婚約破棄されたので元婚約者に《失恋の呪い》をかけましたが、溺愛されてももう遅いです
「ネフィラ・フォン・ヴァルデン。君との婚約を破棄する」
王立学園の卒業祝賀会。
百人を超える貴族たちが見守る中、第一王子ローデリクはそう宣言した。
彼の隣には、聖女イネスがいる。
半年前に光魔法へ目覚め、神殿から王宮へ迎えられた少女だ。
「僕はイネスを愛している。君のような、何を考えているのか分からない女とは違う」
会場がざわめいた。
私は何も言えなかった。
十年間。
十年間、私は彼の婚約者だった。
未来の王妃になるため、歴史を学んだ。
外交を学んだ。
三か国語を覚えた。
彼が早朝の乗馬を好むから、毎朝五時に起きた。
彼が青を好むから、青いドレスばかり着た。
甘いものが好きだったけれど、王族の妻には節制が必要だと言われて我慢した。
泣かないようにした。
怒らないようにした。
いつでも微笑んでいられる、完璧な婚約者になろうとした。
それなのに。
「ネフィラ様」
イネスが申し訳なさそうな顔をする。
「どうか、ローデリク様を恨まないでください」
その瞬間だった。
――ピロン。
頭の中で、不思議な音が鳴った。
目の前に半透明の文字が浮かぶ。
【固有スキル《呪詛》を獲得しました】
私は瞬きをした。
【強い憎悪を抱いた相手に、呪いを付与できます】
なるほど。
神様というものが本当にいるのなら、ずいぶん気が利いている。
「もちろんですわ、イネス様」
私は微笑んだ。
「お二人の幸せを、心よりお祈りしております」
嘘である。
できることなら、今すぐ不幸になってほしい。
すると、新しい文字が現れた。
【対象:ローデリク】
【対象の心に存在する負の感情を検出しました】
【付与可能:《失恋》】
私は迷わなかった。
《失恋》。
――ピロン。
【《失恋の呪い》を付与しました】
これでいい。
私を捨てたことを後悔すればいい。
同じように誰かを失って、泣けばいい。
◇
翌朝。
「お嬢様。ローデリク殿下がお見えです」
侍女の言葉に、私は寝台の上で固まった。
「帰して」
「すでに玄関で三十分ほどお待ちです」
仕方なく応接室へ向かう。
そこには、ひどい顔をしたローデリクがいた。
目の下には濃い隈ができている。
「ネフィラ」
「何の御用でしょう」
「眠れなかった」
「治癒師をお呼びになればよろしいのでは?」
「君の夢を見たんだ」
「神官に相談なさってください」
「違う!」
ローデリクが立ち上がる。
「君が知らない男と結婚する夢だった」
「まあ」
私は少しだけ笑った。
「素敵な夢ですこと」
「僕にとっては悪夢だ!」
その瞬間、文字が浮かんだ。
【《失恋》発動中】
【対象の『失うことへの恐怖』を増幅しています】
【恐怖の対象:ネフィラ・フォン・ヴァルデン】
私は目を疑った。
「……どういうこと?」
「ネフィラ?」
どうやら、この文字は私にしか見えていない。
ローデリクが近づいてくる。
「昨夜から、君がいなくなることばかり考えてしまう」
「昨日、自分から捨てましたでしょう」
「分かっている!」
彼が苦しそうに顔を歪めた。
「でも、君が別の男のものになると思うと、息ができないんだ」
私は呆然とした。
想像していた呪いと違う。
失恋させるのではない。
この呪いは、ローデリクの心にすでにあった「失う恐怖」を膨らませている。
「ネフィラ。婚約破棄を取り消したい」
「お断りします」
即答した。
ローデリクの顔が青ざめる。
【《失恋》の効果が強まりました】
「帰ってくださいませ」
「待ってくれ」
「嫌です」
「ネフィラ」
「二度と来ないでください」
彼は、今にも泣きそうな顔をした。
昨日までなら。
その顔を見れば、私はきっと何でも許した。
けれど。
不思議なほど、心は冷えていた。
「あなたが欲しいのは、私ではありません」
私は言った。
「自分のものだった私を、失いたくないだけです」
◇
それでも、ローデリクは毎日のように屋敷へやって来た。
花を持ってきた。
宝石を持ってきた。
ある日は、苺をたっぷり使った焼き菓子を持ってきた。
「好きだっただろう?」
箱を見た瞬間、胸が痛んだ。
「十年前に、一度だけお話ししましたね」
ローデリクは嬉しそうに笑った。
「ああ。覚えていた」
私は顔を上げた。
「では、どうして十年間、一度もくださらなかったのです?」
彼の笑顔が消えた。
「……」
「私が甘いものを好きだったことも、青以外の色を着たかったことも、本当は朝が苦手だったことも」
