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短編小説集 à la carte

カフェ・時の雫(春)

作者: 篠崎フクシ

 鷺が一羽、青空の下でゆっくり旋回する。

 その影が水鏡にあらわれてはすぐに消える。田植えの季節、一帯の田圃に水が張られ、北アルプスの姿が逆さに映る。

 少し冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。

 安曇野の朝。

 この季節が一番好きだ、と双葉コマキは自転車を漕ぎながら思う。舗装されていない畦道をガタガタ言わせながら、車輪は規則正しく回転する。コマキの姿もまた、水鏡の中で山々の景色に溶け込んでいく。

 まるで水鏡という名の絵画だ。世界はその一枚に凝縮し、私は額縁を走る小人のようだとコマキの想像は膨らんでゆく。

「ただいま、ミッちゃん。コンビニで買ってきたよ、お醤油」

 買い物バッグの中から、醤油だけでなく菓子パンや牛乳パックを取り出していく。

「サンキュー、そこに置いといて」

 ミチカゼが朝の仕込みをしながら、ぶっきらぼうに応える。いつも頭にタオルを巻いて作業をするミチカゼの横顔は真剣だ。中学二年生のコマキとはふた回りも年が離れているが、友達のような感覚で接してくれる。それが何よりもコマキの心の安定に欠かせないものだった。

 友達、か。

 そんな存在、東京の学校では一人もいなかった。

「お前、また菓子パンか。コンビニの菓子パンばっか食ってるとダメになるぞ、舌が」

 マグカップにカフェ・オ・レをなみなみと注いで、コマキの座るテーブルに置く。本格的なドリップコーヒーに熱いミルクを加えたそれは、コマキの大好物だった。飲めば気持ちも暖かくなる。

 ミチカゼはコマキの母の弟、つまり叔父だ。なんの前触れもなく突然学校を休みだした娘の扱いをどうしていいかわからず、当面田舎で暮らすミチカゼに預けることにしたのだ。

 実のところ、ミチカゼはそうとう渋った。しかし結局、古民家を改造した、この〈カフェ・時の雫〉を手伝うという約束で、離れに寝泊まりさせることになったのだ。姉は、その判断がミチカゼ自身のためにもなるだろうと考えていた。

 ミチカゼもまた、何かに苦しんでいた。

「ミッちゃんは学校の先生とは違うね」

「え?」

 ミチカゼは蕎麦つゆを作る手を一瞬止めた。

「だって、私のこと根掘り葉掘り聞かないから。人の心の中を覗こうとする大人は大っ嫌い。大人はみんな、ズルくて汚い」

 ミチカゼはちょっと考えてから、それには答えずコマキの菓子パンを取り上げ、代わりにおにぎりを渡した。

「野沢菜と一緒に食うと、美味いぞ」

 本当だ。ただの塩だけのおにぎりなのに、それは優しい味がした。

 

 少しして、外でオートバイのエンジン音が聞こえ、すぐに消えた。

「おはー。やばいまた飲みすぎた〜」

 常連客のカオルが、ボサボサの金髪を掻き上げながら店に入ってきた。シャツの前ボタンを外し胸元を大きく開いているので、下着の縁が見えている。コマキは大人の女の色気にどきりとする。カオルは松本のスナックで働いていて、仕事帰りに、こうして時々顔を出した。

「扉のプレートは見なかったのか? それとも文字が読めないのか? 開店はまだずっと先だ」

 ミチカゼは冷たく言い放ったが、時間外だから別料金だ、と付け加えてコーヒーを出した。

「ふふふ、怖い顔してるけどやっさしーね、マスターは。ね? コマッキー」

「ええ……」

 どぎまぎしながらコマキはエプロンを着ける。でも、あれ? 一瞬だけれど、ミチカゼの口もとが緩んだように見えた。いつも仏頂面をしているのに、照れているのだろうか、とコマキは思ったがすぐにミチカゼの指示で我に帰る。

「コマキ、悪いが外の倉庫にある砥ぎ石を持ってきてくれ」

「あ、はい」

 倉庫の扉を開けようとした時、ツバメが一羽、目の前を通り過ぎる。ほとんど翼を動かすことなく、すっとカフェの上まで上昇していった。どうやら二階の軒に巣作りをしているようだった。コマキはクスリと笑い、二階まで上って巣の中を見てやろうという気になった。

 巣のある二階軒下のベランダに出るには、ミチカゼの部屋に入る必要があった。ミチカゼからは、俺の部屋には絶対に入るなと言われていたが、そんなことはすっかり忘れていた。

 絶対に開けるな、なんて鶴の恩返しじゃあるまいし、と軽く受け止めていたこともあった。

 ドアノブを回す。

 そこには信じられないような光景が広がっていた。ミチカゼの部屋の扉を開けた途端、コマキが目にしたものは大量の専門書だったのだ。日本語だけでなく、外国語の文字がおどる背表紙の数々を目にし、コマキは目眩がした。

