僕のともだち
周囲に並べられている絵を見てもわかる。
この東洋人は上手だ。人物ばかりを描いているが、風景画も上手だったと思った。
今はまだ拙いが、長い修行の果てには芸術家として名を馳せることになるかもしれない。かつて筆を折るまでは、自分もキャンパスに思いのたけをぶつけ続けた過去があるので、彼の絵の中に人を動かす情熱があるのがわかる気がしたのだ。
「ふふ、触ってみる?」
鉛筆を走らせていた手を握って胸元に近づけると、東洋人の少年は真っ赤になってその手を振り払った。予想通り過ぎる反応に、どうしても唇が綻んでしまう。
「あ、と・・・失礼。こっちが勝手に勘違いしたんだから、怒るのは筋違いだよな。」
振り払う動作が乱暴だと思ったのか、少年は小さな声で謝罪した。そうしている間も、顔が赤い。
見た目は粗末だが、いちいち言う事が義理堅いし礼儀正しい。さぞや育ちがいいのだろう。きっと母国ではお坊ちゃまに違いない。それ故に画家を志すことを反対されたのか。
数週間ほど前から彼がここにいることに気が付いていた。それなりに人通りのある場所ではあるが、本気で商売をしたいのなら、もっといい場所があるはずなのに、何故こんなところで似顔絵描きなどを営んでいるのだろうと不思議に思っていたのだ。
東洋人であることに気が付いてから、なんとなく気になっていた。過去の恋人の中の一人に東洋人がいたからかもしれない。数少ない恋愛経験の中で、彼女はとても優しかったと言う思い出のせいか、自分自身、東洋人に対する気持ちが甘いのだ。辛い思いをし、させてしまった恋であったが、今も彼女に対する思慕の情は心のどこかで眠っている。
「はい、これはあんたの分だよ。・・・お代はいいや、失礼な思いをさせちまったからな。勝手に女だと思ってて、悪かった。迷惑だったな。」
少年はスケッチブックからその一枚を丁寧に破り、手渡してくれた。扱いに乱雑さがない。男だと判明しても落胆することも無くにこやかに応対する態度に好感が持てた。
「お金はいらないのかい?」
「ああ。」
「男だったのに?」
「俺が勝手に思い込んでただけだし。・・・それに、男でも女でも、綺麗なもんは綺麗だよ。だから、いいんだ。」
受け取った白い紙の上の自分は、心地よさそうに日の光の下で転寝をしていた。こんなにも寛いだ自分の姿があったとは。
紙と少年の顔の間で視線を往復させる。随分と若そうだ、高校生でも通りそうな童顔。専門学校まで卒業しているようにはとても見えない。その若い顔は、先ほどの驚愕など忘れたようにニコニコしている。
お人好しめ。今に痛い目に遭うに違いない。
口頭とは言え売買契約は締結されているのだ。既定の金銭を要求して何が悪いのか。
馬鹿な奴だと思いながら、何故か、すぐにその場を立ち去る気にはなれなくて。
「君、名前は?僕は、シュテファン。シュテファン・バラック。」
「俺?長谷川博雅。愛称はヒロだ。」
「ヒロ、もしよかったら、ルームシェアしないかい?僕が借りている所、ちょっと広くてね。」
「え?」
彼の、鳩が豆鉄砲を食ったような顔を見るのも楽しくて、心が躍った。
大通りから一本はずれた狭い路地に、シュテファンの部屋はあった。壁に詰まれた焦げ茶色の煉瓦はその歴史を物語る様に年季が入っている。相当古い建物だろう。立て付けの悪いエントランスのドアをくぐって見上げると、長い螺旋階段が階上へ続いていた。レトロな雰囲気は嫌いではないが、立て付けが悪いのは頂けない。
三階で階段が途切れると、その先でシュテファンはポケットから赤銅色の鍵を取り出した。
