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六月中旬。
期末テストを控え、全国の中高校生がそわそわしだす時期。
この桜彩学園の生徒も例外ではなかった。
夏休みまでまだ1ヶ月。
その前に中間テスト、そして期末テストが残っているにも関わらず、旅行に行く話や海、プール、バーベキュー、花火といった夏を感じさせる単語が教室内で飛び交っていた。
完全に現実逃避だ。
しかし、その気持ちはよくわかる。
試験というのは学生にとって最強にして最恐の敵だ。いつもなら自宅に帰って遊ぶなり、出かけるなりできるが、この時期になるとそうとは言っていられなくなってしまう。
これは進学校ならではのシステムが原因だ。
桜彩学園では、中間試験、期末試験でつまずく――つまり赤点をとる――と百パーセントの確率で宿題の量が増える、もしくは夏休み返上で補習を受けなければならなくなる。これは生徒のやる気を向上させるために採用されたもので、事実、学校全体の学力偏差値は地域でも随一である。しかし、どんな世界にもできる人間いるように、できない人間も存在する。
ルールで縛れば反発したくなる年頃。
そんな生徒が少なくない。
そのため、このシステムにより、毎年、宿題でだけで夏休みを消費してしまう生徒が後を絶えない。
キーンコーンカーンコーン、とお馴染みのチャイムが鳴り、授業の終わりを告げる。
放課後になると、ほぼすべての生徒が荷物をまとめて真っすぐ帰宅した。
この桜彩学園では試験二週間前になると部活動を禁止し、放課後は勉強に専念できるようになっている。そのため、生徒会メンバーを除く、全生徒が勉強のために帰宅するのだ。
「はあ……」
守は荷物をまとめながらため息をついた。
転校して一ヶ月。
学園生活にはすっかり慣れ、今では友人もそれなりにできた。高校デビューは成功と言えるだろう。しかし、学力だけは別だった。
学力というものは急に伸びるものではない。高校デビューが上手くいったからって計算速度は上がらないし、友達が増えたからって記憶力がよくなるわけでもない。
守は勉強が苦手だった。
たしかに、桜彩学園には合格した。編入試験の倍率もよその高校と比べてものすごく高い。それを突破してきたのだから馬鹿という訳ではないだろう。しかし、編入試験は数学と英語と理科だったのだ。つまり、勉強していない科目が多々存在するのだ。
日本史、世界史、現代文、古文、漢文、エトセトラ……。
生粋の理系人間である守は文系科目が大の苦手だった。
中学では面談のたびに、担任に「理系科目だけで受験ができる私立ならどこでも合格できるな」と耳にタコができるほど言われていた。それほど文系科目は苦手なのだ。
故に、中間試験で赤点をとる可能性がある。
勉強が嫌いというわけではない。しかし、好きではない。絶対に。
復習するよりは武術の練習をしたいし、得意の数学でも公式を覚えるくらいなら格ゲーのコンボコマンドを覚えたい。
しかし、今回のテストで赤点だけは許されない。中間試験は転校時期の関係で免除されたものの、期末テストは受けなければならない。このテストで赤点を取ろうものなら、高校初の夏休みは灰色の物になるだろう。終わりの見えない課題か、毎日のようにある補習か。
――高得点でなくても、赤点は回避しなくては!
