4-① かたん
古い、古いお話。
本当はクーディは、学園になんか行きたくなかった。
一番苦手な季節は春だ。出会いの季節だから。大叔母の店にも、知らない人ばかり来る。これからどうぞよろしくなんて挨拶をして、その顔と名前を覚えるのに時間がかかる。そのくせ、覚えていないとこっちが悪いみたいだ。
あんまり得意じゃない。
だから新しい学校に通うなんて、なおさら。
そんなひねくれ具合だったから罰が当たったのかも。
入学式のその日、早速クーディは道に迷って、途方に暮れていた。
ぐずぐずしていたのは認める。わざと朝食をゆっくり食べていたのも、認める。知らないふりをしておけば消えてくれる類の用事ではないとわかっていたけれど、何せ十二歳だ。何でもかんでも理屈で割り切って行動できたわけじゃない。
時間ぎりぎりで来たら、案内の人が校門に誰も立っていない。
びくびくしながら、敷地に入っていく。
校舎の窓から、見えないように歩いた。多分入学式は講堂でやるはず。人の流れに沿っていけば辿り着くと高を括っていたのに、新入生たちはみな張り切り屋だったのか、もう誰の背中も見えない。とぼとぼと歩きながら思う。時間を間違ったのかも。今更行っても、普通に怒られて、外で待たされて、惨めな思いをするだけかも。
いいや、もう。
風邪引いたことにして、帰ろう。
「新入生ですか?」
踵を返したら、そこにいた。
ご丁寧にも、風まで吹いた。花びらが舞って、春の陽が光って、クーディの目の前に魔法学園の制服を着た女の子が立っていた。
なびく髪が、すごく綺麗だった。
微笑む顔が、すごく優しかった。
まあでも、後になって思い返してみればこれも彼女の猫かぶりだ。だって、遅刻ぎりぎりのクーディよりも後ろから来たんだから。今となっては思う。大方、寝坊して、パンでもくわえて走って、新入生っぽい姿を見かけた瞬間に急に全部を取り繕っていたんだろう。
「私もなんです。よければ、ご一緒しませんか?」
お嬢様のふりを、ここで始めたんだろう。
ふたりになったら、ひとりのときよりも気が大きくなった。のんびり迷って、結局遅刻。早速怒られたり、最初の定期考査で妙な因縁ができたり、結構、思い描いたようにいかないことばかりが起きたけど。
それでもそのとき、クーディは思った。
こんな人がいるなら、まあ、毎日通ってもいいかも。
それがテテリッサとの、一番古い思い出。
結構綺麗だよな、と。
思い返すたびに、笑ってしまう。
△ ▼ △
「テテリッサ!」
内臓だとか骨だとか、そんなものは知らない。
とにかくクーディは、立ち上がった。
仰天するような吐き気がした。目の前が真っ暗になって、視界が渦みたいに回り出した。それでも足の裏に伝わる地面の感触だけを頼りに走った。駆け寄った。
「しっかりしろ!」
倒れ伏した彼女の肩に、手をかける。
それを、すぐに離す。
頭から、水音がするほどの血が流れていた。
自分の血を見るよりも、ずっと怖かった。
傷を手で押さえて、その手が真っ赤になって、それでも水のようにたくたくとそれは溢れてきて、どんどん取り返しがつかなくなっていく。
怖くなった。
体温が、氷のように冷たくなっていく。
「ガァウッ!!」
後ろで、ヴィスタが魔物と交錯する音。
それから、ヴィスタがうめく声も聞こえた。
振り返らなくてもわかった。ヴィスタが負けている。テテリッサがこの状態じゃ、ヴィスタは全力で戦えない。それどころじゃない。あの魔物は、黒焦げになっても蘇る。普通にやったって倒せない。
ここで終わり。
こいつも?
