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悪役令嬢

婚約破棄されたので元婚約者に《失恋の呪い》をかけましたが、溺愛されてももう遅いです

作者: くるみ
掲載日:2026/08/15

「ネフィラ・フォン・ヴァルデン。君との婚約を破棄する」


王立学園の卒業祝賀会。


百人を超える貴族たちが見守る中、第一王子ローデリクはそう宣言した。

彼の隣には、聖女イネスがいる。

半年前に光魔法へ目覚め、神殿から王宮へ迎えられた少女だ。


「僕はイネスを愛している。君のような、何を考えているのか分からない女とは違う」


会場がざわめいた。

私は何も言えなかった。


十年間。

十年間、私は彼の婚約者だった。


未来の王妃になるため、歴史を学んだ。

外交を学んだ。

三か国語を覚えた。

彼が早朝の乗馬を好むから、毎朝五時に起きた。

彼が青を好むから、青いドレスばかり着た。

甘いものが好きだったけれど、王族の妻には節制が必要だと言われて我慢した。


泣かないようにした。

怒らないようにした。

いつでも微笑んでいられる、完璧な婚約者になろうとした。


それなのに。


「ネフィラ様」


イネスが申し訳なさそうな顔をする。


「どうか、ローデリク様を恨まないでください」


その瞬間だった。


――ピロン。

頭の中で、不思議な音が鳴った。


目の前に半透明の文字が浮かぶ。


【固有スキル《呪詛》を獲得しました】


私は瞬きをした。


【強い憎悪を抱いた相手に、呪いを付与できます】


なるほど。

神様というものが本当にいるのなら、ずいぶん気が利いている。


「もちろんですわ、イネス様」


私は微笑んだ。


「お二人の幸せを、心よりお祈りしております」


嘘である。

できることなら、今すぐ不幸になってほしい。

すると、新しい文字が現れた。


【対象:ローデリク】

【対象の心に存在する負の感情を検出しました】

【付与可能:《失恋》】


私は迷わなかった。


《失恋》。


――ピロン。


【《失恋の呪い》を付与しました】


これでいい。

私を捨てたことを後悔すればいい。

同じように誰かを失って、泣けばいい。



翌朝。


「お嬢様。ローデリク殿下がお見えです」


侍女の言葉に、私は寝台の上で固まった。


「帰して」


「すでに玄関で三十分ほどお待ちです」


仕方なく応接室へ向かう。

そこには、ひどい顔をしたローデリクがいた。

目の下には濃い隈ができている。


「ネフィラ」


「何の御用でしょう」


「眠れなかった」


「治癒師をお呼びになればよろしいのでは?」


「君の夢を見たんだ」


「神官に相談なさってください」


「違う!」


ローデリクが立ち上がる。


「君が知らない男と結婚する夢だった」


「まあ」


私は少しだけ笑った。


「素敵な夢ですこと」


「僕にとっては悪夢だ!」


その瞬間、文字が浮かんだ。


【《失恋》発動中】

【対象の『失うことへの恐怖』を増幅しています】

【恐怖の対象:ネフィラ・フォン・ヴァルデン】


私は目を疑った。


「……どういうこと?」


「ネフィラ?」


どうやら、この文字は私にしか見えていない。

ローデリクが近づいてくる。


「昨夜から、君がいなくなることばかり考えてしまう」


「昨日、自分から捨てましたでしょう」


「分かっている!」


彼が苦しそうに顔を歪めた。


「でも、君が別の男のものになると思うと、息ができないんだ」


私は呆然とした。

想像していた呪いと違う。

失恋させるのではない。

この呪いは、ローデリクの心にすでにあった「失う恐怖」を膨らませている。


「ネフィラ。婚約破棄を取り消したい」


「お断りします」


即答した。

ローデリクの顔が青ざめる。


【《失恋》の効果が強まりました】


「帰ってくださいませ」


「待ってくれ」


「嫌です」


「ネフィラ」


「二度と来ないでください」


彼は、今にも泣きそうな顔をした。


昨日までなら。

その顔を見れば、私はきっと何でも許した。


けれど。

不思議なほど、心は冷えていた。


「あなたが欲しいのは、私ではありません」


私は言った。


「自分のものだった私を、失いたくないだけです」



それでも、ローデリクは毎日のように屋敷へやって来た。


花を持ってきた。

宝石を持ってきた。

ある日は、苺をたっぷり使った焼き菓子を持ってきた。


「好きだっただろう?」


箱を見た瞬間、胸が痛んだ。


「十年前に、一度だけお話ししましたね」


ローデリクは嬉しそうに笑った。


「ああ。覚えていた」


私は顔を上げた。


「では、どうして十年間、一度もくださらなかったのです?」


彼の笑顔が消えた。


「……」