そう自分に言い聞かせる守。
家につくなり、漫画やゲームには目もくれず、机に向かいテキストを開く。そして、重要な項目を裏紙に書き込み記憶していく。暗記のコツはひたすらに書くことだとテレビでも言われているのでひたすらに書きこむ。
しかし、人間というのは不思議なもので、同じ動作を繰り返していると眠気が襲ってくるのだ。加えて、今はだいぶ暖かい季節だ。暖かければそれだけ眠くなりやすい。
これは人間が心地よく感じると副交感神経が活性化し、これが睡眠時に発生する、交感神経が副交感神経に切り替わる現象と似ているために眠くなるのだ。
つまり、人間は暖かい環境で勉強をすると眠くなる。
そのため、守は得意科目以外の勉強時は寝落ちの確率が異常に高くなっていた。
その結果――。
試験一週間前にして、文系科目の勉強が全く進んでいないという事態を招いていた。
「はあ……」
守はもう一度大きなため息を吐いた。
日本史、世界史、古文、漢文、現代文。
全く手つかずの科目が五科目ある状態で試験一週間前を迎えてしまったこの状況は本格的にまずい。
減る時間に焦り、勉強の効率は落ち、それに加えて寝落ち。
いよいよ、夏休み返上の補習が現実味を帯びてきた。
「はあ……」
本日、何回目かのため息。
ため息をつくと幸せが逃げるというが、実際は幸せが逃げている人間がため息をつくのではないかと思える。
そんなときに後ろから声をかけられた。
「どうかした?」
女性の声。
声の主が恵であることはすぐに分かった。
基本的に守に話しかけてくる女性は恵以外にいない。他の女子と仲が悪いわけでも嫌われているわけでもない。むしろ、仲は良い方だ。休み時間には流れで談笑したりすることもある。しかし放課後に声をかけてくれるほど仲のいいのは恵しかいない。
守は声のした方に視線を向ける。
そこにはやはり、恵の姿があった。
スクールバッグを右肩にかけ、こちらを見つめる恵。
「いや、試験が億劫だなーって思ってさ」
そう言いながら、守は肩をすくめた。
それを聞いて、恵は一瞬ポカーンとしていたが、すぐに破顔し、クスクスと笑いだした。
「あー、それはたしかにね」
笑い方一つとっても他の女子とはレベルが違うな、と守は感じた。
クラスの男子がこぞって仲良くなろうとしている理由がわかる。
顔はいいけど性格が悪い、性格はいいけど見た目が……など、長所と欠点を両方持っているのが人間だ。そして、長所が大きいと、欠点も比例して大きくなるものである。
しかし、恵は欠点があまりに目立たな過ぎる。というより、見当たらない。
外見は言うまでもなく、美人だ。そして成績は優秀、運動もできるという超人だ。それでもって気が利いて、先生からも好かれている。しかし、そのことを表に出さない。嫌味っぽくもなく自然と振舞える。
そんな人間を嫌うは嫉妬でもないかぎり難しいだろう。
恵は鞄を置いて、椅子に座りなおした。
「授業中もずっとため息ついていたでしょ? だから悩み事でもあるのかなーって思って」
恵が守の顔を見つめる。
「心配どうも。でも、俺は悩みなんてないからな」
「ほんとにないの?」
何やら疑うような視線を向けてくる恵。
――すみません。勉強のことでめちゃくちゃ悩んでおります!
心の中で謝罪する。
しかし、声には出さない。勉強はあくまで自分の問題だ。相談してもどうにもならない。
「てっきり文系科目の勉強が手につかないから悩んでいるのかと思ったのに」
あまりに的確な指摘に、思わず目を見開いた。
しかし、何でわかった!? という言葉をぎりぎりで飲み込む。けれども、リアクションが明らかに不自然だった。
「図星って感じだね」
そう言って恵が笑う。
どうやら鎌をかけられたらしい。
「そういうのは反則だと思うぞ?」
「ごめんね。ただ、本当に困ってそうだったから」
「……」
そう言われると言い返せなくなってしまう。
恵は一回深呼吸をすると、
「……あのね、一つだけ提案があるんだけどいいかな?」
頬を少し赤らめるながらそう言った。
その表情に思わず守の心臓が飛び跳ねた。
別に告白されるような雰囲気ではない。しかし、放課後、夕日が差し込む教室で二人きり。頬を赤らめる少女。
どきっとしない男などいるはずがない。もしいたとするなら何か大切なものをどこかに落としてきてしまったやつだけだろう。
「……提案ですか?」
守は言葉を丁寧に紡ぎだす。しかし、慎重になりすぎたせいで敬語になってしまった。
それ聞いてまたもや噴き出す恵。
「な、なんで敬語なの?」
笑いを堪えながらしゃべっているのは一目瞭然だ。
「忘れてくれ……」
自分の失態が恥ずかしくなり、そう口にした。
ようやく笑いがおさまった恵はコホンとわざとらしく咳をした。
先ほどまでの緊張感はもうどこにもない。
全部守がぶち壊した。しかし、そのおかげか、恵は先ほどとは打って変わって、いつもの笑顔で次のように発言した。
「あのね、一緒に勉強しない?」
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本館の最上階にある一室。
