地底湖の呼び声
その出会いは偶然か──それとも運命か。
彼女はかつて、たった一人の存在を、世界そのものだと思っていた。
その人を失った日から、世界は色を失い、音を失った。
それでも──彼女は、もう一度誰かを大切にしてしまった。
だから少女は、いつか聞いた『神』の眠る場所へ向かった。
陽の差さない地底湖は、それ自体が光を放っているかのように静かな青をたたえている。
聞こえてくるのはかすかに水滴が岩肌を叩く音。地底なのにふわりと頬を撫でる風は驚くほど冷たくて、澄んでいるのにどこか埃っぽい水の匂いがした。
朦朧とする意識の中、少女は独り言のように呟く。
「ふふ……神、か」
少女は笑った。
「どんな気持ちなんだろうな。こんなところで、たった一人で過ごすなんて……寂しい、だろうな……」
滴り落ちる水音だけが響き、その小さな音がかえって少女の胸を締めつけた。
「私にも、覚えがある。あの感情だ。心に穴が空いているんだろ? ……埋めようとしても、風穴のように空白だけが残る」
少女は、胸の奥に広がる古い傷の疼きを押さえるように手を当てた。
「つらいよな。寂しいよな。だけど、いつまでも閉じ籠っていては駄目なんだ。ずっと独りだなんて、頭がおかしくなる。そうなる前に……私と、一緒に行かないか?」
問いかけに対する答えはない。だが、竜神は少女の言葉を聞いているだろう。
口元が自然と綻ぶ。少女の意識は、そこで途絶えた。
*
竜──その名は古来より、雲海の裂け目に光る鱗とともに、人々の記憶に刻まれてきた。
長い体と鱗、雲を呼び雨を降らす力を持ち、喉元には『逆鱗』を宿す。
竜が抱える宝珠は『竜珠』と呼ばれ、望みを叶える力を秘めているという。
***
そして、語り継がれる伝承がひとつある。
──かつて、我は祈りに応える者であった
人の声は温かく、幼子の願いは澄んでいた。彼らは涙ながらに名を呼び、我を『神』と讃えた。
その祈りに宿る想いが、なによりも美しかった。
竜は、天と海のあわいに生まれたもの。雲をまとい、風と眠り、水の夢を見る。
世界がまだ若かった頃、願いは純粋だった。誰かのためを想う心が、まっすぐ天へと昇ってきた。
あの日、我はひとつの声を聞いた。
『どうか、この国の人々を助けてください』
焔の赤に染まった空の下、痩せた少年は瓦礫を掻き分け、人々を救い出していた。腕は震え、息は乱れていたが、瞳だけは不思議なほど澄んでいた。その身はすでに限界を迎えつつあり、幼い命の火が今にも消えようとしていた。
哀れに思った我は少年に命と力を与えた。もう一度、この世界の光を見せてやりたかった。その清らかさを信じて。
命を与え、力を与え、そして同じように苦しむ民とともに、ある島へと導いた。そこは我が祝福を与えし島であった。
少年は与えられた力を正しく使い、やがて成長して島の王となった。
王になっても彼は変わらず、弱き者を助け、望む者には祝福を与え、王国はよく治められた。
しかし、人の命は永遠ではなく、またその心も不変ではない。
時代が変われば人もまた変わる。ありとあらゆる人々がさまざまな願いを口にした。人の欲望には際限がない。
ある日、我は耳を澄ました。かつて少年が願ったような声を期待して。
しかし、我が耳に届いたのは──血の匂いをまとった、冷たい願いだった。
我は嘆いた。そして、一部の残りたる善良な人々だけに、島で一番高い山に登るようにと啓示を与えたのだ。
空は黒く裂け、怒涛の雨が大地を叩きつけた。我が落とした涙は海へと流れ込み、やがて街ひとつを沈めた。
そして、嵐のあとの静けさの中で、ようやく気づいた。かつてあれほど愛した声を、己の手で消したのだ、と。
そののち、我は祈りに応えることをやめた。願いを叶える代わりに、代価を求めた。命を望むなら命を、愛を望むなら愛を。均衡を保つために。そう言い訳をした。
だが本当は、怖かったのだ。信じたものに裏切られる痛みを、再び味わうのが。
取引であれば、情は介在しない。代価の重さが、心の距離を守ってくれる。そうして、我は孤独を選んだ。
それでも、風の音は忘れなかった。春がめぐり、白い花が地底湖に散る夜。久方ぶりに祈りの気配を感じた。
『どうか、友の病を治してほしい』
その声は、どこまでもまっすぐに、我が耳へ届いた。
そして、ついに目にしたのだ。地底湖のほとりに立つ、白い髪の娘を。その髪は地底湖の蒼に揺れ、紅い瞳だけが、暗闇の中でひと粒の灯火のように輝いていた。
その瞳の奥に、かつて救えなかった光を見た。
──それが、『彼女』との出会いである
*
この島には、今二つの国がある。ひとつは剣を掲げる国。ひとつは花と神を戴く国。過去に争い、今はかろうじて和平の糸で結ばれている。
だが誰も知らない。この地のどこか、地底の湖で竜神がいまだ眠り続けていることを。
彼の者が再び『祈り』に応えるそのときを、ただ静かに待ちながら。
2025/11/24
大幅に加筆・修正しました。
2025/12/18
加筆・修正しました。




