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僕の友達は魚しかいない。  作者: ちわみろく
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晩熟な相棒

 驚愕と狼狽の中で彼は誰かの視線に気が付く。

 数歩向こうで腰を抜かしている年配の女性でもなく、ドラッグストアの中から罵声を浴びせている腹の出た中年男のものでもない。ましてや、事故に集まって来る野次馬たちのものでもなかった。彼らが注目しているのは、事故現場で偶然居合わせて事なきを得た博雅ではないのだ。

 遠くでサイレンが聞こえてきた。誰かが通報してくれたのだろう、警察と救急車が到着する。

 人が集まって来ているので、人並みに押されぬうちにその場を立ち去りたいと思っているのだが、誰かが自分を注視している気がして、その場を動けなかった。

 事故車両の方へ視線を向けると、変形したドアをかろうじて開いたドライバーが、降りてくる。どうやら、博雅を睨んでいたのはこの運転手のようだ。

 頭髪がだいぶ薄くなったその男は、日本人の博雅から見れば白髪と言っていい銀髪だ。顔貌は見ようによっては整っているのだろうが、痩せこけて目の下がほの暗くなっており顔色が悪い。年齢は初老に差し掛かったくらいか。見覚えのない顔だ。

 知り合いではない年配の男に、こんな殺気立った視線を向けられるなんておかしい。

「なんだ、あいつ・・・!」

 まるでこの事故の結果は、博雅を狙っていたのに失敗した不本意なものだ、と言っているかのようでぞっとする。

 作業着のようなツナギの上下を着ていた。俯き加減だからなのか、瞳の色がはっきりわからないが、黄色っぽく見える。

 事情聴取のためパトカーから降りてきた警官が、ドライバーの元へ足を運んだ。さすがに警官を目の前にしてこちらを睨んでいるわけには行かないのだろう、ようやくその殺気立った視線が逸れた。視線に圧力でもあるかのように感じられたせいで、向こうがこちらを見なくなった瞬間には思わずため息が洩れる。

 焦ったようにその場を去ろうとしたが、まるで地面に足が縫い付けられたように動けない。

 何故動けない、どうして、自分の脚が自分のものなのに自由にならないなんて。焦燥感でいっぱいになり、思わず顔を歪めた。その時だった。

『きみ、大丈夫ですか?』

 懐かしい日本語の、柔らかな発音が耳に届く。女性特有の、どこか甘く高い声。

 そっと、肩に白い手が乗せられる。

 声の方へ目を向けると、日系の若い女性が心配そうに博雅を見つめていた。身長は同じくらい、もしくはわずかに彼女の方が低いか。

 黒い髪を全てひっつめてまとめ、クリーム色のタイトなスーツを身に付けた、いかにもキャリアそうな身形なのに、その表情はとても人懐こい。目線が合うとわずかに首を傾げ、気遣うように少し笑う。その動きは小動物のように愛らしい。

『ああ、大丈夫だ、ありがとう。』

 やっとそう返答したら、急に体が自由になった。金縛りにあったかのように動けなかったのに、すっと簡単に足が動く。

『ひどい事故だわ。きっとびっくりしてしまったのですね。無理もないわ。』

 細い手が肩から引いてしまった。何故かそれを残念、と思う自分がいる。

『そう、ですね。』

 短く答える。

 不躾ながらも声を掛けてくれた相手をじっと見つめてしまった。東洋人、いや、この流暢な言葉から察するに日本人だろう。

 その視線に気を悪くした風もなく、彼女は博雅の隣りに立って事故現場の方へ視線を向ける。薄く化粧した色白な横顔は洋服を着ていても日本人形を思わせた。

 そんな風に、誰かの事を思ったことが有る。

 もしや、自分はこの女性に面識があるのだろうか。忘れてしまっているだけで、実は知り合いなのだろうか。だからこんな風に親し気に声を掛けてくれたのか。

 異国で暮らしていると、故郷恋しさの余りに同国人というだけでなんとなく仲間意識が芽生えることが有る。その親しみゆえなのか。

 必死で記憶を頭の中でひっくり返すが、出てきそうで出てこない。

 博雅が自分から声を掛けようか迷っている隙に、彼女はやがて身軽く離れて人の波へ埋もれていこうと歩き出した。

『じゃあ、気を付けて。』

 最初に聞いた声と同様に柔らかな発音でそう言うと、何かを思い出せそうだと葛藤する博雅を置いて、彼女は見えなくなってしまった。

 彼女のお陰で踏み出せるようになった足も、いささか出遅れてしまい、追いかけることも出来ない。

 だがどうしてか、初めて会った気がしない。

 その結論だけは正しいと確信していた。


 その夜、思い出せそうで思い出せないことがどうにも引っかかって、日課にしているクロッキーにもいまいち集中できなかった。

 モデルを頼んでいたシュテファンもそれに気付いたのか、小さく笑って息を吐く。

「珍しく上の空じゃないか、ヒロ。何かあったのかい?」

 これと言ってポーズを頼んだわけではないが、椅子に浅く腰を下ろし右足だけを上げてそこに両腕をおく姿が軽く揺らぐ。長い足を左右換えて今度は左足を椅子に引っ掛けるように乗せる。彼の背後には大きな水槽だ。彼の金髪が映えて美しい。

「いや、・・・ただ、今日昼間買い物に出た時、事故に出くわしてな。」

「事故・・・!?」

 顔色を変えたシュテファンは椅子から立ち上がる。

「落ち着けよ、出くわしただけで俺が事故を起こしたわけじゃない。偶然その場にいただけだ。」

 無事であることは見ればわかるだろうに、シュテファンはこちらが驚くほどに動揺して見せる。そんなにも気にしてくれるのかと思って少し嬉しくなったが、余り心配を掛けるべきではない。事故で気にかかることがあったが、今彼に話すべきではなさそうだ。

「そ、そうか、君はなんともないように見えるしね。」

「ああ、なんともないさ。たださ、事故現場の傍に居たせいで人だかりが出来ちまってなかなか出られなかったんだ。そん時若い女の子が声を掛けてくれてな。」

 事故を間近に見たショックで身が竦んでいたなどとは口が裂けても言えない。博雅にもプライドくらいはある。

「へぇ。タイプだった?誘っちゃえばよかったのに。綺麗な子だったんでしょう?ヒロは面食いそうだもの。」

 再び椅子に腰を下ろしたモデルは、茶化すように言う。

 勿論、面食いであることは否定しない。仮にも芸術家を目指す卵なのだ、美しいものを好んで当然である。

「まあ綺麗だったのは確かにそうだが。・・・なんか、見覚えがあるような気がしたんだ。思い出せそうで思い出せないんだが。」

「どんな人?」

「日本人だった。流暢な日本語で話しかけてきたからな。」

「ふーん。その場でナンパでもしちゃえばよかったのに。ヒロは案外、晩熟おくてだね。僕にはあんなに積極的だったのに。」

「あんたと会った時は確信があったからな。」

 軽く笑いながら、再び鉛筆を動かし始める。紙の上のシュテファンが再び形づくられて行く。

 


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