消えない名前。
「いつか絶対にあんたを殺しにいく」
ナイフを握りしめた拳に涙が跳ねた。
血に塗れた手は滑るばかりで力など入らない。
「そう」
青年はつまらなさそうに一瞥しただけで、踵を返した。
「なら、俺が死なないうちに頼む」
家を出ていくその姿を睨みながら、心に渦巻く黒が溢れ出るのを感じた。
このままあの後ろ姿にナイフを突き立てたらどうだろうか。
そんな考えが頭を過ぎる。
青年が不意に足を止めた。
「止めときなよ。今、むかってきたら」
殺す――――背中越しに言われたのに、皮膚が粟立った。
言いようのない恐怖にナイフを取り落とす。
「じゃあな」
青年はため息にも似た声を残し立ち去る。
足音さえ聞こえなくなって、やっと自失から立ち直る。
震える掌に再び涙が落ちた。
「……てやる」
傍らに転がる死体に目を走らせて、その思いはどす黒さを増す。
父に母、そして弟。
だったはずの今は冷たいもの。
「……してやる」
黒が思考を塗り潰す。
残ったのはたったひとつの言葉だけ。
「……殺してやる」
伝う涙は、もう要らない。
弱くなるなら優しさだって要らない。
ただ、この黒い感情と共に生きようと決めた。
それが壊れないための選択。
それから2年の月日が流れ、
「俺?名前なんてないよ。好きに呼んで」
再会した憎き奴は俺を覚えていなかった。
ギルドの依頼掲示板の前。
路銀が底をつきかけたから寄っただけの場所。
依頼のメモに手を伸ばしたタイミングが同じだった隣の男。
「あ、悪い」
「いえ、別に」
メモから手を引こうとして、唖然とした。
青味がかった黒髪に、左耳のピアスが目に飛び込んだ。
血の飛んだあの顔が目の前のそれとぴったりと重なる。
「これ欲しいなら、やるよ」
俺の視線を違う意味としてくんだらしく、男はメモをこちらによこす。
喉が渇いて、上手く声が出ない。
心臓の音が煩いくらいに叫ぶ。
奴だ。
やっと、やっと見つけた。
俺から何もかもを奪った非道な殺人鬼。
「いらないなら俺が貰うけど」
不審気にひそめられた眉に、内心慌てる。
冷静になれ、奴は俺を覚えていないらしい。
一度だけ唾を飲み込み、喉を湿らす。
「この依頼、一緒に受けませんか?」
俺は精一杯の笑顔でそう言った。
名前は、と尋ねれば返ってきたのは素っ気ない返事。
「好きに呼べっていきなり言われても」
「なら、お前は?」
戸惑えば逆にそう問われた。
「俺は」
言い淀み、それから瞬間的に冷えた頭のまま口を開いた。
「シュカ」
「ふぅん。シュカ、か」
奴はつまらなそうに目を細めてから、呟いた。
さも、興味なさげに。
反芻された名前に頭の中でぱちん、と気の抜けるほど呆気なく何かが弾けた。
そして冷え冷えとしたものが流れ出して、すべてを根こそぎ奪いさっていった。
「どうした?」
「なんでもありません」
答える声が笑えるほどに渇いていた。
凍てついた殺意だけが濁流の中、奪われず揺らがず存在し続けていた。
依頼は簡単なものだった。
近頃、森の屋敷を縄張りにし始めた盗賊5人の退治。
もちろん生死は問わず。
奴が報酬が半分になるにも関わらず、なんで俺と受けたかはわからなかった。
屋敷に向かう途中、奴は早足で歩いて行くばかりで会話はなかった。
俺はその背中を追いながら、あの日を思い返していた。
昔はあの背中が怖いくらいに大きくて、ナイフなど刺せる気がしなかった。
いまでも時々夢を見る。
奴を目の前にして泣くことしかできなかった自分の過去。
でも、その夢を見ることもないのだ。
今日ですべて報われるのだから。