ローデリクの顔から血の気が引いていく。
「知っていたのでしょう?」
「ネフィラ、それは……」
「知っていたのに、どうでもよかったのですね」
「違う!」
「何が違うのです?」
答えは返ってこなかった。
その夜。
私は《呪詛》の表示を開いた。
【対象:ローデリク】
【《失恋》継続中】
【対象の負の感情が増大しています】
【追加可能:《孤独》】
私は指を伸ばしかけた。
もっと呪えばいい。
私を忘れられないくらい。
眠れなくなるくらい。
私以外の誰かを見ても、何も感じられなくなるくらい。
呪って。
呪って。
呪ってしまえばいい。
そうすれば、彼は一生私を忘れない。
私は、選ばれたことになる。
「……違う」
指を下ろした。
そんなものが欲しかったのだろうか。
私が欲しかったのは、捨ててから泣く男ではない。
捨てる前に、私の顔を見てくれる人だった。
◇
翌日。
私は王立魔術研究所を訪れた。
呪術研究の第一人者である第二王子オルフェンに、《失恋の呪い》を調べてもらうためだ。
「珍しい術だな」
私の魔力を調べたオルフェンは言った。
「やはり、人の心を操る能力なのですか?」
「そこまで万能ではない」
彼は首を振った。
「存在しない感情を生み出すことはできない。もともと相手の中にある負の感情を見つけ、それを増幅するだけだ」
「では、ローデリク様は私を愛していた?」
「そこまでは分からない」
思いがけない答えだった。
「分からないのですか?」
「愛情と、愛情に似た執着は別物だ」
オルフェンは淡々と言った。
「兄上の中には、君を失う恐怖があった。だが、それだけで君を大切にしていた証明にはならない」
私は黙った。
「十年間そばにいた人間を、自分のものだと思っていたのかもしれない。自分を支えてくれる存在を失いたくなかっただけかもしれない」
「それなら、イネス様への気持ちは?」
「それこそ兄上本人にしか分からない」
オルフェンは私を見る。
「魔法で人の心の答えを決めつけるな」
胸の奥に、その言葉が落ちた。
そうだ。
ローデリクが誰を愛していたのか。
私への感情が愛だったのか、甘えだったのか。
そんなことは、もう重要ではない。
確かなことは一つだけ。
私は、幸せではなかった。
「解除できますか?」
「ああ」
「お願いします」
「いいのか?」
「はい」
即答した。
「このままなら、兄上は君に執着し続けるぞ」
「だから、解いてほしいのです」
私は微笑んだ。
「呪わなければ私を選ばない人に、選ばれても意味がありません」
オルフェンはしばらく私を見つめたあと、静かに頷いた。
「分かった」
彼の指先から白い光が広がった。
――ピロン。
【《失恋の呪い》が解除されました】
文字が消えた。
◇
翌日、ローデリクは一人で屋敷を訪れた。
花も、宝石も、菓子も持っていなかった。
「ネフィラ」
「何の御用でしょう」
ローデリクはすぐには答えなかった。
やがて、自分の胸元に手を当てる。
「……昨日までとは、何かが違う」
私は黙って彼を見た。
「君のことを考えると、胸が潰れそうだった。誰にも渡したくなくて、君が僕以外の誰かを見るだけで気が狂いそうだった」
「今は違うのですか?」
「ああ」
ローデリクは静かに頷いた。
少し迷ってから、私は口を開いた。
「私がしたことです」
「……何?」
「あなたに、《失恋の呪い》をかけました」
ローデリクの目が見開かれる。
「婚約を破棄された夜に。あなたも同じように苦しめばいいと思って」
「そうだったのか……」
「昨日、解除しました」
長い沈黙が落ちた。
ローデリクはただ目を伏せた。
「なら、今の気持ちは僕自身のものなんだな」
「今の気持ち?」
「君を失ったことを、後悔している」
初めて、彼が正直にそう言った。
「君を好きだったのかもしれない。君に甘えていただけかもしれない。僕自身、区別できていなかった」
「そうですか」
「でも、一つだけ分かった」
彼は俯いた。
「僕は君を大切にしていなかった」
胸が少し痛んだ。
「君が何を好きなのか知っていた。何を我慢していたのかも知っていた。それなのに、君は僕の婚約者なのだから当然だと思っていた」
私は何も言わなかった。
「イネスといるのは楽しかった。彼女は僕を褒めてくれた。王子ではなく、一人の男として扱ってくれる気がした」
ローデリクは自嘲するように笑う。
「だから、それを愛だと思った」
「イネス様とは?」
「別れた」
「どうしてですか?」
「彼女と話した。僕たちは互いに、相手そのものより、自分を満たしてくれる何かを見ていたらしい」
