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眼球

掲載日:2014/08/04

 一日の終わり、風呂上りに毎日の習慣として冷蔵庫を開ける。

 銀色に緑色の星が描かれている缶ビールを一本取り出すと、首にタオルを引っ掛けたままプルタブを引いた。

 かしゅりと金属のこすれる音がして、炭酸が一瞬にぎやかにはじける。

 白いタンクトップに黒いトランクス。そんな格好をしていても、八月の夜は暑い。部屋の空気はどんよりと重たく、逃がしようのない熱をいつまでもぐじぐじと孕んでいる。

「おかえり」

 声がかけられて、振り返った。

 つるりとした白い顔で、彼女が赤さだけ目立つ唇で微笑んだ。

「……ただいま」

「お風呂上り?」

「ご覧の通り」

「今日も暑かったわね」

「まだ暑い」

 熱帯夜。彼女はけだるそうに言う。彼の伸びすぎた感のある前髪とは対照的に、彼女の真っ黒い髪は恐ろしく短く刈り込まれていた。ベリーショート、の言葉ではまだ足りないような、ベリーベリーショート。頭の形が綺麗だ。完璧、という言葉しか当てはまらないような。

 胸も尻もない彼女の、棒切れみたいな身体を無遠慮に眺めて、彼はビールに口をつける。

「クーラーをつけて寝ればいいわ」

「熱帯夜だし?」

「ビール、わたしにも」

 キッチンはシンプルで、余計なものはなにひとつないどころか必要なものも時々は欠けていた。ビーカーみたいな軽量カップだとか、鍋のふただとか。

 差し出した、ひと口だけ飲んだビールの缶を彼女は受け取る。そのまま口をつける。その間に彼は右のまぶたを人差し指と中指で押さえた。眼球のまるみに沿って、ぐっ、と力を込める。指が、目の奥へと入っていく。

 そうしてつるりと取り出した眼球を、彼女に向けてそっと差し出した。

 持っていた缶を左手に持ち替えて、彼女は右手を伸ばす。ノースリーブの、灰色のワンピースを着ている。ストレッチ素材のそれは、パジャマ代わりにされていた。

 着たままするときはいいけどさ、と、彼はぼんやり思う。

 着たままするときはいいけどさ、パンツを脱がすだけで突っ込めるし。でも全部脱がせて裸になって抱き合おうとすると、ワンピースと言うのは面倒くさい。背中にチャックのあるものとかならまだしも、頭からすっぽりかぶって、頭からすっぽり脱ぐようなこのタイプのものは。

 空っぽになった右の目の穴と、いつもどおりにきちんと機能している左の目で彼女を見ながら、彼はそんなことを考える。

 彼女は彼の視線も気にしないまま、彼の眼球を人差し指と親指とでそっとつまんで部屋の照明にかざす。

「まぶしい?」

「まぶしくない」

「神経が繋がってないものね」

「今はね」

「ビール、」

「飲まないなら飲むけど」

 彼女は静かに微笑んで、銀色の缶ビールを彼に差し出した。受け取って、彼は彼女が持っている自分の眼球を見る。

 一日の記憶を。

 すべて吸い込んでいる器官。

 彼女は彼と同じようにして、自分の右の眼球を取り出した。それを左のてのひらに包み込むようにしながら、両手でコンタクトをはめるときのように彼の眼球を自分の顔の穴に押し込む。

 ぱちり、ぱちり、と。

 何度かまばたきをして、なじんだのを確認すると彼女は自分の眼球を彼に差し出した。

「一日分の、記録」

「記憶じゃなくて?」

「記録よ、そんなの、ただの記録でしかないわ」

 彼はビールの缶を持っていない手で彼女の眼球を受け取ると、ビールの缶を持ったままするりと自分の空洞にそれをはめ込んだ。


 記録の共有。

 記憶の共有。

 愛する人の一日を、自分の知らないでいる部分を知るための。

 眼球の交換をする。

 記憶が流れ込む。もしくは、記録が。脳内に。

 自分の知らないはずの一日がそこに流れる。残っている自分が過ごした本物の一日とそれは混じって、とろりと溶け合う。

 共有。

 自分の知らない一日。

 自分の過ごした一日。

 混ぜ合わせてすべて共有する。それがいいことなのか幸せなことなのか、そは各自で判断するべきであって誰かが何かを言う権利はない、多分。


 知らない男の裸の胸が見えた。

 腕と。

 抱き締められたのだろう、肌色がアップになる。

 それから長いこと閉じていたのか、暗い画面が続いた。そしてまた明るくなる。男の顔が見える。鼻が大きく見えた。時折唇を見る。無精ひげの生えた口元。硬そうな、黒く短いひげ。

 知らない部屋は本棚があったから、そういう行為のためのホテルではないのだろう。

 脱ぎ捨てられた服と。

 青灰色のカーテンと。

 彼女の目が見ていたものが、彼のものとして流れ込んでくる。

 彼はそっと目を閉じた。それでも見えてしまう、消したりできない。それは彼女の目が見た記録だから。シャットダウンできない。彼は喉の奥で小さく呻く。すべてを知ってしまうのが愛だというのなら、それはなんて愚かでくだらない自虐行為なんだろう。それをすべて許容してまるごとを自分のものとしなくてはならないとしたら、愛にはまだ辿りついていないのかもしれない。自分は。彼はそう思う。