「ギャアッ!!」
「ゥウウウ――!」
手立てが、全然思い浮かばない。
抱えて逃げることもできない。上まで登れないから。登れるはずのヴィスタが、魔物の相手で精一杯だから。じゃあお前も加勢したら? 冗談言うなよ。あんなやつ相手に、俺みたいな半端な魔法使いじゃ一秒も持たない。足引っ張って、死ぬだけ。
テテリッサに頼るしかない。
でも、テテリッサはもう、自分よりずっと死にかけている。
「――そうだ」
そのとき、気付いた。
今更気付くなんて、どんな間抜けなんだと思った。
背負ったリュックを下ろす。下ろそうとする。肩紐が引っ掛かって上手く下ろせなくて、無理やり引っ張って筋を違える。関係ない。袋の口を開ける。漁る。何だってこんなに大量に要らないものを持ってきたんだと思う。焚火セットも寝袋だけじゃない。食料だって捨てて、必要なのはひとつだけ。
冒険者なら、誰でも持ってくる薬。
〈万能薬〉を、手に取った。
「顎上げろ……!」
人に飲み物を飲ませた経験なんて、あるわけない。
それにいくら〈万能薬〉とはいえ、こんな状態の怪我人に効果があるかもわからない。やらないよりはマシなはずだ、と自分に言い聞かせる。少なくとも魔力は回復する。魔力が回復すれば、もしかしたら、テテリッサなら何かできるかもしれない。
「う……」
唇を湿らせれば、効いたのか効いていないのか、微かに彼女は声を漏らした。
それから何か、微かな吐息が聞こえる。ヴィスタと魔物の戦いに掻き消されて、言葉は聞き取れない。
「なんだ、どうした」
「…………て」
こんなんじゃ全然ダメだってことは、わかっていた。
出血が止まっていない。薬を飲んだらぱあっと光って全回復なんて、夢みたいなことは起こらない。相変わらずテテリッサの瞳は定まっていなくて、口にしている言葉もただのうわごとに見える。
それでも、何も聞き漏らすまいとして、クーディはテテリッサの唇に耳を寄せた。
「逃げて……」
ヴィスタが、魔物に吹き飛ばされてくる。
咄嗟にテテリッサを庇って、ヴィスタにぶつかって、クーディはまたわけのわからないところまで吹き飛んだ。
すぐにまた、虎の吠え声が聞こえた。さっきまでよりずっと大きな声で、虚勢で、だからどんどん状況が悪くなってきているのがわかる。悪くなるといえば、こっちもだ。もうクーディは、身体を上げたらどこの折れた骨がどこの破れた内臓に刺さるのか、不安で仕方ない。指一本動かすのさえ、躊躇ってしまう。
けれどそのとき、首裏が感じ取った。
風だ。
産毛を撫でるようなささやかな風が、どこからか吹いてきている。どこからなのかはわからない。けれどクーディの理性は、冷静に分析をした。
風が吹いているということは、通り道があるということ。
入ってきたのとは別の出口が、この洞窟の中にはあるのかもしれない。
ヴィスタと魔物の戦いの音は、いまだ止まない。今の衝突で、向こうと自分の間の距離は開いた。
今なら、逃げられるかもしれない。
ひとりでなら、生き延びられるかもしれない。
痛む身体でもがいて、胸を押さえて、頭だけは必死で動かした。冷静に、冷静に、冷静に。これまでの人生で培ってきた経験と知識を総動員して、クーディは、その可能性を検討した。
テテリッサを見捨てて逃げる。
そんなこと、一生かかってもできそうにない。
「――――――!」
化け物みたいな叫び声が自分の喉から放たれるのを、クーディは聞いた。
喉が裂ける。そんなものは些細なことで、本当の問題は今、文字通り自分の手で起こしている。
クーディは、〈ハートグラス〉を握り締めている。
この洞窟に敷き詰められた、幾千の萎れたそれを。
一か八かの賭けといえば、聞こえは良い。でも、実態はもっとひどい。やっている自分自身、勝算なんかまるでない。自棄っぱちの捨て鉢で、ただ、理屈だけは通っている。
