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虹の魔物

 白雅の言葉どおり、山肌を這うように濃い白霧が広がり、足元の輪郭がゆっくりと消えていく。


 霧が深まるほどに、周囲の音がすっと吸い込まれていき、世界が息を潜めたようだった。


「紫闇」

「わかってる。ここいらで休憩しようかねぇ──なに、霧が晴れるまでの少しの辛抱さ」


 完全に霧に包まれる前に、紫闇が見つけた、座るのにちょうどいい大岩の上に皆、集まった。

 足元の石はしっとりと冷えており、ここが山の懐なのだと改めて思い知らされる。


「忉李、寒くないか?」

「僕は平気だ。それよりも今……」

「あぁ、ここはもう神域だからな。偽りの名前では済むまいよ。ここならば追手に聞かれる心配もない。安心しろ」


 そういう決まりもあるのか。悪意がなくとも神様に嘘をついてはいけないらしい。


 霧の奥から、誰かに見られているような静かな圧が漂い、そこが『境界』であることを否応なく悟らされた。


「いろいろ決まりがあるんだな」

「そうだな。郷に入っては郷に従えっていうだろ? 私たちは竜神の棲処にお邪魔している身分なんだ。だったら礼儀は尽くさないとな」

「わかった」


 忉李が頷く。ふと、思い出したように景葵が紫闇を振り返った。


「そういえば、村の老婆が言っていた魔物が棲むという話は本当だろうか?」


 景葵が紫闇に尋ねた。紫闇は首を横に振った。


「さっき白雅が言った通り、ここはもう神域だから、本当に魔の者は立ち入れない。だけど、竜神の眷属とされる者たちや、アタシらみたいに入山を許された者たちはいるだろうねぇ」

「竜神の眷属?」


 紫闇の言葉に、景葵は首をかしげた。


「そうだよ。例えば、蛟、蜃、虹なんかは有名だろう。身近なものだと蛇とか亀とか」

「そうなのか」


 身近すぎる生き物の名に、景葵は思わず瞬きをした。自分たちの周りにも、知らぬうちに『神の使い』がいたのかもしれない。


「ここで眷属を傷つけようものなら竜神が怒るだろうね。だから、せいぜい追い払うか、こちらが逃げるかに留めておかないと。お気をつけよ?」


 そのとき、小さな悲鳴があがった。景葵が慌てて振り向くと、忉李が青褪めていた。


「今、そこに大きな影が……」


 景葵が慌てて身構える。だが、岩の上で寝転がっていた白雅はあたりを見回すと、警戒するでもなく、また元のように横になった。


「おい、白雅……」

「大丈夫。生き物の気配がまったくしないだろ?」

「そう、だが……殿下は大きな影を見たと……」


 自分も見たような気がする。見間違いかと思ったが、殿下が言うならば見間違いではない。


 霧の向こうで、風もないのになにかがゆっくり揺れたように見え、景葵の背筋に冷たいものが走った。


「心配いらん。あれは霧に映った、ただの影だ」

「影だと?」


 眉根を寄せる景葵の耳に、忉李の小さな悲鳴が届いた。


「ほら、また!」


 今度は見間違いではなかった。景葵も見た。霧の向こう、背の高い影がユラリと動いた──ように見えた。おそらく白雅と紫闇にも見えただろう。


「い……今のは……」


 呆然とする景葵に、紫闇が笑いながら事情を説明した。


「高い山で霧が出ると、たまにそういうことがあるんだよ。実際には山頂付近で飛んでいる鳥の影だったり、岩の影だったりするんだけどね。異国にはね、この幻が見える山があってさ。妖怪が出るって評判で、いまじゃ観光名所なんだと」

「なっ……妖怪の出る場所が観光名所だと? ……世も末だな」


 げんなりと呟いた忉李の台詞に、白雅がピクリと反応した。


「ははぁ」


 あることに気がついた白雅はニヤニヤしながら忉李を見遣った。


「な……なんだよ……」

「忉李、実はお前、怖いの苦手だろ? 妖怪とか、幽霊とか」

「!」


 図星を指された忉李は顔を真っ赤にした。当たりだと知ると、白雅はカラリと笑った。


「はは……やっぱ可愛いなー、忉李。大丈夫だって。怖くないから、こっちに来いよ」


 おいでおいでと手招きをすると、忉李がおずおずと近寄ってきた。白雅は上体を起こして胡坐をかくと、忉李をひょいと抱えあげ、膝の上に乗せた。のしっと忉李の頭の上に顎を乗せる。後ろ向きのお膝抱っこである。