 そして、ミチカゼの机上の本の表紙を見て、激しい感情が湧き上がる。怒りと悲しみ、そして絶望……、あらゆる負の感情がないまぜになる。

「やっぱり大人はズルくて汚い」

 

  ✳︎

 

 頬杖をつきながら、カオルは物憂げにコーヒーを飲む。寝不足なのか、目の下にはうっすらクマができている。タバコに火をつけようとライターを出した。

「何度言わせるんだ。ここは禁煙だ」

「いいじゃん、ついこの間までオーケーだったんだからさ。あの子が来るまで」

 ミチカゼは黙り込む。

「わかったわよ。そんな怖い顔しなくても、やめますよ〜」

 カオルは舌を出して戯けたが、すぐに真顔になった。

「マスター……、いやミチカゼ先生。いつまであの子を置いておくつもり? まさか研究対象としてあの子を見てるんじゃないでしょうね」

「まさか、そんなんじゃねえよ。あいつは俺の姪っ子だぜ。そんな目で見れる方がどうかしてる」

「なら、いいんだけど。それに、私はそれがいけないって言ってるんじゃないのよ。私だって先生のもとで心理学を学んだんだから。不登校の子の心理には興味がある。ただ、先生自身が苦しんでいるんじゃないかと思って……」

「俺の話はしなくていい」

 店内に重苦しい沈黙が広がる。開店前でいつものクラシック音楽もかけていないので、なおさらだった。

「あら? あの子、どこに行くのかしら」

 窓の外を見ていたカオルが声を上げる。同時に、近所の農家のワタライさんが扉を開けた。麦わら帽子のワタライさんは、野菜を詰めた籐の籠を抱えて入ってきた。

「おはようさん。いま、コマキちゃんが泣きながら出ていったけど、どうかしたんか?」

 ミチカゼは頭に巻いたタオルをはずし、すぐに二階に駆け上がっていった。書斎の扉が開けたままになっていた。机の上には、スクールカウンセラーの実践集が置いてあった。たぶん、中身も少しは読んだのだろう。ミチカゼが付箋をつけたページには、コマキとよく似た事例が報告されていた。紙の隅にシワが寄っている。

「カオル、カブを借りるぞ!」

 さっきまで晴れていた空が曇り始める。ツバメが低く飛ぶので、一雨来るかもしれない。そう考え、レインウェアをスーパーカブの籠に突っ込む。

 

  ✳︎

 

 コマキはスマートフォンを耳に当て、相手が出るのを待った。曇ってはいたが、小雨がぱらつく程度だったのでスマホが濡れる心配はあまりなかった。こんな時に、なに考えてるのだろう、と思う。

「お母さん? 」

「あら、何よ、こんな朝早くに」

「何よじゃないよ。お母さん、私のこと、嵌めたでしょ! ミッちゃんって、学校の先生か何かだったの?」

「違うよ、ミチカゼは学者を目指してた」

「人の心を覗き込むような?」

「ん? あんた、なんか勘違いしてない?」

「へ?」

 目の前には雨に濡れた山葵田が広がる。透き通った水にさらされ、一本一本が濃い緑色の葉を揺らしている。山葵の畝が褶曲しながら遠くまで続いている。観光客が訪れるにはまだ早く、人は疎らだ。

 電話を切ってから、しばらくコマキは呆然としていた。自分はガキだ、と激しく思う。自己中だ、と激しく思う。羞恥でじっとしていられない。母の言葉を何度も反芻してみる。

「あんたは、しばらくすれば何とかなるよ。思春期なんて、そんなものだから、お母さんは心配なんてしていない。それより、あんたをそっちに行かせることでミチカゼを癒してほしかったのよ」

 ミチカゼには別れた奥さんとの間にあなたと同い年の女の子がいるの。幼い頃に離れ離れになって……。相手の人はすぐに再婚しちゃったから、ほとんど会えなくなったのね。それから、ミチカゼは荒れちゃってね、と母親が話している途中で電話を切った。

 恥ずかしくって、最期まで聞いてられなかったのだ。

 どんな顔をしてカフェへ帰ろうか。そうこう思案していると、後ろから何かを被せられた。目の前が暗くなる。まったく乱暴だな、相変わらず。

「何やってんだ。もう、開店の時間だ。帰るぞ」

 ミチカゼにレインウェアを被せられたコマキは、今度は嬉し涙で全身をふるわせた。

 〈カフェ・時の雫〉は、今日も誰かの来客を待っている。悩み、苦しむ、まだ見ぬあなたのことを想って。【了】

 

 

 

 

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― 新着の感想 ―
[良い点]  さらっとして、くどくど説明しないところが作品に合っていて良いと思いました。 [気になる点]  今後、ミチカゼさんとコマキさんの関係がどう発展するのか気になりました。
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