没落令嬢、宿を失い枯れ井戸の離れへ。五十人分の水を呼んだら家主様に求婚されました
「痛っ」
欠けた茶碗の縁が唇に刺さった。
ヌリアは最後の一口を飲み干し、茶碗を裏返した。一滴も落ちない。大変潔い。彼女の財布と同じである。
「井戸が空なのは仕方ありません。空の井戸まで家賃に含まれるのかは、少々話が違います」
離れ屋の戸口に立つ男は、ヌリアではなく井戸を見た。
「空だ」
「ええ、見れば分かります。家主様、いまのは説明ではなく自白です」
グンナルは若い当主だというのに、荒れた屋敷と同じくらい愛想がなかった。余分な言葉を売れば暮らし向きがよくなるのでは、とヌリアは思う。たぶん一語につき銅貨一枚で大儲けだ。
それでも宿を追い出されたその日に、荷一つで借りられる離れ屋を用意してくれたのは彼だった。
契約は三十日。
増やさなければ、失わずに済む。荷物も、期待も。
ヌリアは井戸の滑車に縄を掛けた。荷紐のほつれが指へ引っかかり、端を歯で噛んで締め直す。それから桶を下ろし、底へ二度ぶつけ、引き上げた。
桶の底で泥が半匙ほど揺れていた。
「水ではありませんね」
「泥だ」
「家主様の言葉、一語につき家賃を一日引く制度にしませんか」
「しない」
「いま二日分です」
グンナルは桶を取り、泥を捨てた。掌に古い裂傷があり、袖口には乾いた土がこびりついている。屋敷だけでなく、この井戸も一人でどうにかしようとしたらしい。
ヌリアが顔を上げると、彼は視線を外した。
「共同井戸へ行く」
「そちらは水が出るんですか」
「出ない」
「三日分です」
* * *
「四十!」
ロシオの号令で、最後に柄を押していた者たちが手を離した。
新しい革弁を入れた。筒も締めた。大人が交代で四十回押した。最後の一押しにいたっては石工のエイナルが全体重を掛けた。
吐出口は乾いたままだった。
ロシオがその鉄口を、平手で二度叩く。
「水を出しな。働けない亭主なら追い出せるけど、井戸は重くてね」
「分解するなら手伝う」
エイナルが言った。
「家主様より会話が長いですね」
「聞こえている」
「四日分です」
共同厨房には、洗えない鍋が重なっていた。子どもの膝の擦り傷には泥が残り、洗濯物は固く絞った布で表面を拭いただけ。湯を沸かす以前に、飲む水がない。
四十世帯、利用者は五十人。
「明日も出なければ、南へ移る家が十二。明後日はもっとだよ」
ロシオが指を折る。
「人がいなくなれば厨房は閉じる。屋敷の仕事もなくなる。そうなれば、家主様もこの見事に空っぽな屋敷をお一人で守れますね」
ヌリアはグンナルを見る。
彼はロシオを見ず、子どもの汚れた膝を見ていた。眉間の線が昨日より一本深い。寝ていない顔だ。実に高く売れそうな不機嫌だが、買い手はいない。
「古井戸はありますか」
「ある。十八尋。枯れて十年だよ」
「底石が残っていれば、水の精を呼べます」
五十人の顔が、一斉にヌリアへ向いた。
いや、そんなに見られても水は出ない。出るのは冷や汗だけだ。
「奇跡ではありません。五段すべて必要です。第一段『井戸さらい』。泥を除き、底石を出す。第二段『名布煮沸』。清めた布を乾かす。第三段『重石集め』。同じ大きさの丸石を二百個。第四段『世帯名縫い』。四十世帯の名を一枚ずつ縫う。第五段『三十日の水約束』。召喚者がこの土地の住民として三十日分の責任を負います」
「責任って?」
「全世帯の名を明かすこと。利用者ごとに別の器を置くこと。水を売らないこと。よそへ転売すれば、その世帯の分から枯れます。名を縫い間違えれば、利用権も間違えた名へ固定されます」
ロシオの顔から冗談が消えた。
「やり直しは」
「布を作るところからです。井戸の底へ沈めたあとでは直せません。それと、召喚者の住居契約が残り三十日なければ、水の精は約束を受けません」
全員の視線がグンナルへ移る。
彼はヌリアを見た。
「やれ」
「先に条件を聞いてください。桶六個、縄二本、滑車一基、大鍋二個、灰石鹸二塊、白布四十枚、それとは別に召喚者兼見本用の白布一枚、青糸四巻。人手も必要です」
「出す」
「失敗すれば全部無駄です」
