雷の一撃
手の中にある僅かなコインを数えて、昼飯代をどれだけ節約できるか考える。
空腹に耐えかねて、腹と背中が一体化するまでそう何時間もいらないのではないかとさえ思えた。ここ数日は余りマシなものを口にしていないせいか、腹具合もいまいちだ。腰を下ろしているパイプ椅子も、そろそろ限界なのかたびたび悲鳴を上げていた。
今日何度目かのため息の後、視線を上げる。
ロンドンには珍しい、快晴の空の元、たくさんの人たちが公園を行き交う。その種類は雑多で多様だった。国際色豊かで、髪の色も肌の色も様々なら、ノーマルもゲイもカップルがそこら中にくっついて日差しを楽しむデート中。犬を散歩する人、猫にリードを付けて連れ歩く人、大道芸をする人、広大な芝生にランチマットを敷いてピクニックを楽しむ人。
観光地としても名高い広大な公園なので外国人の姿も非常に多く見られる。まして初夏のイギリスは冬より人口密度が高いのだ。
日曜日の昼近くにここに陣取って腰を下ろしているのは商売をするためだった。別の理由もあるにはあるが、とりあえず生活のためと言うのがメインだ。
長谷川博雅は路上で似顔絵を描いて日銭を稼いでいる。観光客相手とは言っても時期によってはそこそこ稼げるし、物好きな地元の人が客になることもあった。
芝生に広げた自信作を時折通り過ぎる人が一瞥していくが、今日はまだ一人も客がつかない。
有名人を模写した似顔絵に、それをオーバーにデフォルメした作品を重ねている。歌手・俳優・政治家など、顔の売れている人物の似顔絵は稀に買い求めたがる人もいたりする。希望されれば売るが、基本的には似顔絵を描いてのみ稼ぎたい。
画家志望だったが身内に反対されて日本を出たのが高校卒業時。ロンドンの美術系専門学校をどうにか卒業したが就職の道がなく、かと言って日本に帰ることも出来ず気付けば、ホームレスに近いような日銭稼ぎをする生活になっていた。
勿論、似顔絵かきだけで食べてなどいけない。飲食店で夜だけウエイターのバイトにも通っている。
博雅は画家になりたいのだ。
デザイン事務所に就職するとか、美術を教える職に就くと言うような選択は彼には無い。だから、就職の道はなかった。
イーゼルに置いたスケッチブックを閉じると、洗いざらしてすっかり色が変わってしまったシャツの襟を無造作に開く。懐から引っ張り出したのは、小さなお守りだった。
高校時代の彼女が餞別にとくれた天満宮のお守りは、二人で最後に初詣した思い出である。何冊にもなるスケッチブックを開けば、水彩で描かれたその時の光景が現れるはずだ。記念撮影ならぬ、記念写生の中にいるかつての彼女は随分と遠くなってしまった。
首にかけていたそのお守りを見つめながら博雅はもう一度ため息をついた。英国に来て以来、ずっと肌身離さず持ち歩いているそのお守りは、夢をかなえるために日本を出るのだと言う博雅を見送ってくれた彼女の優しい気持ちを思い出させてくれる。
「なんだい?それ。」
唐突に上の方から掠れた声がきこえた。
郷愁に浸っていた博雅が、現実に引き戻されたように狼狽して目を見開く。
今日は誰も足を留めなかった博雅のイーゼルの前に立ち止まって声をかけてきたのは、思わず声を失ってしまうような美人だった。好奇心に満ちた緑色の大きな目で凝視され、まるで雷にでも打たれたかのような衝撃を受ける。
中腰になったため濃い金色の長い髪が肩から落ちてきて、近づいた博雅の顔に軽く触れた。
白いハイネックのシャツに、茶色の薄手の上着。清潔感のあるブルーのスリムジーンズは驚くほど足が長く見える。履いているスニーカーだけがやけに薄汚れた印象だ。
顔が熱くなるのを感じながら、凝視し返すのを止められない。照れて赤面してしまう程の美貌に見惚れずにはいられない。画家を目指しているだけに美しいものには目がないが、生きたモチーフの中でここまで心惹かれた相手はいまだかつて出会ったことがなかった。
「・・・え、どれのこと?」
返答は随分と遅れた気がしたが、そこは東洋人で英語に不慣れだからと言う言い訳が成り立つ。けして相手に見惚れていたからだなどと正直には言えない。
目の前の美人が何について尋ねているのかわからず、博雅は周囲に並べ置いた自分の作品を見回した。スケッチやらカンバスやらが並べられた地面の上へ視線を走らせ動揺を抑えこむ。
しかし、博雅は相手が美貌だから驚いたわけではなかった。
彼女がとてつもない美人であることは以前から知っている。ただ今日突然声を掛けられたから狼狽しているのだ。
一か月ほど前、この公園で写生していた彼は、一目でモデルにしたいと思う程の美人と出会ったのだ。前方の芝生で無邪気に転げまわる子供たちを無心でスケッチしていた博雅は、背後からの視線を感じて振り返った。すると、長めのスプリングコートを着た彼女が大きな買い物袋を腕に抱えて屈み込み、彼の製作途中のスケッチに見入ってたのだ。
博雅の焦げ茶色の眼と視線が合うと、全身が痺れるような笑顔を見せてくれた。
中性的だけれど爽やかで、どこか儚いような微笑はモ◎・リザの微笑より謎めいている。阿呆みたいに口を開いて、一言も出てこなかった自分はさぞかし馬鹿面だっただろう。
まさに雷の一撃。
一目惚れという言葉が軽く思えるほどの強烈な印象だった。とうとうその時声を掛けられなかった彼女にもう一度会いたくてこの公園に通うようになったのだ。
無論彼女はこの公園を通る度に画家の卵の前で足を留めてくれるわけではない。
数日に一度の割合でこの公園を通る彼女を、遠くから見つめるだけでもいいと思ってここへ通って来ていた。行動力には自信がある博雅が、一度も声を掛けられなかった。断られることを思うとそっと見つめているだけでいいと言う気弱で純情な男心と言ってもいい。
夢にまで見たその美貌が目の前で自分を覗き込んでいる。彫りの深い顔が左右に少し揺れて、博雅が手に取ったスケッチブックではないと否定した。見た目に反して長く節高な指が画家の玉子の胸元に動く。
「これ?」
どうやら美人は摘まみ上げたお守りに興味があるらしい。両手で大きな買い物袋を抱えてしゃがんでいる姿勢は、バランスが悪いのか少しよろめく。
博雅は自分の作品に対する興味ではなかったので少しばかりがっかりしたが、目の前の綺麗な顔を見るとついヘラヘラしてしまうのだった。
「日本のお守りだ。」
お尋ねの物の答えを、短くはっきりと言う。
「効き目有る?」
屈託ない顔で聞き返される。
美人の声は少し掠れて顔に似合わず少々低めだ。風邪をひいているとか喉を傷めているなどの理由ではないのなら、ハスキーボイスと言えそうだ。
顔にかかる長い金髪を片手で後ろに押しやると、耳元で小さなサファイアのピアスが光っているのが見えた。
「あるさ。だってあんたみたいな美女が声をかけてくれた。幸運の証拠だ。」
こんな別嬪に出会えただけでもご利益がある。元彼女の優しい気持ちが籠ったお守りだと言うのに、平気で金髪美女に鼻の下を伸ばしているのはどうかと思う自分がいるけれど。
美しいものに出会うと言う偶然は、運に左右される事でもあるのだ。
だから、博雅は幸運なのだろう。
たとえ今現在、ホームレスに近いような生活としているとしても。