それなら、少なくとも、誰かだけを悪者にする必要はないのだろう。
「僕は王都を離れる」
「どちらへ?」
「北方領だ。王族としてではなく、一人の行政官として働く」
ローデリクは私を見た。
「やり直してほしいとは言わない」
「……」
「いつか僕がまともな人間になったとしても、そのとき君が隣にいる必要はない」
私は少し驚いた。
そして、笑った。
「ようやく、少しだけお話が通じるようになりましたわね」
「手厳しいな」
「十年分です」
ローデリクも、少しだけ笑った。
「さようなら、ネフィラ」
「ええ。さようなら、ローデリク様」
それが、私たちの最後だった。
◇
半年後。
私は王立魔術研究所で、呪術について研究していた。
あの《呪詛》は今も使える。
けれど、もう使っていない。
「また難しい顔をしているな」
本から顔を上げると、オルフェンが立っていた。
「研究中です」
「昼食の時間だ」
「先にどうぞ」
「君と食べたい」
「なぜです?」
「好きだから」
あまりにも平然と言われて、私はため息をついた。
「オルフェン様は、恥ずかしくありませんの?」
「何が?」
「そういうことを毎日のように口にすることが」
「伝えなければ分からないだろう」
その言葉に、私は少し笑った。
オルフェンは私に高価な宝石を贈らない。
私の服の色を決めない。
朝早く起きろとも言わない。
私が本を読みたいと言えば、隣で自分も本を読む。
私が一人になりたいと言えば、本当に帰る。
そして翌日には、何事もなかったようにまた昼食へ誘いに来る。
「ネフィラ」
「何です?」
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「俺のことを、呪ってみたいと思うか?」
私は少し考えた。
「いいえ」
「即答だな」
「呪う必要がありませんもの」
「それは、どういう意味だ?」
珍しく、オルフェンが少しだけ緊張した顔をした。
私は本を閉じた。
「呪わなくても、私を見ていてくださるでしょう?」
オルフェンは目を丸くした。
それから、笑った。
「もちろん」
「なら、それで十分です」
彼が手を差し出した。
「昼食に行こう」
私はその手を見た。
昔の私は、誰かに選ばれるために努力し続けた。
嫌われないように。
捨てられないように。
そして捨てられたときには、思った。
私を忘れられなくしてやる。
私以外を見られなくしてやる。
呪って。
呪って。
呪ってしまえばいい、と。
でも。
本当に欲しかったものは、そんなに難しいものではなかったのだ。
嫌なことは嫌だと言えること。
好きなものを好きだと言えること。
そして、そのままの私を見てくれる人がいること。
私はオルフェンの手を取った。
「今日は苺のタルトが食べたいです」
「昨日も食べていなかったか?」
「嫌なら一人で行きます」
「誰も嫌だとは言っていない」
「では、決まりですわね」
「分かった、分かった」
並んで歩き出す。
「ところで、ネフィラ」
「何です?」
「俺はいつまで待てばいい?」
「何をです?」
「返事」
私はわざと首を傾げた。
「何の?」
「三日前に求婚しただろう」
「ああ」
「忘れていたのか?」
「考え中です」
オルフェンが露骨に肩を落とした。
私は笑いをこらえながら、その腕にそっと自分の腕を絡めた。
「でも」
「でも?」
「苺のタルトを買ってくださったら、少しだけ前向きに考えます」
「買う。店ごと買う」
「そういうところは減点です」
「難しいな」
「一生かけて覚えてくださいませ」
オルフェンが足を止めた。
私も止まる。
「それは」
彼が確かめるように言った。
「一生、君の隣にいていいという意味か?」
私は答えず、先に歩き出した。
「早くなさらないと、タルトが売り切れますわよ」
数秒遅れて、彼が追いかけてくる。
その日の夕方。
私はオルフェンの求婚を受けた。
魔法は使わなかった。
彼の本心を覗くこともしなかった。
必要なかった。
一年後、私たちは結婚した。
私は今も、苺の菓子が好きだ。
朝は苦手だ。
青以外のドレスも着る。
夫と喧嘩することもある。
腹が立てば、腹が立ったと言う。
悲しければ、泣く。
それでもオルフェンは隣にいる。
だからもう、誰かを呪う必要はない。
愛とは、縛りつけることではなかった。
忘れられなくすることでもなかった。
呪って、呪って、ようやく私は知ったのだ。
離れる自由があるのに、それでも隣にいること。
きっと、それを愛と呼ぶのだ。