ここにある〈ハートグラス〉。
その全てを〈万能薬〉に変える。
できるわけがない、と誰もが言うだろう。クーディもまた、その『誰も』のひとりだ。できるわけがない。でも、理論上はできる。
〈万能薬〉は〈ハートグラス〉の成分の一部を濾して作り上げるものだ。
普通それは、それなりの器材や素材、時間を要する。器材と素材が良ければ一日二日。質の悪さを許容できるなら数時間。そのくらいのもの。
でも、全く手作業でできないわけじゃない。
魔力を使って、器材と素材の不足を補えば、何もなくたってできる。
けれどそれは、信じがたいほど緻密なコントロールを要する。普通にやっても、針の穴に髪の毛の先を通すくらい。器材がなくなれば、素材がなくなれば、短時間で終えようとすれば、その難易度はさらに跳ね上がる。窓から髪の毛を放り投げて、針の穴に通すくらい。何階から? 二階、五階、十四階……
目ん玉が破裂する。
歯が全部、ガラスみたいに割れる。
そのくらいの痛みが、クーディの身体を駆け巡っていた。もはや痛みなのか熱さなのかもわからない。魔法を使って負荷をかけて、その代償なのか。それとも怪我の痛みなのか。大きすぎる思考負荷に神経が悲鳴を上げているのか、どれがどれなのかもわからない。
それでも絶叫と共に、彼は魔法を使う。
きっとそれは、最初で最後の大魔法だ。
お前は死ぬぞ、と誰かが言った。
俺だろう、とクーディは思う。自分の中の冷静な部分が、自分に語り掛けている。
萎れた薬草とはいえ、これだけの量だ。
〈万能薬〉を生成することができれば、それを浴びて、テテリッサは助かるかもしれない。
だが、お前は助からない。
精霊もろくに扱えない未熟者。大魔法を扱えば、その反動で五体は千切れ飛び、霊薬を以てしても二度とは息を吹き返すまい。
だから何だよ、とクーディは返した。
んなこと、自分でわかってるよ。
なら、なぜそんなことをする?
なぜって……。
なぜ、自分の命を他人のために投げ出す?
そんなつもりがあったかと言えば、なかった。
でも、言われてクーディは思う。考える。他人のために命を投げ出してるのか、俺。そうか。そうだな。何だかそいつはとんでもなく立派なことに聞こえて、実はとんでもなく薄情で自分勝手で、なのにその手は止まらない。
五体が千切れ飛ぶ。
そうかもな、と思わせるほど身体が軋んで、目の前は真っ暗で、体温なんかなくなって、頭の中はぐちゃぐちゃで、それでも必死に、あの萎れた草に魔力を伸ばす。吸い取って、かき集めて、どうにかそれを、この洞窟のどこかにいるはずのテテリッサに降り注ぐ、慈雨に変えようとしている。
答えはまあ、決まっている。
普段だったら、多分口にはしないと思う。言葉にもしないかもしれない。いちいちそんな風に気持ちに名前を付けて、何か楽しいのかよって思うから。曖昧なままの方が面白くて居心地が良いものって、世の中にはいっぱいあるだろ? そう思うから。
でも、これだけ切羽詰まっていたから。
限界まで引き絞って、限界を超えて引き千切れて、いちいちそんな洒落臭いことを考える余裕もなかったから。
訊かれたことに、素直に答えた。
そんなの、好きだからだろ。
「そこまで言うなら、力を貸してやるか」
「え?」
急に、視界がはっきりした。
いつの間にか目を瞑っていたのかもしれない、とすら思った。さっきまで何も見えていなかったのに、今だけ急に、目が明るくなった。暗闇の中なのに、くっきりとそれが見えた。
トゲトゲでザラザラ。
うんともすんともワンとも言わない。
はずのそれが、クーディの目の前に転がっている。
かたん、かたん、と震えている。
声は、そこから聞こえてきた。