「構わない」
「私は三十日で出ていく契約です」
「知っている」
そこで一拍、彼の目がヌリアの荷物へ動いた。戸口に置けばいつでも持ち出せる、あの小さな荷一つへ。
「家賃は」
「免除する」
ヌリアは指先で計算した。三十日分の屋根。桶と縄と石鹸。飲み水が戻れば、針仕事も続けられる。
「家賃免除なら釣り合います」
「決まりだね!」
ロシオが手を打った。
「いや、待ってください。いまのは私の損得勘定であって、五十人の命を背負う美しい決意では」
「エイナル、滑車!」
「一基」
「アイノア、鍋!」
「二個。火はもう起こすよ」
「待ってください、皆さん決断が速い!」
「水よりあんたの言い訳のほうが遅いんだよ!」
* * *
第一段「井戸さらい」は、翌朝から始まった。
古井戸の縁へ滑車を据え、縄二本を渡す。桶は六個。三個を下ろし、三個を上げる。空の桶が落ち、泥を噛んだ桶が傾きながら昇る。
「右、半歩」
エイナルが縄を手の甲で弾いた。張りを確かめ、短く言う。
「引け」
四人が腰を落とす。桶が井戸壁へ当たる寸前、ヌリアが横縄を引いた。黒い泥が縁を越え、地面へ落ちる。
一層目は柔らかかった。二層目には腐った枝が混じった。三層目は粘り、桶が底へ吸いついた。力任せに引けば縄が切れる。
ヌリアは六か所ある接合部を順に確かめた。輪へ端を通し、折り返し、もう一度くぐらせる。二重止め結び。最後は歯で噛み、繊維が軋むまで締める。
「そこまで必要か」
グンナルがすぐ横で言った。
「十八尋下へ落ちてから質問してください。答えが届けばですが」
「届かない」
「理解が早い。家主様、本日は一日分戻してもいいです」
「戻さなくていい」
なぜかエイナルが鼻で笑った。
正午前、六個目の桶が薄い砂利を連れて上がった。
エイナルが縄を止め、井戸を覗く。
「底石」
光を落とすと、泥の下から平たい石の輪が見えた。
アイノアが、火に掛けていた大鍋を即座に外した。
「まだ泥が残ってる。布は入れないよ」
「正解です。泥を除く前に煮た布を下ろせば、汚れを吸って名を受けません」
「あと桶二杯」
エイナルが言う。
「二杯!」
住民が復唱した。
底石の溝から黒泥が消えるまで、アイノアは鍋を火へ戻さなかった。
第二段「名布煮沸」。
大鍋二個へ水を分け、灰石鹸を一塊ずつ削る。残っていた貴重な水だ。四十枚の白布を十枚ずつ畳み、端から沈める。浮いた角を木杓子で押し、上下を返す。
「一の鍋、出すよ。二の鍋、あと半刻!」
アイノアの命令で手が動く。絞る者、運ぶ者、縄へ掛ける者。ヌリアが二巡目を確かめようとすると、アイノアに杓子で追い払われた。
「同じことを二度見る暇があるなら食べな!」
押しつけられたのは、硬いパンだった。
美味しい。いま世の中でいちばん信頼できるものは工程表で、二番目は食べられるパンだ。恋や名誉は腹の足しにならないので選外。
午後三時ちょうど、アイノアは四十枚を縄から回収した。端を指で挟み、一枚ずつ光へ透かす。
「乾いた。次!」
* * *
第三段「重石集め」は、乾いた布一枚を地面へ広げるところから始まった。
「この幅から出ない丸石です。角のあるもの、平たすぎるものは除外。一人二十個。十人で?」
「二百個!」
子ども十人が叫び、川原へ散った。
持ち帰った石を布の上へ載せる。大きすぎれば端から出る。小さすぎれば名布を底石まで運べない。
「ひとつ、ふたつ、みっつ——」
十人が自分の山を数える声で、川原はひどく騒がしくなった。十九まで来て頭を抱える子、二十一個拾って一個を隣へ売ろうとする子。それは転売禁止の予行演習として没収した。
日が井戸壁の半分まで落ちたころ、石を五個ずつ並べる。
三十八組。三十九組。
「百九十六、百九十七、百九十八、百九十九」
声が止まった。
子ども十人が口を閉じると、川の音は意外に大きい。
「自分の袋をもう一度」
ヌリアは空袋を逆さにさせた。出ない。靴の中まで調べようとしたところで、一人が岸辺へ腕を伸ばした。
全員の指が、同じ一点を差す。
エイナルの踵の下だった。
「どいて!」
