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蜃気楼の幻術

 紫闇の身体を壁に寄りかからせるような姿勢で足場におろし、白雅もその場にへたり込んだ。


 足元の岩棚は人が二人座ればいっぱいになるほど狭い。崩れた岩片があたりに散らばり、落ちてきた石の白い粉が霧の湿り気で泥状に張りついていた。


 景葵は、白雅が置いて行った荷物を背負い、忉李の手を引いて、用心しながら白雅たちの元へと向かった。


「白雅! 紫闇!」


 呼びかけると、白雅が力なく手を振る。その指先から手のひらにかけて細い裂傷が何本も走り、鋼線で焼かれたような赤い痕がまだ生々しく残っていた。


「……おやおや。手を怪我したのかい?」

「誰のせいだと思っている」


 表情が口調を完全に裏切っていた。口元が思わず緩んでしまう。


「アタシのせいだろう? まったく、可愛いことするじゃないか」


 紫闇の意識が戻ったのだ。景葵と忉李も追いついた。


「紫闇、無事だったのか!」


 忉李の安堵の声に、紫闇は咳をして苦しそうに笑った。


「呪術師ナメんじゃないわよ。予想できる毒の解毒剤くらい用意してるっての。ま、全部、使い切っちまったがね」

「だと思った」


 白雅は笑った。懐に入れていた小さな巾着から、丸薬のようなものを二粒取り出した。


「ほら、景葵と忉李でひとつずつ、念のために飲んでおくといい。解毒作用がある」

「白雅の分は?」

「私はもう飲んだ」


 いつの間に。景葵はそう思ったが、ありがたく飲んでおくことにした。忉李にも一粒飲ませる。


「いったいどうやったんだ? あいつ、傷つけたわけじゃないんだよな?」


 忉李の質問に、白雅が答える。紫闇は荷物から薬草と包帯を取り出すと、白雅の手の傷の手当てを始めた。


「呪術師謹製の薬草臭い煙幕弾と閃光弾ってヤツさ。アイツは蛇に近い。地面にぶつけて炸裂させて、鼻と、あと念のため目を利かないようにさせてやったんだ。それから紫闇と荷物を引っ掴んで逃げただけ。どうやらアイツはあの場所から動かないようだな」


 白雅は蛟をしばし見つめた。あれほどの敵意を向けながら、しかし追っては来ない。その停滞には、なにか理由があるように見えた。


 先の見えぬほどに長い登山の行程。霧の中に潜む影という魔物。山頂に存在した洞窟の入口。時間の感覚もわからなくなるほど暗くて長い迷路。人がようやく一人通れるほどの狭い足場。それは、わざわざ侵入者を招き入れるかのように螺旋状に続いている。そして、先ほどの蛟。向けられた敵意と毒気。倒れる仲間。


 すべてが何者かに試されているような気がしていた。果たして人間は困難に直面した場合、どういう行動に出るのか、ということを観察されているような、そんな妙な気分。そんな存在がなにかなど、決まっている。


「ふふ……神、か」


 突然、笑い出した白雅に、三人はギョッとした。気でも触れてしまったのだろうか。


 白雅は独白した。


「どんな気持ちなんだろうな。こんなところで、たった一人で過ごすなんて……寂しい、だろうな……」


 洞窟の奥から滴り落ちる水音だけが響き、その小さな音がかえって白雅の胸を締めつけた。


 百年の孤独、と俗にいうが、竜神の孤独はたった百年では全然足りない。それは、永劫にも似た、断絶。


「私にも、覚えがある。あの感情だ。心に穴が空いているんだろ? ……埋めようとしても、風穴のように空白だけが残る」


 白雅は、胸の奥に広がる古い傷の疼きを押さえるように手を当てた。あの感情は知っている。誰にも触れられない場所に、風だけが吹き抜けていくような孤独──。


 求めては裏切られ、自ら孤独を望むまでに追い詰められた竜神。大切な人と過ごす幸福な時間を知っているだけに、それは、きっと身を切られるほどにつらい。


「つらいよな。寂しいよな。だけど、いつまでも閉じこもっていては駄目なんだ。ずっと独りだなんて、頭がおかしくなる。そうなる前に……私と、一緒に行かないか?」


 問いかけに対する答えはない。だが、竜神はこの言葉を聞いているだろう。それは予感ではなく確信だった。


「寂しがり屋な者同士、きっと気も合うだろう。一緒に……いろんな夢を見よう……?」


 一人では寂しくとも、二人ならばきっと楽しいだろう。口元が自然と綻ぶ。白雅の意識は、そこで途絶えた。



 誰かに呼ばれている気がする。これは、子供の声だ。あぁ、泣いている。早く、行ってやらなければ。泣かせるつもりなど、ないというのに。だが、身体が動かない。そもそも自分には身体なんて、なかった。