「どうぞ、散らかってるけど。」
遠慮してドアから離れていた博雅を促して、室内へ吸い込まれて行く長身の影。
「じゃあ失礼して」
後姿も美麗な金髪の青年を追いかけて、博雅も中へ入った。
僅かな廊下を過ぎると、三つに仕切られた部屋が見えて来た。明かりがつけば、一層様子がわかる。
右手の部屋にだけ、生活感らしいものがあった。デスクの上にノートパソコンが三台並び、周囲に多くの書籍らしいものが積まれている。背の高い帽子掛けには、帽子ではなくいくつものベルトやズボンがぶら下がっていた。
廊下から突き当たる部屋にダイニングキッチンがあり、シュテファンがそのテーブルの上に買い物袋を無造作に置く。上着を脱ぎ、帽子掛けへそれをかけるとそのままデスクの向こうへ歩いて行った。
「今帰ったよ。お腹が空いだだろう、今ご飯にしようね。」
一抱えもありそうな大きな水槽へ話しかける美青年が、片手で熱帯魚用の餌の箱を手に取る。
キラキラと光る小さな魚たちが泳ぐ水槽は、さながら青いキャンパスに描かれた深海の絵のよう。青に緑に黄色、赤。色とりどりの魚たちが水槽の中で餌を待っていた。
「綺麗だな、それ、なんて種類?」
お世辞も込めて尋ねると、シュテファンは青い眼を丸くして、軽く肩をすくめる。
「さあ?貰いものだからよく知らない。ペットショップの店員の言うとおりに世話してるだけだよ。・・・僕の友達。」
「友達・・・?」
「そう。種類もよく知らないけど、結構長い付き合いになる友達。嫌い?魚」
シュテファンの青い眼の奥で、魚たちの光が反射して動いている。そこにも水槽が存在するみたいに、妙な感じだ。
「いや・・・食うのも見るのも好きだけど。」
問いに正直に答えると、成年は明るく笑った。
「ははは、これは食用じゃない、愛玩用だからね。食べないで。」
「そんなちっちぇの食えねぇし。」
きちんと保温装置やらライトやら細かい設備が整えられ、透明な水の中を泳ぐ魚たちは、美しく目の保養にもなるだろう。
「・・・ペットでなくて友達ね。」
博雅は口の中だけでもごもごと呟いた。
「それでね、そっちの部屋をほとんど僕は使ってないんだ。」
『友達』の水槽の脇から、廊下から左手にある部屋の方へ歩き出す。
備え付けの家具はベッドとクローゼットのみで、荷物らしいものが置いていない空間は広々と感じられた。奥には広い窓が見える。
「でも、こんな広い部屋折版でも結構かかるだろ?俺、たいして金ないぜ?」
「お金はいい。・・・代わりに、ハウスキーパーしてくれれば。僕は余り家事が得意じゃないし好きじゃない。実を言うと彼らの世話も面倒なんだ。誰かに色々やって欲しいなと思ってたんだよね。君、綺麗好きでしょ?絶対掃除とか得意そうなんだけど。」
「・・・なんでわかる」
「あはは、あたり?日本人て潔癖で神経質な人が多いって聞いたからさ。君もそうなのかなって。」
偏見もいい所だ。日本人であっても、汚いのが平気でおおざっぱな奴だってたくさんいる。少なくとも、俺はどちらかと言うと前者ではあるが。
しかし、部屋を見た感じでは部屋の主であるシュテファンはそれほど家を汚くするタイプには見えない。ハウスキーパーが必要には思えなかった。
「もしよかったら荷物持ってまたここに来て?二、三日はずっとここにいるから。」
金のない博雅にとっては渡りに船と言ってもいい好条件だ。断るには勿体なさ過ぎる。
しかし、今日会ったばかりのこの美人がなんだって得体に知れない外国人である自分に、ルームシェアを誘ったのかわからない。家賃もいらないなどと言うのだ。条件が良すぎて逆に怖かった。