森は暗く、まるで全ての生物が息絶えてしまったかのように静かにだった。
放ったナイフは吸い込まれるように、目の前の盗賊の左胸に刺さった。
その体が傾いでいくのを視界の隅で確認する。
後方からの足音に更にもう一本を振り返りざまに投擲。
体制が崩れたためにわずかに狙いを右に外し、舌打ちする。
次の相手はわずかに呻いたものの、踏み止まり剣をかまえ向かって来る。
ナイフでの応戦は厳しい。
そう判断し、腰から銃を抜きながらハンマーを押し上げる。
心臓に二発、続けて撃ち込む。
今度の狙いは寸分違わずに、相手を貫いた。
赤黒い血を吐いて、二人目の盗賊も倒れる。
そこでやっと乱れた息に気がつく。
人を殺すのは初めてではない。
一人で旅しているのだから、命のやり取りは多い。
倒れた死体に目をやり、それに血まみれの父をみた気がして、首を振る。
今日は残像がやけ目につく。
「俺は」
多分、間違っている。
弟は虫さえ殺せない優しい奴だった。
復讐なんて望んでないだろう。
ましてや、人殺しなんて人で無しに成り果てるなと泣いて叫ぶだろう。
それでも、俺が生きていくためにはこうするしかないのだと、冷めた思考が笑った。
「シュカ。俺は終わった」
向こうから歩いて来る男を殺して生きる。
俺はそのためだけにこの2年生きながらえたのだから。
沢山の屍を築いてまで。
「本当は」
俺の言葉に10歩手前で奴は足を止めた。
「俺、シュカって名前じゃないんですよ」
泣き笑いに似た表情で俺は引き金を引いた。
轟音。
白煙。
反動で跳ね上がる腕。
弾は奴の頬を少しかすり、後ろにゆらりと立った瀕死の盗賊に命中した。
背後で倒れた盗賊に目も向けず、奴はただ光りのない目で俺を見る。
薄く破けた頬から血が涙のように頬を伝い落ちていく。
無表情の瞳と涙のような血に、俺は前触れなく笑い出したくなった。
そうか。
奴は俺が殺意を持っているのを知らないんじゃない。
どうでもいいのだ。
あの目はすべてを諦めているだけなのか。
つまらなそうな声音は、自分の生き死さえどうでもいいから。
俺は銃を奴に構えて、言ってやった。
「シュカはあんたの名前ですよ」
「俺には名前なんてない」
奴は標準を当てられても、微動だにしなかった。
銃を抜くそぶりも見せない。
それは俺が思い描いた復讐とは掛け離れていた。
奴は恐れも命ごいもしない。
違う。
全然違う。
俺が望んだのはこんなものじゃない。
「銃を抜けよ」
「どうして」
「いま、俺はあんたを殺そうとしてるんだぜ?抵抗ぐらいしろよ」
「どうして俺を殺すわけ」
鬱陶しげに投げ掛けられた問い。
あと少しで引き金を引くところだった。
「あんたはシュカ。俺の家族を殺した男だからだよ」
いまの一言で爆発しそうになった憎悪を、声を押し殺して堪える。
そこで初めてシュカの表情が変わった。
目を見開いたシュカを見て、黒い笑みが浮かぶのを自覚する。
シュカは呆然と呟いた。
「お前、まさかハイドなのか……?」
「そうだよ。お前の義弟のな」
息を吸うのさえ苦しいぐらいに胸が痛いのに、笑い出したく衝動が止まらない。
俺の両親は早くに他界した。
そんな俺を引き取ったのがシュカの家族だった。
父さんも母さんも弟も、みんな優しかった温かかった。
そして俺はシュカを本当の兄のように慕っていた。
あの日あの時、シュカが自分の家族を殺すまでは。
「なんで殺したんだとかは、もう聞いたりしない。いまさらそんなことどうでもいい。ただ、俺はあんたに復讐するためだけにあの日から生きてきたんだ」
キッとそう睨めば、シュカは疲れたように息を吐いた。
それは昔のシュカの癖。