 視界も音もなく、ただ冷たい水に沈んだまま呼吸を忘れていくような──そんな静寂だけがあった。


「白雅……白雅!」


 遠くで、しかし確かに自分を呼ぶ声がした。白雅。それは自分の名前だ。自覚した瞬間、闇の中に揺蕩っていた意識の欠片が集まって、『白雅』という意識を構成する。急速に意識が浮上した。


 はっと目覚めて、最初に視界に入ったのは子供の泣き顔だった。目の縁は真っ赤に腫れ、頬には涙の筋が乾ききらずに残っている。


「……忉李? 何故、泣いている」

「この……馬鹿! 薬は飲んだとか言って、本当は飲んでいなかったんだろう!? 僕たちが飲んだ二粒で解毒剤は最後だったんだろう!?」


 泣きながら縋りつく忉李に、白雅は苦笑して白状した。


「……飲みはしたさ。痛み止めの薬だがね。別に嘘は言っていない。それに、毒には多少耐性があるんだ」

「だから馬鹿だと言うんだ! 僕たちがどれだけ心配したと思っている!?」

「もっと言ってやってよ、ボウヤ」

「ボウヤって言うな!」


 紫闇の言葉に、すかさず忉李がクワッと食ってかかる。白雅はぼんやりとした頭で尋ねる。


「それで……ここはどこだ?」

「アンタが気を失った場所から動いてないよ。いい加減、アタシらも限界だったからね。小休止ってことで」


 岩棚の上には濃い霧がうっすら流れ込み、灯火もないのに薄青い光が壁を照らしていた。地下深くなのに、なぜか風だけは絶え間なく吹き抜けている。


「そうか。迷惑をかけたな。じゃあ、先に進もう」


 フラリとしながらも白雅は立ち上がった。足元がぐにゃりと揺れ、岩肌に手をついた指が小刻みに震えている。それでも進もうとするのが白雅らしい。

 自分の荷物を背負い、岩壁に片手を当てて、半ば寄りかかるようにして先に進む。


「白雅、もう少し休もう……」

「そうも言ってられん。私のせいでだいぶ時間を無駄にした。どうせ休むのなら、少しでも進んでから休むよ」


 言い出したら白雅は聞かない。景葵はため息をつくと、首を横に振って忉李を再び背負ったのだった。


 白雅、紫闇、景葵と忉李の順で先へと進む。螺旋状の足場には、先ほどの蛟以外に潜む者はいなかったらしい。いや、そうでもなかった。


「なぁ、あれ、見えるか?」

「……見えるわねぇ」

「城!? なんで山の中に城が……」


 白雅と紫闇と忉李がそれぞれ感想を口にする。それは、まさに忉李の言ったように城の外観を呈していた。


 だが、時折、城の輪郭が薄らとぼやけるところを見ると、どうやら実在しているわけではないらしい。まるで霧に浮かぶ影が形を真似ているだけのように、触れれば崩れそうな不安定さがあった。


「蜃気楼というヤツか……」

「そのようだねぇ……そうだ、白雅。長い紐を持っていないかい? できれば丈夫なヤツがいいんだけど」


 紫闇の言葉に、白雅は顔をしかめた。


「紐? どうするんだ、そんなもの」

「もちろん、アタシたち四人の腕をつなぐのさ。誰も迷子にならないようにね。下手したら、この蜃気楼で迷って死ぬまで……ってこともあるんだからさ」


 白雅が困惑しながら荷物の中を探る。


「紐、ねぇ……確か、腰帯が一本余っていたな……ほら、これでいいか?」

「充分よ。端を白雅の手に結び付けて……次がアタシと……景葵と忉李にも結んで、と……よし、これでいい。みんな、迷いそうになったり誘惑されそうになったりしたら、この紐の存在を意識するのよ?」

「わかった……それにしても誘惑って?」


 腕に紐の端を結びつけた忉李の質問に、紫闇が声を潜めて答えた。


「この蜃気楼は幻術に近い。ときには人の望みを映し出すこともある。そうやって、あの手この手で誘惑して、蜃気楼の中に閉じ込めてしまおうとするんだよ」

「なるほど……」


 納得したような忉李の声がした。


「じゃあ、ゆっくり進むぞ。いいな。紐を意識するんだぞ?」


 白雅が最後にそう確認して、四人は蜃気楼の中に足を踏み入れた。冷気が、まるで生き物の舌のように足元を撫でていった。



 蜃気楼の中は、果てのない迷路のようだった。何歩進んでも足音の反響が同じ場所から返ってきて、前後の感覚さえ怪しくなる。回廊は歪んで揺れ、壁の継ぎ目さえ波のように脈打って見えた。