普段ガタガタと騒がしいその部屋だが、今日に限り、カリカリというペンを走らせている音だけが響いていた。
ここは、生徒の長が居座る部屋。つまり生徒会室だ。
昨日、守は恵に「一緒に勉強しない?」と提案された。
女子と二人で勉強会。
普通ならテンションの上がるお誘いだ。しかし、その言葉には続きがあった。
「片山君に勉強教えてほしいって言われて、せっかくだから一緒にどうかなって思って」
――あいつ、ちゃっかりしているなぁ……
それが率直な感想だった。
守はクラスで恵と話をする男子は自分だけだと思っていた。しかし、守の知らないところで透も恵と打ち解けていたらしい。
恵に友達ができることはいいことだ。
恵も守と同じ転校生だ。友達が増えるということはそれだけ馴染めているということ。喜びはしても悲しむようなことではない。
しかし、守は胸の中に靄のようなものがかかっているような不思議な感覚を覚えた。
「どうかした?」
「え?」
どうやら、変な顏をしていたらしい
守は誤魔化すように咳払いをすると、お願いしてもいいか? と提案を了承した。
どんな理由があっても現状として、勉強を教えて貰えるのはありがたい。
その日のうちに時間と待ち合わせの場所だけ決めてその日は解散した。
そして、翌日――つまり今日――、土曜日で学校は休みだったが教室に集まった。透から自習室を借りたという連絡が来たからだ。一度教室に集まってから自習室に向かう。しかし、案内されたのは生徒会室。
「だってここなら誰も来ないし」
とのこと。
生徒会室の中は、文化祭の資料で溢れかえっていた。まだだいぶ先の話だが、夏休み明けには文化祭もあるのでその準備であることがうかがえる。
そして、もう一つ。
先ほどからずっとこちらを見ている、というより睨んでいる顔見知りの女性が一人。
「…………」
顔全体をはっきりと歪め、なんでいるのよ、と言わんばかりの表情をした山城優香だ。
これも透曰く、同じクラスだし、とのこと。
しかし、恵と守は優香と仲が良くない。
勝手に生徒会室を使ったせいで優香との関係が悪化するのではないかという懸念があった。
優香はしばらく守と恵を怪しげな眼で見ていたが、透に説得され、ため息をつきながら「勝手にどうぞ」と言って自分の作業を再開した。
そして現在。
守たちは生徒会室を独占し、勉強会を開いている
守と透は横に並んで机と、正確には机の上に広げられた参考書とにらめっこをしていた。
並ぶ漢字、漢字、漢字。守が大の苦手としている漢文の参考書だ。そのとなりには授業で用いる教科書もある。
守は教科書と参考書とを交互に見比べる。
教科書に書かれていた意味の分からない単語を参考書の中で見つけると、その意味をノートに書き写す。
この勉強方法は恵に教わったものだ。曰く、「漢文は暗記するしかないから、理解しながらひたすら書く」らしい。
せっかく勉強を見てもらっているのだ。可能な限り集中し、少しでも多くの知識を身に着けたい。ここまでしてもらって、できませんでしたでは目もあてられない。
しかし、この科目の勉強を始めてまもなく2時間。勉強を始めてから計算すると8時間が経過している。流石に集中力が切れる頃。
守は息抜きがてらに伸びをしながら窓の外を眺めた。日は完全に沈み、空にはちらほらと星が見えていた。
星を見るのも何年振りだろうか。
前に住んでいた場所は都会も都会、大都会だったため、星を見る機会はなかった。
しかし、先日引っ越してきたこの場所は、夜になると、曇りでないかぎり星を拝むことができる。
無意識のうちに守は星を眺めていた。
取り立てて星が好きというわけではない。しかし、真っ暗な空に輝く星を眺めると、心が自然と落ち着く。
勉強の疲れも一時ではあるが忘れていた。
しかし、そんないい気分も長くは続かない。真横から守の頭めがけて飛んできた白い物体が守を強制的に現実に引き戻す。
飛来した白い物体は頭に着弾すると、そのまま髪の毛の中に埋もれた。
守は髪の毛に埋もれたそれを手探りで取り出すと、それが消しゴムのかけらであることが分かった。
「……おい」
守は消しゴムの発射点、つまり、投げてきた男を見る。
そこには守と同様に、参考書と教科書を広げる透の姿があった。
「何か用か?」
守はそういうと消しゴムを投げ返す。
消しゴムは綺麗な放物線を描き、透の頭めがけて飛んでいく。
しかし、透は着弾寸前で少しだけ頭を動かし、消しゴムを回避した。消しゴムが透の顔すれすれのところを通過する。
この距離で、それなりの速度で投げた消しゴムの欠片を避けるだけでも大分凄い。ましてや、それを最小限の動きで回避したのだ。こんな芸当、コマ送りで見えていない限り到底できる芸当ではない。
「ほら、二人とも、勉強しないと夏休み補講になっちゃうよ?」
ここで見かねたのか、恵も話を割って入ってきた。
勉強を教えて貰っている分際で、消しゴムで遊んでいるのは失礼以外の何物でもない。
「わ、わるい……」
守は素直に謝罪をする。しかし
「勉強しないと夏休み遊べなくなるぞ?」
透はそう言うともう一度消しゴムを投げてきた。今度は先ほどよりも大きい。
――こいつの頭には反省という文字がないのか!
