の風味は格別で、アイスクリームなどに混ぜるとその味は絶品だ。

食べ過ぎてしまうとカフェイン過剰摂取で夜眠れなくなることがある。

トラックやダンプカーが大手を振って走る青梅街道に沿って祖父の茶園はある。

近年、○○建託などアパート経営コンサルタント会社の甘い言葉に誘われ、茶園を手放す者も多く、狭山近郊の茶園規模は年々縮小の一途だといわれている。

『何故狭山茶がうまいのか知っているか?』

私は何遍この祖父の問いに答えただろうか…?

狭山茶がうまい理由、それは一大産業道路である青梅街道を疾走するトラックの煤煙に秘密がある。

ディーゼルエンジンが吐き出す排気ガス中の(すす)が茶葉の新芽を覆い日光を遮る。

そのため新芽は日焼けすることなく、柔らかいまま収穫できる。

日に焼けていない新芽には多くのアミノ酸が含まれ、味が深くなる。

一般に茶の木には紫外線が強くなる5月頃に黒い網をかけて日光を遮り、新芽が早期に色づいてしまわないよう工夫する。

煤煙量がとくに多い街道沿いの茶の木に於いては黒い網の遮光効果のうえに煤煙カーボンの暗幕効果が加わることで、新芽の早期色づきをさらに遅延させることができるのだという。

しかし近年、ディーゼル車の排ガス規制が厳しくなり『昔に比べて、味の深みがなくなってしもうた』と祖父は嘆く。

私は排ガス規制法の変遷が茶の味を変えてしまうことに驚き、同時に先人たちの知恵にも感心したものだった。


 私は幼い頃から祖父に熱帯の国、フィリピンへ何度も連れられていて、それは今でも続いている。

数えきれないほどフィリピンには旅している。

実は昔も今も日本茶業界は慢性的な不況下にある。

不況という表現は語弊があるかも知れない。

そもそも茶の商売自体、あまり儲からないということ。

そこで祖父はフィリピンに新天地を求め、バナバ茶の栽培にのり出したのである。

古いパスポートを見ればわかるように、私がはじめてフィリピンの土を踏んだのは13年前、5歳のときだった。

祖父の仕事のことはよくはわからなかったが、これが実にうまくいったようだ。

とくに数年ほど前より、フリーズドライ加工の水に溶かすタイプのバナバ茶をシンガポールで売り出したのがヒットして家計が随分豊かになったように思う。

バナバ茶のフリーズドライ加工は父のアイデアだった。

最初はフィリピンと日本国内で売り出したがティーバッグタイプにくらべ価格が10倍にもなり、まったく売れなかった。

そこで富裕層が多く住み、関税率が低いシンガポールへと父が持ち込んだのだ。

「日本製にしたほうがよく売れるんじゃない?」

まだ中学生だった私の何気ない一言が、父を大いに感嘆させた。

シンガポールではフリーズドライ加工したバナバ茶粉末の分包工程を日本国内で行えば『Japan-Product』と銘打ってよいことになっている。

この読みは当たりシンガポールでヒット商品となった、これは私の功績だ…!?


 祖父が話す英語はかなり拙いものだった。

幼少の折は私を、おそらくは旅の友として同伴させていたのだが、中学3年生を過ぎた頃から私は祖父の通訳係をつとめるようになっていた。

フィリピンへの渡航歴は13年間で30回にものぼる。

夏休み、まるまる一か月フィリピンで過したこともあった。

現地の公用語は英語であり、文書などはすべて英語で取り交わされる。

近年、多くの若い人たちが英語を学ぶためにフィリピンを訪れるのもそのためだ。

おかげで私も英語が堪能になったか?といえば必ずしもそうではない。

皮肉にも現地のタガログ語が話せるようになってしまった。

タガログ語は独特な文法のうえに英語とスペイン語、フィリピン語を起源とする多様な単語を並べたようなものと言える。

あらゆる言語には動詞、名詞、形容詞などの品詞が存在する。

タガログ語には他の言語にはない「小詞」と呼ばれる副詞的な意味合いを持つ品詞がある。

文法は独特で[動詞+主語+目的語]が原則的な並び順である。

これにpo、na、pa、ba、langなどの小詞が入る。

単純な日常会話であればすぐにマスターできるのだが、文法の複雑さにおいては、他に類を見ない。

動詞は時系列的変化に加えTPOによっても変化する。

ひとつの動詞が10形態にも変化する場合があるのだ。

またアルファベットのC、F、J、Q、V、X、Zがタガログ語にはないが、固有名詞には多用される。

英語の影響を強く受けるタガログ語は”タグリッシュ”とも呼ばれる。

I know that,pero bakit pupunta kayo~と前半は英語、続くフレーズはタガログ語のような言葉が日常会話や現地のテレビ放送において普通に使われている。