十人分の声を浴び、エイナルが片足を上げる。布幅ぴったりの丸石があった。
「二百!」
最後の一個が置かれ、五個一組、四十組が揃った。
エイナルは丸石の列を見下ろし、うなずいた。
「偏りなし」
日没までに、石は四十枚の布へ包まれた。布端を寄せて仮留めする。どれも同じ重さ、同じ沈み方。ここで一組だけ欲張れば、底で名の輪が崩れる。
第四段「世帯名縫い」は、それからだった。
青糸四巻。針は一本。時間は午後十時まで。
ロシオが台帳を持ち、最初の名を読む。
世帯主が復唱する。
ヌリアがもう一度読み、間違いがないのを確かめてから布へ針を入れる。
青い糸が白布を抜ける。名の一画ごとに石の丸みで針先が止まり、指を差し入れて拾う。糸を引く。布が締まる。次の一針。
「二番目」
ロシオが読む。
「復唱」
世帯主が答える。
「合っています。針を入れます」
四枚目で中指に針が刺さった。十一枚目で肩が固まった。二十三枚目、灯りの油を足す。三十二枚目、グンナルが無言でヌリアの椅子を替えた。座面の縄が緩んでいたらしい。
「ありがとうございます」
「続けろ」
「親切を命令形で台無しにする才能がありますね」
彼は答えず、井戸縁へ器を運んだ。
名が確定した順に一つずつ。四十世帯の水差しや鉢や壺が四十個。共同厨房の大鍋が一個。残る十人を数える九個の杯を置き、鍋を一人分として合わせて五十個。
グンナルは器と器の間へ指二本分の隙間を取った。縁を一周し、順番を台帳と照らす。
「三十七番と三十八番、逆です」
ヌリアが言うと、彼は足を止めた。
「名順ではないのか」
「名順です。ですから逆です」
「お前は縫っていた」
「家主様が三十八番を置くとき、三十七番の取っ手へ袖を引っかけました。二つとも半歩ずれています」
グンナルは二つの器を見、それからヌリアの目を見た。
「見すぎだ」
「間違えれば水が出ません。家主様はもう少し見られている自覚を持ってください」
周囲で何人かが妙な顔をした。
何だ。作業中である。手を止めた者は家賃を取るぞ。
「四十番」
ロシオが読み上げた。
世帯主が復唱し、ヌリアが最後の名を縫い終える。
午後九時五十六分。
四十枚を名順に並べた横へ、寸法見本にしていた一枚が残った。最初に煮沸し、乾かしておいた白布だ。
「召喚者の名だね」
ロシオが青糸を差し出した。
ヌリアは受け取らなかった。
「私は間借り人です。三十日後には」
「だから三十日の水約束なんだろう」
「名を沈めれば、利用者として残ります」
「残らなきゃ水が呼べない」
分かっている。恐ろしく筋が通っている。筋が通りすぎて逃げ道がない。
ヌリアは荷一つで去れることを、ずっと安全だと思ってきた。けれど今日、その荷には入らないものを数えすぎた。泥を上げた六個の桶。四十枚の布。二百個の石。五十個の器。それから、縄の緩みより先に彼女の椅子の緩みを見つけた、無口な男。
青糸を取る。
「読み上げます。ヌリア」
ロシオが言った。
「ヌリア」
五十人が復唱した。
白布へ、彼女は最初の針を入れた。
四十一枚目だった。
午後十一時五十分、第五段「三十日の水約束」が始まった。
四十枚の名布を五枚ずつ束ね、二本の縄の四か所ずつへ結ぶ。井戸縁の五十個の器には触れない。中央だけを空け、二本の縄を滑らせて八束を底石の輪へ下ろす。
グンナルは貸家台帳を井戸端の机へ置いた。
「離れ屋の契約を今日から三十日更新し、その家賃を免除する」
日付を書き、署名する。ペン先が紙を引っかいた。処罰でも借金でもないのに、書類というものはどうしてこう逃げ道を塞ぐ顔をしているのだろう。
「確認しました。召喚者ヌリアは、三十日間この土地に住み、利用境界を守ります」
ヌリアも署名する。
午前零時まで、あと三分。
彼女は自分の名布を両手で持ち、中央へ進んだ。
「縄を」
グンナルが井戸の反対側から手を伸ばす。
その足元で、石板が割れた。
音より先に彼の肩が落ちた。片膝が縁を越え、右手が縄を掴む。身体が井戸壁へぶつかり、古い石が崩れた。
五十個の器が揺れる。
誰かが動けば輪が壊れる。
「動かないで!」
ヌリアは腹ばいになり、グンナルの右手首を掴んだ。