 こんなに好きなのに。

 彼女のすべてを知りたいと思う、好きだから。

 でも彼女のすべてを知ると痛くて叫び出しそうになる。

 人間なんて。

 そんなものだ。


「あ、」

 彼女の声に顔を向けた。指を折り曲げて猫の手にして、彼女は自分の爪を見ている。

「マニキュアが」

 はがれてる。

 そう言って、彼女は首を横に振った。小さく。

「マニキュア?」

「塗ってるの、薄いベージュのを」

「そうなんだ」

「そう」

 気付かなかった、とか、知らなかった、と言いそうになって彼は慌てて口をつむぐ。彼女のことをいろいろと知りたいと思っていながら、目に見える小さな爪の色には気付かないなんて。そんなのは。

「……今日の、」

「うん?」

 彼は動揺した自分を見せないようにしてビールをあおった。

 結局のところ、好きだと思っているのは錯覚なのかもしれない。愛してると口にして強く想う、そんな相手がいるという自分に酔っているだけなのかもしれない。目の前にいれば理由もなく安心してしまう。大事なところを見落としていても気付かない。

 たとえば、もし。

 世界で自分よりも大切だと信じている人が、目の届かないところで、死にかけているとしても。

 そのことをリアルタイムで知ることがなかったら、きっと自分は笑っているだろう。たとえば友達と一緒にいて。きっと自分は眠気を噛み殺しながら仕事をしているだろう。たとえば会社にいて。

 なにも知らないまま、第六感として不意に涙をこぼしたりすることはないだろうと思われる。

 淋しいけれど。

 切ないけれど。

「今日の、あなたの」

「……うん?」

「指先ばっかり見てた、人が」

 指先。

 会社の女の子だ。最近入ったばかりのアルバイトの子で、大学を卒業したばかりの。顔は普通の、そう美人という感じではないけれど、爪が、指が、綺麗だった。指先が。丁寧で、やたらと女っぽく動いた。しなやかに。あの指で頬なんかを撫でながらキスをしたりしたら、可愛がられている猫にでもなったような気分になれるんだろうと、そんなことをなんとなしに考えた。

 指先。

 確かに。

 指先ばかりを、見ていた。

 指先にしか興味はなかった、ただ、そこだけが彼をひどく惹き付けた。

「……綺麗に揃った爪を、してたわね」

「……そう?」

「だから、見てたんじゃないの?」

「……どうだろう」

「そうでしょう?」

「確かに、」

 綺麗な指先だとは、思ったけれど。

 でも、それだけだ。

 それだけ。

 互いの眼球から得られる情報は映像だけで、そこに感情は含まれない。だからいろいろと想像してしまう。

 だけどさ、と彼は思う。

 彼女の微笑みに苛立ちが隠されている。静かに笑った口元なのに、淋しさがにじんでいる。

 だけど、他の男と君は寝るくせに。俺が見ている他の女の指先は許せないのか。

 許すとはどういうことなんだろう。

 傲慢な感情。

 好きな、だけなのに。

 なにも知らない方が幸せなことはある、それはたくさん。意外と多くのことは知らない方が幸せだったりする。死んだことを聞かされていない友人は、自分の中で永遠に生き続ける。殺人を犯した昔の恩師は、知らなければずっとただただ尊敬できる人として自分の中に残る。

 知らない方がいいこと。

 知って、すべてを許せる気になっているのは不健全なことだ。間違ったことだ、神様ではないのだから。困惑が生まれる。嫉妬も必ずそこに生まれる、その嫉妬すら気持ちいいと感じられるのならそれはただのマゾヒストだ。

 マゾヒストに、なれるのならいっそ。

「……なった方が楽なのかもな」

「……なに?」

「いや、寝ようか」

 眠っているときはふたり、ただの暗い闇に落ちる。夢は見てもそれは眼球が記憶するものではない。記録するものではない。いつか、夢までも共有したいと思う日が来るのだろうか。こんなにも、下りたがっているのに。共有という同じ場所に立つことを、苦痛に思っているのに。


 綺麗な人? と彼女が聞いた。

 ベッドの中で、クーラーを入れたら少し肌寒かったけれどそのままにしておいた。

 指先の持ち主のことだと分かった。彼女が他の男と寝るのは自分を試しているからなのだと分かっていた、彼の愛がどこまで本物なのかを知りたくて試している。自分も傷つきながら。そうでなければ、綺麗な指先の持ち主というだけの顔も映らない女に嫉妬なんかしない。

 傷つけ合うくらいに試さないと、結局のところ愛されている実感なんて分からないのかもしれない。淋しくてくだらなくて愚かしい。愛なんて。だけど。

「……そうでもないよ」

 彼は横で身を寄せてくる彼女の手をそっと握る。

 いつか、いつかもう眼球を交換して記憶、もしくは記録の交換をしたって、愛の証拠にはならないんだと口にしようと思う、彼はいつもいつも眠る前にそう強く思うのだけど、結局言葉となって彼女の耳にそれが届くことはない。

 淋しくて愛しい夜だけが、ふたりの上に横たわる。

 静かに。

 静かに。

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