数のカウントはスペイン語と英語、タガログ語でなされる。

数える物の対象によりスペイン語、または英語、タガログ語が使い分けられる。

時刻を表す場合にはスペイン語が多用される。

金額や数量の表示には英語またはスペイン語またはタガログ語が使われるが、数字によって実に不規則である。

すべては慣習的なものであり、最初は面食らってしまう。

1は英語のone、スペイン語のuno,タガログ語のisaでありすべて使われている。

20の場合、スペイン語のveinte(ベンテ)が多用される。

10はどうかというと不思議なことにタガログ語のsampu(サンプ)が使われる。

ならば30は?…

これも奇妙で英語のthirtyまたはスペイン語のtreinta(トレンタ)が使われ、タガログ語のtatlumpu(タトロンプ)はまったく使われることがない。

何か規則性があるかと訊ねても知る者はなく、あくまでも日常における慣習的なものなのだ。

時間を訊くと大半の人がスペイン語で返してくる。

1時=ala una、2時=alas dosのように…

その理由は?誰も知らない、皆がそうしているからだ…


 私が通った学校は中高6年一貫教育の男子校であった。

この進学校への合格を契機に、家族は東京のN区へと引っ越した。

その3年後、私が高校1年生になった春、父が私にあらためて大切な話があると言ってきた。

十分覚悟して聞くようにと念を押された。

聞く前から、それが自分の出生にまつわるものではないかとの予感があった。

そしてそれは的中した。

自分という新しい命が母の胎内に芽生えたとき、両親はまだ15歳という年齢だった。

無論わかってはいたことだが、あらためて自分の年齢に重ねてみた。

両親は産むことを決断。

そこに気の迷いなどまったくなかったという。

両親の親族たちはこれを頑なに認めようとせず、子胎を中絶したうえ学業への専念を命じた。

昼夜に渡った決死の懇願も(つい)には通ずることなく、嫌であれば家を出てゆくようにと言われた。

そしてふたりは其其(それぞれ)の生家を捨てたのだった。


 多感な15歳の私の心は、怒りと悲しみで傷ついた。

父の話の続きはおおよそ見当がついた。

『今のおじいちゃんと血の繋がりは無いのだ!』瞬時に悟ることができた。

視野が狭窄し、視界は青白く(またた)いた。

指先の震えが止まらなかった。

怒涛(どとう)の感情は祖父母に対する反発であり、それは心の奥底へ強烈に刷りこまれていった。

父の話は動揺する私をよそに容赦なく続く…

我が息子へ覚悟の告白であった。

父は涙を流しながら、一語一語嚙みしめるように語った。

私は全身(からだ)の震えが涙より先行した。


父、若干15歳、容易に職に就けず日払いの仕事で生活をつないだという。

何処に居を置いたのか、どんな仕事だったのか、父が語ることはなかった。

途中、私は『どんな仕事?』と擦れる声で問うてみた。

言いようのない沈黙が流れた。

父は唇をかみしめている。

そしてあるひとつの仕事に関してのみ、その詳細を私に明かした。

義理の祖父が経営する茶園で臨時の作業員をやっていたのだ。

そしてこれが父と祖父の最初の出会いだったことを知った。

『いいよそこまでで、続きを話して…』

父は実家に対し、出産することを懇願し続けた壮絶な問答の様子をむせび泣きながら語った。

嫌なら出ていくように言われ、生まれ育った家を捨てることになったのだ。

実家を追われて以来、居場所を知りつつも祖父母からの経済援助は一切無かったという。

何故父はわざわざそこまで私に語ったのか?

おそらく父は私に警告したかったのだろう。

金銭的援助は母の出産を容認するものとなり得る。

しかし一切容赦なかったのだ!