「ほら、こうしていれば怖くないだろ?」

「……」


 背中に白雅の体温が伝わり、忉李の呼吸は少し落ち着いた。だが忉李は耳まで真っ赤になった。


「ん? どうした、忉李。顔が赤いぞ?」


 白雅はひょいっと忉李の顔を覗き込んだ。


「お……お前のせいだ! 第一、人前でこういうことをするなとあれほど……」

「いいじゃん。紫闇と景葵なら知らぬ仲じゃあるまいし。それに、霧の中ならたとえ他に誰かいても見えないって」

「そ……そういう問題じゃない!」


 じゃあ、どういう問題だ、と即座にツッコまれそうなことを忉李は口走った。


 恥をかきたくない気持ちと、白雅の傍にいたい気持ちが胸の中でグシャグシャに混ざり、忉李はもうどちらが本音なのかわからなくなっていた。


「ん? お前、もしかして遠慮しているのか? それなら心配無用だ。お前は小さいし、それに軽い」

「小さいって言うな!」

「お馬鹿……」


 紫闇は白雅のあまりの鈍さに、思わず忉李に同情した。


「なにか言ったか? 紫闇」

「いいえー、なにも……アンタも苦労するわねぇ、景葵」

「む……承知のうえだ」


 こそこそと紫闇と景葵は会話をしてため息をついた。やはり、どう見ても一番可哀想なのは忉李だ。


「いつか報われるといいわねぇ」

「いや……無理だろう」


 無表情に言い切った景葵に、紫闇は唇を尖らせた。


「なによぅ。夢がないわねぇ」

「事実だ」


 淡々とした声が、霧の中に溶けて消えた。



 ようやく霧が晴れ、視界が澄み渡っていく。霧の切れ間には虹が見えた。虹は淡く揺らぎ、霧に溶けきらずに残った光が、山肌のどこかでまだ息づいているようだった。


 しっとりと湿った衣服で少し肌寒い気がする。風が吹くたび、冷えた布地が肌に貼りついて小さく震えが走る。忉李が身震いしたときだった。


「忉李、着ておけ」


 目の前に乾いた厚手の衣が差し出された。差し出したのは白雅だ。


「山は冷えるからな。町で買っておいた」

「……ありがとう」


 再び、景葵が忉李を背負い、歩き出す。白雅はまた、木の枝に赤い布切れを結びながら歩いた。


 霧が出る前と晴れたあとで、ずいぶんと登ったような気がするが、おそらく、まだ三合目にも到達していないのではなかろうか。


 歩いても歩いても景色は大きく変わらず、山の懐は思いのほか深い。


「このままでは五合目くらいで山中泊だな」

「雨風を凌げる風穴なんかがあればいいけど……」

「途中で見つけたら無理をせずにそこで休もう」

「そうね」


 山を登るにつれ、周囲の木々の背丈がみるみる低くなり、柔らかな腐葉土が岩肌に変わっていく。風は遮られるものを失って鋭さを増していった。ここからは木に赤い布切れを結ぶ方法は通用しない。


「どうするんだ?」

「町で顔料を調達しておいた。手っ取り早く手に入ったのが藍銅鉱だったからな。膠水と混ぜるんだ。これなら少々の雨に流れてしまう心配もない」

「……山を汚して怒られないか?」


 心配そうな忉李の視線に、白雅は苦笑を浮かべた。


「その可能性も考えたが、他に方法がない。道々手頃な石も拾っておいた。これに色をつけて道に落とす」


 白雅の指先には青黒く光る顔料がつき、石に触れるたび薄い青の軌跡が残った。


「それが良さそうだねぇ」


 紫闇も同意したため、白雅はその方法で道しるべを落としていく。そして、四人は黙々と登り続け、だいたいここで五合目くらいだろうというところまで来ても風穴は見つからなかった。