掌の古傷が開いている。血で滑る。下には十八尋。
「右手を離さないで。エイナル、四人つけて。結び目は私が締めます——驚くなら、引き上げてからにしてください」
「縄一本、右へ!」
エイナルが叫ぶ。
住民四人が並び、腰へ縄を回す。だが接合部の一つが石角に擦れ、輪が半分まで開いていた。
ヌリアは左手で端を取り、歯へ運ぶ。
噛む。引く。折り返す。もう一度くぐらせる。
二重止め結び。
歯の根が痛むほど締め、掌で叩く。
「一、二、引いて!」
「一、二!」
五人の踵が同時に下がる。
グンナルの肩が井戸縁へ上がった。器の輪には触れさせない。ヌリアは彼の右手を掴んだまま後退する。
「もう一度。一、二、引いて!」
「一、二!」
胸、腰、脚。
最後の靴が縁を越えた。
エイナルが縄を手の甲で弾いた。張りは残っている。彼はヌリアの結び目を見て、一度だけ高く口笛を吹いた。
「午前零時!」
アイノアの声が飛ぶ。
グンナルは石床へ片膝をついたまま、ヌリアの名布を拾った。血のついていない左手で渡す。
「やれ」
息は荒い。顔色も悪い。それでも言葉は一語。こういうときくらい五語ほど使えばいいのに!
ヌリアは名布へ五個の丸石を包み、口を結ぶ。
「召喚者ヌリア。四十一番目の名を、三十日の住民として預けます」
縄を滑らせた。
白布が暗い井戸へ消える。底へ触れた小さな音がした。
続いて、四十枚の名布が石の輪へ沈む。
五十人が器へ手を添えた。
「名を売らない」
ロシオが唱える。
「名を売らない」
全員が復唱する。
「水を移して売らない」
「水を移して売らない」
「三十日の境界を守る」
「三十日の境界を守る」
底石の隙間で、何かが鳴った。
最初は息を吐くような泡だった。
次に、四十一枚の布がふわりと持ち上がった。
石の間から透明な筋が走る。一筋が二筋になり、底を覆い、泥の跡を洗う。水位が名布を越え、縄の先を揺らしながら上がってくる。
井戸縁の五十個の器へ、同時に水滴がついた。
誰も声を出さなかった。
ヌリアは掴んだままだったグンナルの右手を見た。傷口を水で洗える。今夜から、それができる。
やった。家賃三十日分どころではない。これはもう、百二十日分くらい働いたのでは?
「家主様」
「何だ」
「契約更新時には、実績加算をお願いします」
「却下する」
「どうして!」
* * *
翌朝、共同厨房には五十杯の白湯が並んだ。
大鍋では塩味の汁物が湯気を立て、子どもたちは順番に顔を洗い、泥の残っていた膝へ清潔な布を巻かれた。大人たちは湯浴みの桶を運び、洗濯物から濁った水を絞る。夜通し干された寝具は乾き、久しぶりに身体を洗って眠った者たちの顔から、尖っていた線が消えていた。
ヌリアは離れ屋の卓上へ、別々の杯を二つ置いた。
一つは自分用。もう一つは、右手へ新しい包帯を巻いた家主用。
グンナルはその二つを見てから、何も言わずに座った。
彼は、言わなかったことが多すぎた。
ヌリアが三十日で去ると聞いた日から、離れ屋の壊れた箇所を一つずつ見つけては修繕日を先へ延ばした。窓枠で二日。屋根で三日。扉の蝶番で五日。契約更新の理由にするつもりだった。
井戸が空なら家賃を引けと言われたときは、期限を延ばす口実が一つ増えたと思った。
ヌリアがエイナルへ「家主様より会話が長いですね」と言ったときも腹が立った。
結び目を見たエイナルが口笛を吹けば、もっと腹が立った。
そのたび黙った。もともと口数が少ないので、誰にも区別がつかなかった。便利で、まるで役に立たない隠し方だった。
「家主様、白湯が冷めます」
「ヌリア」
「はい」
「外へ来い」
「白湯を飲んでからでは」
「今だ」
「五日分くらい横暴です」
共同井戸の前には、利用者五十人が集まっていた。
水の確認と、今後の当番を決めるためだ。名を売らない。水を売らない。器の順を変えない。三十日ごとに住居と利用者を確認する。三十日ごとの確認欄は、台帳に残る。
グンナルは五十人の前までヌリアを連れていった。
ロシオが腕を組む。エイナルが縄を手の甲で弾く。アイノアは懐中時計を見ている。子ども十人は、何か数えるものがないか探していた。