祖父母たちは母の胎内に芽生えた命の処断を強く命じた。

即ち、実の祖父母にありながら、私に対する『明確な殺意』が猶予なきままに貫徹されたということになる。

(むご)いことだが、父は私に()えてこの事実を伝えたのだ。


母のお腹が目立ちはじめた頃、父は先ほどの茶園の経営者と運命的な出会いを果す。

それが義理のおじいちゃんだ。

出会いの経緯(いきさつ)はこうだった……

茶の繁忙期には臨時の働き手がどうしても必要になる。

日当6500円の安価な労働力を手配屋から買うことができた。

手配屋が祖父のところに連れてきた少年、それが父であった。

3日ほど経ち、仕事に慣れたころに祖父が訊ねてみた。

「手取り収入は1日いくらだ?」

「言ってはいけないことになっていますが、交通費込みで5000円です、交通費は一律500円引かれます」

「しばしば5人分くらいの缶コーヒーを買わされることもあります…」

1日4000~4500円しか支払われないという。

労災すらない、暴力団経営の違法な労働者派遣業だった。

父はさらに、お腹の大きな女性と二人、切迫した生活を送っていることも告白した。

あまりにも酷な話に同情した祖父は、一計を企てたそうだ……

「今日限りで君を一旦クビにする、よければ明日から住み込みで働かないか?」

恐ろしく危険な選択だった。

万が一にでも手配屋が直接雇用のことを嗅ぎつければ、身体()の安全さえも脅かされることになる。

手配屋から大事な金蔓(かねづる)を引き抜くことは、この裏業界において最大のご法度とされた。

手配屋の目を絶対に欺かなければならない。

暫くの間、奥の部屋に籠って密かな生活に徹する必要があった。

しかし静かな場所での安定した生活は、身重(みおも)の母にとってはこの上なく好ましいものであった。

祖父は母の体調やお腹の子どものことを最優先に考えてくれた。

住込みで働かせてもらったうえ、生活の面倒も全て祖父がみてくれた。

それはまるで我が子にするがごとく……

実は祖父の過去を辿ると様々な苦難があったらしい。

祖父には以前、愛する奥さんがおり、幸福な暮らしの日々を重ねていた。

お腹のなかには新しい命が芽生え、喜びと希望に満ち溢れる毎日だった。

いよいよ臨月という大事なときに不幸が襲った。

奥さんが歩行中交通事故に遭遇。

臓器破裂をともなう重傷を負い意識不明の重体となった。

二日後お腹の子は死産、その翌日には奥さんも天に召されいった。

奥さんに加えて腹の子の命までもが突如として奪われた。

悲痛に苦しむ日々が続き、半年以上茶園の手入れも儘ならなかったという。

新芽萌ゆる春の季節になって、漸く少しづつだが心の傷は癒えていった。

そんな或る日のこと、神様が祖父のもとへお腹に天使を宿した新しい家族を連れてきてくれたというわけだ。

まるで我が子にするがごとく……?

「いいや、おじいちゃんはこのとき既に新家族を養子として引き取りたいと考え始めていたんだよ」

実家の両親と話し合ったのち、正式な養子縁組の手続き踏み家族として迎え入れてくれたのだ。

そのころの経緯(いきさつ)を父は私に滔滔(とうとう)と語った。

義理のおじいちゃんへの愛と感謝の気持ちが込み上げた。

祖父母への怒りは頂点に達していた。

だが同時に堰を切ったように大粒の涙が溢れた。

両親と祖父から受く愛に咽返(むせかえ)るほど泣いた。

『何という境遇のもとに自分は生まれてきたのだろうか!』

皆に愛され育くまれ、今に至った奇跡の命なのだ!

潰される運命の小さな命を懸命に守り通してくれた、

血と絆が結んでいる(なま)の愛情をいま全身で受け止めることができる。

これこそ生涯変わることがない、家族という”最強の絆”なのだ!

 

私がある学習塾の選考試験にパスしたとき、父が私に言った言葉がある。

『大学卒業まで学費のことは一切心配するな…』 

赤茶けた父の高校時代の成績表や試験解答を何度か見たことがある。

とある都立高校で圧倒的な成績を修めていた、その証拠であった。

叶わなかった自分の夢を父は私に託したのだ。

父の実家の祖父母や縁者たちはみな華々しい学歴を持つらしい。

W大、H大、O大、、、そうそうたる大学名。

私は決心した、T大を目指し突破することを!

自分の為にではない、父の為にだ!

父の顔を立ててやる!

そして奴らに、祖父母たちに見せつけてやるのだ…

お前らが摘み取ろうとした命の芽はここまで大きくなったのだぞと!


4月12日朝、私は両親とともにT大の入学式場へ向かった。

努力が報われたあとの、晴れて穏やかな一日だった。


平成の御代が終り新しい時代が始まった或る日の休日、父の実家を家族で訪ねることになった。

記憶にはないが、私がまだ幼い頃に一度だけ実の祖父母に会ったことがあるらしい。

気乗りはしなかったが仕方がない、向うが久しぶりに顔を見せるようにと言ってきた。

私のT大合格も祝いたいそうだ。

彼らには何ひとつ祝ってもらいたくなかった。

顔を見せるようにだと?