「さっきから一向に進んでいる気がしないんだが」

「そうね。でも行き先はこれで合っているみたい」


 そう言う紫闇の両手には、直角に曲がった針金のような金属棒が一本ずつ握られている。棒の先はユラユラと揺れている。どうやらそれで行き先を探っているようだ。

 だが、その揺れ方は風では説明できない規則性を持ち、まるでなにかに導かれているようだった。


「待って、今、人影が……」


 忉李が声をあげた。同時に、回廊の温度がわずかに上がり、湿った花の香りが漂った。誰かの『気配』が満ちた。


 回廊の向こうから確かに一人の女性が歩いて来る。


「あれは……母上……?」


 呆然と呟く忉李に、女性が話しかける。忉李によく似た面差しをした美しい女性だった。


『忉李、ようやく会えましたね……さぁ、こちらへおいでなさい……』

「母上……」


 忉李の声が揺らぐ。


「忉李、聞くな。幻覚だ」


 白雅が注意を促すが、忉李は女性に見入っている。


「でも……僕の記憶にある通りの母上だ……そんな……これが幻覚だなんて……」

『私を幻覚だなんて言わないで……私はここにいるの……今、貴方の目の前にいるのよ……』

「嘘だ。母上の顔で、母上の声で、そんなことを言うのはやめろ。僕は……」

『忉李……』


 女性が忉李に近づくと、そっと手を伸ばした。忉李の喉が小さく鳴った。触れたい。けれど──。

 一瞬のためらいのあと、忉李はその手に触れた。とても温かかった。あの頃と同じ温度──その錯覚が、理性をかすかに溶かす。


「母上……」


 涙が滂沱と溢れ出す。久しぶりの母の温もり。それは温かくて優しかった。母の手がスッと手首に伸びると紐を外そうとしているのを見て、忉李はギョッとした。


「やめてください! 母上」

『どうして……? それが貴方をつらい現実に縛りつけているのよ……手足が思うように動かなくてつらいでしょう……? 大事な人を失うのはつらいでしょう……? だから、一緒においで……つらいことは全部忘れて……』


 歌うように誘う声に、忉李の思考が侵されていく。僕は、母上と一緒に──。


「忉李、違う! それは幻覚だ!」


 白雅が懸命に叫ぶ。だが、白雅も聞き覚えのある声に止められた。


『それくらいにしておけ、白雅』

「……赤鴉……?」


 胸の奥が、古い傷を撫でられたように鈍く痛んだ。


 少し困ったように苦笑する声。だが、その笑みの端が、どこか作り物めいていた。


 忉李の言ったように、記憶しているままの声だ。だが、白雅の記憶の中の赤鴉は今も二十代半ばのままで。現れた赤鴉も、記憶にある通りの容貌をしていた。


「……ふざけるな。いなくなってからもう五年も経っているんだ。五年前とまったく同じわけがないだろ? 赤鴉」

『そうか? 確かにお前はでかくなったな。もう十三の子供じゃないか……会いたかった』


 そのとき、白雅は気がついた。これは、白雅たちの記憶を読み取ってこの場に再現しているだけだ。彼ら自身の大切な思い出に侵略して、望む通りの言葉を言わせるのだ。赤鴉は、こんなこと──言わない。


「もう一度言うぞ、赤鴉。ふざけるな。私の記憶も思い出も、私だけのものだ。お前らに利用されるためじゃない」

『そっか。残念だ……』


 幻の赤鴉が寂しげな微笑を残して掻き消える。一瞬、回廊全体の空気が揺らぎ、景色が歪んだ。耳鳴りのような低い振動が足元からじわりと這いあがってくる。


 どこからか紫闇の声がした。


「それでいいんだよ、白雅。さっさと忉李を助けておやり」


 白雅は、景葵の背中で、ぼんやりとしている忉李の顔を両手で包み込むようにして自分のほうに向かせた。


「私の目を見ろ、忉李!」

「……白雅?」


 その紅い瞳に、忉李が我に返る。その瞬間、回廊が掻き消えた。あとには仄白い明かりとゴツゴツした岩壁の光景が戻ってくる。


 彼らの目の前には、いつの間にか美しい地底湖が広がっていた。湖面は鏡のように静まり返り、一滴の波紋さえ存在しなかった。まるで時が止まっているようだった。


『そなたたちの知恵と勇気、確かに見せてもらった』


 厳かな声が響いた。それは耳に届く直接的な音ではなく、各人の脳を揺らすような音なき声だった。水面が震えていないのに、波紋だけが広がっていく──そんな不思議な感覚を伴っていた。


 白雅は視線をあげて目を瞠った。水面が光を弾き、霧の奥から巨影がぬらりと現れた。


 鱗は夜の湖のように深い色を湛え、吐息は白い風となって空間を震わせる。竜神だった。


 これぞ神だとひと目でわかるような威容をそなえて、竜神はそこにいた。

2025/12/02

公開しました。

2025/12/12

加筆・修正しました。

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