「三十日後の契約ですが」
ヌリアが先に切り出した。
「共同利用の古井戸から水を使えるようになりましたし、家賃も元の額へ戻すのが妥当かと。ただし古井戸召喚の労賃を月割りで相殺するなら——」
「出ていくな」
五十人の顔がグンナルへ向いた。
ヌリアは指を止めた。
「更新のお話ですか?」
「違う」
「では、無期限契約」
「違う」
「家主様、三語も使っておいて情報量が増えていません」
グンナルは左手でヌリアの手を取った。包帯を巻いた右手ではない。井戸へ落ちたとき、彼女が掴み続けたほうでもない。
逃げないようにではなく、五十人へ見える高さまで持ち上げる。
「住民では足りない」
彼の声は、井戸端の端まで届いた。
「妻として残れ」
今度こそ、誰も声を出さなかった。
ヌリアの視線が、繋がれた手からグンナルの顔へ上がる。耳まで赤い。眉間には深い線。視線は逃げない。昨夜より寝不足の顔で、五十人の前へ立っている。
彼女の唇が開いた。
グンナルは待った。
「一生分の家賃を先払いするお話ですか?」
「どうしてそうなる」
「妻として住むなら、賃貸契約ではなくなるのでしょう? 居住権の対価を一括で払えという意味かと」
「逆だ」
「私が受け取る側ですか。では召喚労賃に上乗せして——」
「その計算、家主を家財に入れていないよ」
ロシオが訂正を始めた。
「家財?」
「家と井戸と畑だけで一生分を出しただろう。家主本人が抜けてる」
「家主様は資産ですか?」
「そこからなのかい!」
「当主一人なら働き手一人分」
エイナルが言った。
「違うね。夫なら寝台一人分も足しな!」
アイノアが懐中時計をしまう。
「寝具の摩耗費もですか?」
「何を計算してるんだ、あんたは!」
「三十日が一月!」
数えるものを見つけた子どもたちが元気よく参戦した。
「一年で十二月!」
「十年で百二十月!」
「五十年で六百月!」
「家主様が何年もつかで変わります」
「俺を壊れ物にするな」
「井戸へ落ちた実績があります」
「一回だ」
「一回でも落ちれば減価します」
「減価!」
ロシオが腹を抱える。
「じゃあ傷物の家主を引き取る分、ヌリアが割引を受けるんだね」
「なるほど。家賃六百月分から救助費と看護費、召喚労賃を引きまして」
「妻に家賃を取るな」
「では全額免除?」
「そうだ」
「永久に?」
「そうだ」
「食費は」
「俺が出す」
「針と糸代」
「出す」
「離れ屋の修繕費」
「俺が直す」
「家主様の包帯代」
「俺が——それはお前が巻け」
五十人から一斉に声が上がった。
「いまのは家賃じゃない!」
「看護の指名だ!」
「夫一人分を足して!」
「寝台も二人分!」
「白湯の杯はもう二人分だったよ!」
「一生は何日?」
「三十日を何回?」
「六百回!」
「家主様の値段が安すぎませんか?」
「高くしろとは言っていない」
「では五十年として、家賃六百月分、食費、糸代、修繕費、包帯代。それを家主様一人で先払いする代わりに、私がここへ住み続ける」
「妻としてだ」
「その条件ですと、家主様の負担が大きすぎます。私に何の利益を期待しているんです?」
五十人がグンナルを見た。
グンナルもヌリアを見た。
「お前がいる」
ヌリアの口が閉じた。
それから彼女は、もう一度指を折り始めた。耳まで赤くしながら、逃げもせず、手も離さず、ひたすら家賃という安全な数字へ戻ろうとする。
「でしたら、私の居住そのものを現物納付として——」
「まだ家賃にするのかい!」
「家主を家財へ入れな!」
「夫は何人分?」
「一人!」
「寝台は二人分!」
「杯も二つ!」
「包帯は毎日!」
「落ちるのは一回!」
「落ちない」
ばらばらの計算が井戸端を飛び交った。
グンナルの肩が、初めて揺れた。
声まで立てて笑う彼を見て、五十人の計算はさらにひどくなった。
「笑った家主は価値が上がるよ!」
「では割引が消えます!」
「最初から売買ではない」
「一生は長いから七百二十月!」
「どうして十年増えたんですか!」
「家主様が笑ったから!」
「計算のどこが違うんですか」