何処にそんな義理があるのかと思った。

しかし誓ったではないか、T大に合格して父の顔を立ててやると…

私はこのときとばかり、T大の合格証の写しや学生証を携えた。


”だから気が引けたのだ!”電車を使えばよかった、ひどい渋滞だ…

環状線を右折し一方通行を貫けると閑静な住宅地に出た。

見る家すべてが豪華なつくりをしている。

ある大きな門の前に父は車を止め、警笛を三度鳴らした。

表札を見ると徳久(とくひさ)となっている。

私ははじめて父の旧姓を知ったと同時に、父の古い成績表の姓が削り落とされていたことに合点がいった。

地味な色のエプロンをまとった小柄な女性が現れた。

ちょこんと小首を垂れ、車を誘導する。

この家の家族ではなさそうだ。

案の定、雇われているお手伝いだった。

門扉わきの何やら小箱をいじっている。

グーンという機械音とともに、門が自動で開いていった。

重厚なつくりの長い塀、門の向うに現れた三階建の邸宅、我が家との違いに圧倒された。

おろしたてのシャツの襟元に汗が滲む。

「あれあれ…大きくなって、立派な青年になったものねえ~」

どうやらこの人が祖母らしい。

奥から祖父と思われる男性が現れ、次いで父と年恰好がよく似た男性が続いた。

叔父だとわかった。

みなまだ若い、考えてみればそれも当然のことだろう。

玄関をくぐると見たこともない鼈甲(べっこう)色の巨木で造られた柱が目に飛び込んできた。

顔も知らなかった実の祖父が馴れ馴れしく私の尻をぽんと叩き、大学進学をありふれた言葉で祝した。

「樹齢2000年、屋久杉の下根だよ…君のお父さんが生まれる前からここにあるぞ。兎に角合格おめでとう…」

「ああ、はいどうも…」私は視線を合わせることなく、曖昧な言葉で返答(かえ)した。

広い廊下を歩き、庭を展望する奥の応接室に通された。

見たところ3~4歳くらいの子供が遊んでいる、どうやら私には従弟がいるらしい。

両親が祖父と叔父、叔父の奥さんらと何やら話をしているが、耳に入ってこない。

にわか雨が時おり()じる、蒸し暑い十連休後半の一日だった。

メディアはどこも御代がわりの話題ばかり流している。

ある新聞は新元号を国家主義的だと批判、またある新聞は大いに絶賛している。

近年の日本はイデオロギーの二極化が顕著になっているように思う。

今朝テレビで保守とリベラル双方の論客による醜悪な討論番組を視せられ、何となく気分が沈み込んだままだった。

お手伝いが冷たい飲みものやらケーキやらを運んできた。

バカラのグラスというものを初めて手にとり眺めてみた。

なんという美しさだ…!

祝われる立場であるはずの私だが、何故か一番下(しも)の席に座らされた。

正面に座っている祖母が私に向かって話を切り出してきた。

「T大での学生生活はどう?…」

「いや、まだ通い始めたばかりなんで…」

私はポーチの中から四つ折りにした合格証の写しとIDを取り出し

「これがT大合格証書のコピーと学生証です…」

そう言って言葉を切った瞬間だった。

学生証を手に取るでもなく、ただ眺めるだけの祖母の表情に、静かではあるが強烈な嫉妬の(まなざし)を見たのだ!

私はテーブルを挟んで黙座する祖母の冷淡な所作に身震いした。

そうなのか…孫の晴れ姿が気に入らないというのか?

T大というブランドがそれほど(うらや)ましいのか?

それまで保っていた平静は崩れた…

テーブルの下、膝の上に置いたこぶしに汗が滲む。

「よかったわね、合格おめでとう…」

「また遊びに来なさいな、駅まで迎えに行くから…」祖母の声は波長が狂った山びこのように響いた。

シャネルの毒々しい悪臭が鼻を突いた。

二度と会いになど来てやるものか…!

目の前のこの命を摘み取ろうとしたくせに!

孫の俺を殺そうとしたくせに!

私はこの初老の女性(おんな)に肉親の血など微塵たりとも感じはしない。

この女も俺の存在が(うと)ましいに決まっている、

18年前に殺し(そこ)ねた孫の亡霊になど、今更会いたいと思うはずがない、

父が実家(ここ)を追われた経緯(いきさつ)を息子の俺が知らぬ筈がないことを、この女はよく解っている!

拭い去れぬ忌まわしい過去の闇を、俺はこの女と共有しているではないか!

この怨念が消えてなくなることなど、未来永劫にして有り得ないのだ!