「私が甘いものを好きだったことも、青以外の色を着たかったことも、本当は朝が苦手だったことも」


ローデリクの顔から血の気が引いていく。


「知っていたのでしょう?」


「ネフィラ、それは……」


「知っていたのに、どうでもよかったのですね」


「違う!」


「何が違うのです?」


答えは返ってこなかった。


その夜。

私は《呪詛》の表示を開いた。


【対象:ローデリク】

【《失恋》継続中】

【対象の負の感情が増大しています】

【追加可能:《孤独》】


私は指を伸ばしかけた。


もっと呪えばいい。

私を忘れられないくらい。

眠れなくなるくらい。

私以外の誰かを見ても、何も感じられなくなるくらい。


呪って。

呪って。

呪ってしまえばいい。


そうすれば、彼は一生私を忘れない。

私は、選ばれたことになる。


「……違う」


指を下ろした。


そんなものが欲しかったのだろうか。

私が欲しかったのは、捨ててから泣く男ではない。


捨てる前に、私の顔を見てくれる人だった。



翌日。


私は王立魔術研究所を訪れた。

呪術研究の第一人者である第二王子オルフェンに、《失恋の呪い》を調べてもらうためだ。


「珍しい術だな」


私の魔力を調べたオルフェンは言った。


「やはり、人の心を操る能力なのですか?」


「そこまで万能ではない」


彼は首を振った。


「存在しない感情を生み出すことはできない。もともと相手の中にある負の感情を見つけ、それを増幅するだけだ」


「では、ローデリク様は私を愛していた?」


「そこまでは分からない」


思いがけない答えだった。


「分からないのですか?」


「愛情と、愛情に似た執着は別物だ」


オルフェンは淡々と言った。


「兄上の中には、君を失う恐怖があった。だが、それだけで君を大切にしていた証明にはならない」


私は黙った。


「十年間そばにいた人間を、自分のものだと思っていたのかもしれない。自分を支えてくれる存在を失いたくなかっただけかもしれない」


「それなら、イネス様への気持ちは?」


「それこそ兄上本人にしか分からない」


オルフェンは私を見る。


「魔法で人の心の答えを決めつけるな」


胸の奥に、その言葉が落ちた。


そうだ。

ローデリクが誰を愛していたのか。

私への感情が愛だったのか、甘えだったのか。

そんなことは、もう重要ではない。

確かなことは一つだけ。


私は、幸せではなかった。


「解除できますか?」


「ああ」


「お願いします」


「いいのか?」


「はい」


即答した。


「このままなら、兄上は君に執着し続けるぞ」


「だから、解いてほしいのです」


私は微笑んだ。


「呪わなければ私を選ばない人に、選ばれても意味がありません」


オルフェンはしばらく私を見つめたあと、静かに頷いた。


「分かった」


彼の指先から白い光が広がった。


――ピロン。


【《失恋の呪い》が解除されました】


文字が消えた。



翌日、ローデリクは一人で屋敷を訪れた。

花も、宝石も、菓子も持っていなかった。


「ネフィラ」


「何の御用でしょう」


ローデリクはすぐには答えなかった。

やがて、自分の胸元に手を当てる。


「……昨日までとは、何かが違う」


私は黙って彼を見た。


「君のことを考えると、胸が潰れそうだった。誰にも渡したくなくて、君が僕以外の誰かを見るだけで気が狂いそうだった」


「今は違うのですか?」


「ああ」


ローデリクは静かに頷いた。

少し迷ってから、私は口を開いた。


「私がしたことです」


「……何?」


「あなたに、《失恋の呪い》をかけました」


ローデリクの目が見開かれる。


「婚約を破棄された夜に。あなたも同じように苦しめばいいと思って」


「そうだったのか……」


「昨日、解除しました」


長い沈黙が落ちた。

ローデリクはただ目を伏せた。


「なら、今の気持ちは僕自身のものなんだな」


「今の気持ち?」


「君を失ったことを、後悔している」


初めて、彼が正直にそう言った。


「君を好きだったのかもしれない。君に甘えていただけかもしれない。僕自身、区別できていなかった」


「そうですか」


「でも、一つだけ分かった」


彼は俯いた。


「僕は君を大切にしていなかった」


胸が少し痛んだ。


「君が何を好きなのか知っていた。何を我慢していたのかも知っていた。それなのに、君は僕の婚約者なのだから当然だと思っていた」


私は何も言わなかった。


「イネスといるのは楽しかった。彼女は僕を褒めてくれた。王子ではなく、一人の男として扱ってくれる気がした」


ローデリクは自嘲するように笑う。


「だから、それを愛だと思った」


「イネス様とは?」


「別れた」


「どうしてですか?」


「彼女と話した。僕たちは互いに、相手そのものより、自分を満たしてくれる何かを見ていたらしい」