「どうする? 白雅」

「そうだな。試しに、もう少し登ってみないか? もしかしたら、この先に風穴があるかもしれない。日が暮れるギリギリまで探してもいいじゃないか」

「そうね。そうしましょう」


 四人はそのまま歩き続けた。そして、幸運にも日暮れ前に四人が横になれそうな風穴を見つけたのだった。


「中に入る前に、ちょいとお待ちよ。コイツと、コイツと……こんだけあれば充分でしょう」


 荷物の中から数種類の乾燥した薬草を取り出して、紫闇はそれを束にして火をつけると、そのまま風穴に投げ込んだ。たちまち、モクモクと煙が風穴に充満し、湿った冷気に薬草が焦げる独特の匂いが重なる。


 奥へ煙が吸い込まれていくにつれ、どこからか古い土の匂いが押し返してきた。風穴の奥からは、なにかが岩を擦る微かな音がした。


 あまりにも煙たくて忉李は噎せてしまった。


「ケホッケホッ、凄い煙と匂いだな……」

「大丈夫か?」

「悪いね、ボウヤ。おっと、風穴の入口は塞ぐんじゃないよ。お客さんたちが大量に出て行くからねぇ」

「……お客さん?」


 しばらく様子を見ていると、まぁ、出るわ、出るわ、蛇やら百足やらその他の虫たちがゾロゾロと這い出てきた。

 影が這うように地面を横切り、岩陰へ散っていく様は、まるで山の底が息を吹き返したようだった。


「うわぁ……でも、これって招かれざる客なのは僕たちのほうなんじゃないか?」

「そうともいう」


 しれっとして答える白雅に、忉李と景葵は呆れたような視線を向けた。なんだか逃げていく者たちが気の毒になってきた。まぁ、ありがたいのだが。


「とにかく、紫闇の即席虫除けのお陰で今日の寝床は確保できたな。休んで、朝食を摂ったら、また出発だ」

「そうね。ってわけで、寝ましょう?」

「そうだな」


 どこかウキウキした様子の紫闇に同意して、白雅はゴソゴソと自分の荷物から大きな塊を二つ取り出した。なにをそんなに大きな荷物を背負っているのかと思いきや。


「ほら、忉李、毛布だ。景葵と二人で使え」

「二人で、って?」


 思わずきょとんとする忉李に、白雅が笑った。


「山の夜は冷えるからな。寝ている間に凍えてしまわないように身体をくっつけ合って眠るんだ。そうすれば温かいだろ? なんなら四人でくっついて寝てもいいが」

「──! 遠慮する!」


 顔を真っ赤にして景葵の元へと向かった忉李に、白雅がカラカラと笑った。


「遠慮することはないぞ。二人よりも三人、三人よりも四人、くっついていたほうが温かいのは確かだ」

「もう、白雅ったら。意地悪していないで『おやすみ』をお言いよ」

「意地悪のつもりはなかったがな。すまなかった。じゃあ、おやすみ、忉李、景葵」

「……あぁ」


 外では風が岩壁を撫で、遠くで木々の枝がかすかに軋む音がした。


 そうして、その晩は二人ずつくっついて眠ったのだった。



 翌日。


「なんでお前たちが隣で寝ているんだー!」


 忉李の怒号が風穴に響いた。彼の視線の先では、白雅と紫闇が毛布ごとこちらに寄り添って眠っていた。すぐにのそのそと起き出した白雅が笑い出す。


「いやー、夜中に起きてさ。二人して、やっぱ寒いよなって話していたら、男二人はぐっすり眠っているじゃないか。元々女よりも男のほうが体温高いっていうし、大人より子供のほうが体温高いし。それで……」

「毛布ごと二人でこっちに引っ越して来たというわけか。呆れたな。年頃の女性としての慎みはどうした」

「いやいや、命が懸かってるんだ。暖を取るほうが先決さ」

「そうそう」


 二人してきっぱりと言い切るその様子に、景葵はため息をついた。


 朝の薄光が風穴の奥まで染み込み、冷たい岩肌に淡い色を落としていた。

2025/11/30

公開しました。

2025/12/12

加筆・修正しました。

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