「なら、お前は約束を守ったわけか」
「あぁ。あんたが死ぬ前に俺は来た」
「なら、ただで殺されるわけにはいかないか。俺のためにも、お前のためにも」
シュカは静かに銃を抜いた。
黒く光るその銃はあの日、家族を惨殺したものと記憶に違わない。
シュカは数秒、銃を見つめてから、再度俺に視線を戻した。
そして、確認の言葉。
「いいのか」
「あぁ」
俺は頷いた。
銃を持つ手に力を込める。
命の奪い合いの了承。
なんて狂ったやり取りをしているんだろうか、今更に思う。
二人で視線を交わし合い、沈黙が満ちた。
これで終わるんだと心が安堵を吐き出す。
長かったこの時を待ち侘びてた。
永遠のような一瞬の時。
先に動いたのはシュカだった。
そして、俺は銃を手放して、両手を広げた。
見開かれるシュカの瞳。
銃声は一つきり。
胸をつく衝撃に息が止まる。
熱が喉を駆け登り、吐き出した血は床を赤く染めた。
痛みに耐え切れず膝をつく。
無意識に手を当てた傷口からは鮮血が溢れ出していく。
「どう、してだ」
掠れた声に顔を上げれば、俺を凝視する青白いシュカの顔。
そこに幼い日の面影を見つけて笑おうとしたら失敗して咳込む。
「俺はあんたを憎んでるし、殺したいし、でも、あんたを殺したら俺はもう生きてはいけないから」
だから、だよ――――平行感覚がなくなり横向きに床に倒れ込む。
燃えるように熱かった傷口はしだいに痛みが曖昧になっていく。
寒いなと思う。
ここは寒すぎる。
早く家に帰りたい。
温かいあの家に。
いや、あの家は燃やしてしまったんだっけ。
じゃあ、どこにいこうか、帰ろうか。
あぁ、そっか。
死ぬのか俺。
「本当の家族じゃなくても、人殺しでも、死んだらみんなと同じところに帰れるかなぁ」
もう定まらない焦点で天井を見上げる。
シュカの顔ももうよくわからない。
この二年間が走馬灯のように駆けていく。
殺した人の顔、血に濡れた手、心が真綿で締められていくような緩慢に近づく死。
思考はまとまらずに流れていく。
涙が、零れた。
殺されて、憎んで、殺して、殺されて。
そして、死んで。
「どうして……っ」
シュカが短く叫んだ。
何がどうしてなんだよ。
疲れてきた。
なんだか眠い。
上から降る雫が頬を濡らした。
なんだシュカも泣いてるのか。
それこそどうして。
瞼が重い。
頭が甘く痺れていく。
あれ、いま俺息してないや。
「お前が俺を殺してくれるんじゃないのか。俺を憎んでるんだろ。なら、どうして俺を殺さない。どうしてお前が死ぬ?」
「許さない、から」
朦朧とする頭で言葉を絞り出す。
ああ、もうだめだ。
眠くて疲れて。
あの日、俺だけが生き残って、それはまるで家族じゃないと烙印をおされたようで。
だから、憎んだ。
俺はあの人たちと家族なんだ。だから。
「俺は、あんたを、」
さよなら。
不意に頭に響いた声は俺の意識を優しく沈めていった。
俺が、あんたを、兄さんを本当に殺せるはずないじゃないか。
ある晴れた日の昼下がり。
二人の少年が森を駆けていく。
「待ってよ、シュカ」
「なんだ、ハイド。追い掛けてきたのか」
呆れ口にしつつも、笑ってシュカが振り返る。
俺の自慢の兄さん。
「俺は弟なんだから、兄さんにはついて行かなきゃいけないんだ」
「なんだ、それ」
胸を張って答えれば、大笑いされた。
そうしてまた、シュカが走り出し俺は一生懸命その背中を追い掛けていく。
二人の少年の笑い声が森を駆けていく。
ある晴れた日の昼下がり。
もう遠い遠い昔のこと。
友人からのリクエスト。
誰かを憎んで死んでいく少年。