内心で盛大なツッコミを入れる。
しかし、今はそれどころではない。今は消しゴムを投げられているのだ。
何度も当たるのは癪なので軽く椅子をひいて避ける。守には透の様に消しゴムを見切ってぎりぎりで躱すといったことはできないが、運動神経は悪くないので避ける自体は難しくない。
躱した消しゴムの欠片が床に落ちる
守はそれをすかさず拾って投げ返す。
透もそれに反応して、先ほどと同じように最小限の動きで躱す。しかし、それは守も想定済み。
「なに!?」
透が驚きの声を上げた。
それもそのはず、避けたはずの消しゴムが顔に迫っていたからだ。
透と真っ向勝負をしても勝算はない。学年一の運動神経に加え、あの動体視力なのだ。並大抵の攻撃ではかすりもしないだろう。
そんな相手に消しゴムの欠片を当てるには、小技が必要だった。だから透は、二発目を投げたのだ。
一発目を投げ、それを避けた瞬間に二発目を放る。
タイミング、狙い、共に完璧だった。これは躱すことはできないはずだ。
避けたところを狙って投げた消しゴムは吸い寄せられるように透の顔に飛んでいった。
が、透はぎりぎりのところでこれを躱して見せたのだ。
とても人間技とは思えなかった。
――反応が早すぎる!
流石にこれには守も驚きを隠せなかった。
しかし、透はさらに人間離れした運動能力を見せつけてきた。
ぎりぎりで躱した二発目の消しゴムの欠片を、透はシャーペンで打ち返したのだ。
透の鋭いスイングは消しゴムの欠片を正確にとらえた。そして、打たれた消しゴムはほぼ一直線で守の顔めがけて飛んでいき、鼻に入った。
「ぬおおおおおおお!!!」
鼻を押さえてもだえる守。
思いのほか奥の方に入ったため、地味に痛い。
守の向かいに座って一部始終を見ていた恵は、お腹と口元を押さえて笑いを堪えていた。
その隣では優香がため息をついている。
守は鼻をかんで、なんとか取り出すことのできた消しゴムをゴミ箱に捨てて席に戻る。
「なんで俺がこんな目に……」
守は違和感のある鼻を摩る。
「サボっているからだろ?」
「サボってない。空を見ていただけだ」
透の発言に反論する守。しかし……。
「空を眺めても成績はあがらないぞ?」
――ごもっとも。
あっさりと論破されて、撤退を余儀なくされた。
何か言い返そうと思ったが疲れのせいか、適切な言葉が浮かばない。
考えあぐねていると、机の向かいから助け舟が出た。
「さっきからずっとやっていたからね。少し伸びたりした方がいいよ」
声の主は恵だ。
恵はそういうと両腕を上にあげ、上半身を反る様に伸びをした。ただでさえ大きい胸がさらに強調される。
守はすぐに視線を逸らした。しかし、透が逸らすどころか食い入るように見ていたため――
「いてえええー!」
優香に頬をつねられていた。
それを不思議そうに見ている恵。
内心で、あぶねえ……と冷や汗をかく。
優香が守のことをつねったりはしないだろうが、女の子にそういう男だと思われるのは賢明ではない。
守は二人を横目に、黙って鞄を膝の上に置くと、中を探った。
最終下校時刻まであと一時間ある。漢文、古文、現代文、世界史と勉強したので次は日本史の勉強をしようと思ったのだ。しかし、そこであることに気が付き、手が止まる。
参考書がないのだ。
あの参考書がないと日本史の勉強はできない。
何度も鞄の中を探すがやはり見つからない。
守は参考書を探し、右往左往しているとあることを思い出した。
「あ、教室に参考書忘れてきたかも」
昨日は体育があって鞄が嵩張ったので、いくつかの参考書を机に入れたまま帰宅したのだ。そのことをさっきまで完全に忘れていた。
時刻は既に夜の八時。当然の様に、申請のない教室――つまり生徒会室以外のことだ――は既に施錠されていて入ることはできない。
「……どうすっかな」
守が悩んでいると、優香に頬つねられている透がカギを差し出してきた。
鍵に取り付けられたタグには一年二組と書いてある。つまり、これは守たちの教室のか鍵ということになる。
守は鍵をしばらく見つめたあと、透に視線を移動させた。
勝手に貸し出していいのか? という意である。
厚意自体は大変うれしいが、友人にルールを破らせるのは気が引ける。
しかし、透は笑みを浮かべて、親指を立てる。。
そして、さらに優香に頬つねられた。
どうやら駄目らしい。
守は鍵を優香に返そうとしたが、優香は一瞥もくれず、代わりに空いた左手で一枚の紙を差し出してきた。紙には貸し出し用紙とある。
――なるほど。
守はすぐに意味を理解して、必要事項を書き込んでから優香に手渡した。