それなら、少なくとも、誰かだけを悪者にする必要はないのだろう。


「僕は王都を離れる」


「どちらへ?」


「北方領だ。王族としてではなく、一人の行政官として働く」


ローデリクは私を見た。


「やり直してほしいとは言わない」


「……」


「いつか僕がまともな人間になったとしても、そのとき君が隣にいる必要はない」


私は少し驚いた。

そして、笑った。


「ようやく、少しだけお話が通じるようになりましたわね」


「手厳しいな」


「十年分です」


ローデリクも、少しだけ笑った。


「さようなら、ネフィラ」


「ええ。さようなら、ローデリク様」


それが、私たちの最後だった。



半年後。

私は王立魔術研究所で、呪術について研究していた。


あの《呪詛》は今も使える。

けれど、もう使っていない。


「また難しい顔をしているな」


本から顔を上げると、オルフェンが立っていた。


「研究中です」


「昼食の時間だ」


「先にどうぞ」


「君と食べたい」


「なぜです?」


「好きだから」


あまりにも平然と言われて、私はため息をついた。


「オルフェン様は、恥ずかしくありませんの?」


「何が?」


「そういうことを毎日のように口にすることが」


「伝えなければ分からないだろう」


その言葉に、私は少し笑った。


オルフェンは私に高価な宝石を贈らない。

私の服の色を決めない。

朝早く起きろとも言わない。

私が本を読みたいと言えば、隣で自分も本を読む。

私が一人になりたいと言えば、本当に帰る。


そして翌日には、何事もなかったようにまた昼食へ誘いに来る。


「ネフィラ」


「何です?」


「一つ聞いていいか」


「どうぞ」


「俺のことを、呪ってみたいと思うか?」


私は少し考えた。


「いいえ」


「即答だな」


「呪う必要がありませんもの」


「それは、どういう意味だ?」


珍しく、オルフェンが少しだけ緊張した顔をした。

私は本を閉じた。


「呪わなくても、私を見ていてくださるでしょう?」


オルフェンは目を丸くした。

それから、笑った。


「もちろん」


「なら、それで十分です」


彼が手を差し出した。


「昼食に行こう」


私はその手を見た。

昔の私は、誰かに選ばれるために努力し続けた。


嫌われないように。

捨てられないように。

そして捨てられたときには、思った。

私を忘れられなくしてやる。

私以外を見られなくしてやる。


呪って。

呪って。

呪ってしまえばいい、と。


でも。

本当に欲しかったものは、そんなに難しいものではなかったのだ。


嫌なことは嫌だと言えること。

好きなものを好きだと言えること。

そして、そのままの私を見てくれる人がいること。


私はオルフェンの手を取った。


「今日は苺のタルトが食べたいです」


「昨日も食べていなかったか?」


「嫌なら一人で行きます」


「誰も嫌だとは言っていない」


「では、決まりですわね」


「分かった、分かった」


並んで歩き出す。


「ところで、ネフィラ」


「何です?」


「俺はいつまで待てばいい?」


「何をです?」


「返事」


私はわざと首を傾げた。


「何の?」


「三日前に求婚しただろう」


「ああ」


「忘れていたのか?」


「考え中です」


オルフェンが露骨に肩を落とした。

私は笑いをこらえながら、その腕にそっと自分の腕を絡めた。


「でも」


「でも?」


「苺のタルトを買ってくださったら、少しだけ前向きに考えます」


「買う。店ごと買う」


「そういうところは減点です」


「難しいな」


「一生かけて覚えてくださいませ」


オルフェンが足を止めた。

私も止まる。


「それは」


彼が確かめるように言った。


「一生、君の隣にいていいという意味か?」


私は答えず、先に歩き出した。


「早くなさらないと、タルトが売り切れますわよ」


数秒遅れて、彼が追いかけてくる。


その日の夕方。

私はオルフェンの求婚を受けた。


魔法は使わなかった。

彼の本心を覗くこともしなかった。

必要なかった。



一年後、私たちは結婚した。

私は今も、苺の菓子が好きだ。

朝は苦手だ。

青以外のドレスも着る。

夫と喧嘩することもある。

腹が立てば、腹が立ったと言う。

悲しければ、泣く。

それでもオルフェンは隣にいる。


だからもう、誰かを呪う必要はない。


愛とは、縛りつけることではなかった。

忘れられなくすることでもなかった。

呪って、呪って、ようやく私は知ったのだ。


離れる自由があるのに、それでも隣にいること。


きっと、それを愛と呼ぶのだ。

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