3年前に刷り込まれていた憎悪が再び全身を巡り、癒えかけていた胸の古傷をさらに酷く(さいな)んだ。

徐々に顔面が紅潮してゆくのがわかった。

口腔(くち)は乾き、激しい鼓動で後頭部が(うず)いた。

私はただ(うつむ)き、時が過ぎるのを待った。


 拷問のような対面が(ようや)終了(おわ)った。

四肢を普通に動かせない、まるで凍りついた人形だ。

広い廊下をぎこちなく歩いて再び玄関へと向かう。

廊下を歩いている途中、叔父が私に従弟(いとこ)にあたるという自分の息子を紹介してきた。

私を甥と認めた上でのごく自然のことである。

人懐(ひとなつこ)く笑顔が可愛らしい男の子だ。

考えてみればこの家の血縁者において、この無垢な子供だけは忌まわしい過去にかかわっていない。

しかし呪われた過去のために、目の前の従弟との縁すらも今日限りとなるであろう。


豪華な大理石が敷き詰められた玄関に、(せわ)しなく働くお手伝いの姿があった。

この家はメイドを雇えるほど金持ちなのだ。

いったい15歳で実家(ここ)を追い出された父の苦労をこの者たちは知っているのだろうか?

兎に角、一刻も早く玄関をぬけ、外界(そと)の空気が吸いたかった。

靴を履こうとしたが脚が浮腫(むく)んで(かかと)が入らない。

メイドがすかさず靴箆(くつべら)を持ってきた。

靴を履き終え頭を上げたとき、両側の壁を飾っている石材が目にとまった。

黒く、角度により玉虫色の輝きを放つ、以前(まえ)に本で見たことがあるイタリアか何処かの希少な石材だと判った。

両親と義理の祖父がいとまの挨拶をしている。

その横で妹と従弟が遊戯(ふざけ)ている。

私は震える足を(かば)いながら真直ぐ玄関を出た。

誰が振り向いてなどやるものか!

車庫を囲むように整然と植えられたサクラソウの花弁(はな)に、先ほど降った俄雨(こさめ)(つゆ)(ひか)っている。

低い雲の切れ間から(わず)かに(のぞ)いている、青く(いびつ)な空が憎かった。













過ぎたる金財は他人の苦悩を慮る心、慈悲哀れみの精神を劣化させてしまう。

真の幸福とは、誰かに必要とされていることである。

真の幸福には家族の絆と愛が不可欠である。

豊かさを得るために必要な存在は物質でなく、物質の存在により貧しさが解消されることもない。

すべて人類が生まれ持つ普遍的、精神的欲求…

それは愛されたいという欲望と愛したいという欲望が織り成す

心と心のシナジーなのである。


【宮沢賢治 生徒諸君に寄せる】

中等学校生徒諸君

諸君はこの颯爽たる

諸君の未来圏から吹いて来る

透明な清潔な風を感じないのか

それは一つの送られた光線であり

決せられた南の風である

諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて

奴隷のやうに忍従することを欲するか

今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば

われらの祖先乃至はわれらに至るまで

すべての信仰や特性は

ただ誤解から生じたとさへ見え

しかも科学はいまだに暗く

われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ

むしろ諸君よ

更にあらたな正しい時代をつくれ

諸君よ

紺いろの地平線が膨らみ高まるときに

諸君はその中に没することを欲するか

じつに諸君は此の地平線に於ける

あらゆる形の山嶽でなければならぬ


宙宇は絶えずわれらによって変化する

誰が誰よりどうだとか

誰の仕事がどうしたとか

そんなことを言ってゐるひまがあるか

新たな詩人よ

雲から光から嵐から

透明なエネルギーを得て

人と地球によるべき形を暗示せよ

新しい時代のコペルニクスよ

余りに重苦しい重力の法則から

この銀河系を解き放て

衝動のやうにさへ行はれる

すべての農業労働を

冷く透明な解析によって

その藍いろの影といっしょに

舞踏の範囲にまで高めよ

新たな時代のマルクスよ

これらの盲目な衝動から動く世界を

素晴らしく美しい構成に変へよ

新しい時代のダーヴヰンよ

更に東洋風静観のキャレンヂャーに載って

銀河系空間の外にも至り

透明に深く正しい地史と

増訂された生物学をわれらに示せ

おほよそ統計に従はば

諸君のなかには少くとも千人の天才がなければなら

素質ある諸君はただにこれらを刻み出すべきである

潮や風

あらゆる自然の力を用ひ尽くして

諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ

ああ諸君はいま

この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る

透明な風を感じないのか

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