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3-② 触るな



 動いちゃいけない。

 そうクーディは、自分に言い聞かせている。


 まだ向こうも、動き出してはいなかったからだ。


 楽観的な考え方が顔を出す。案外大丈夫なのかもよ。だってほら、寝てる間だって平気だったじゃん。本当に危ない生き物なんだったら、そのとき頭からバリバリ食われてるはずじゃん。


 人のひとりやふたり、頭からバリバリ平らげてしまいそうな大口の前で。


 ぬらぬらと唾液を光らせた、鋭い牙の前で。


 猿の煮崩れたような、自分の背丈の優に三倍はあろうかという化け物の前で。


 きっと、〈魔物〉の前で。

 現実逃避に、そんなことを考えている。


 ランタンの明かりが見せる幻だったらいい。

 その全容を照らそうとしたら、不意に消えてしまう影だったらいい。今感じている焦燥も、戦慄も、全部まやかしだったらいい。


 なのに、その牙から唾液が滴り落ちていく。

 それをクーディは、目で追ってしまう。


 魔法学園の、苦手な実技の授業を思い出した。


 クイックマジック。教官がコインを放り投げる。ぴぃんと甲高い音が響いて、空に舞う。落ちてくる。地面に着いた瞬間に、簡単な魔法を練る。


 急かされている感じが嫌で、苦手な科目。

 もっとちゃんと克服しときゃよかった。


 唾液が、萎れた〈ハートグラス〉に落ちていく。


 じゅ、と溶けたら、それが合図だ。


「ギャァッ!!」

「――――!」


 自分で自分を褒めてやりたい。

 奇跡的に、避けられた。


 膝を抜くみたいなやつ。避けたというより、転んだの方が近いかもしれない。頭の上を何かものすごい物体が通り抜けていった気がして、それでも首はくっついてる。ランタンを落とした。固定しときゃよかった。拾わなきゃ。


 拾えない。

 ギャア、と悲鳴みたいな声を上げて、もう一度魔物が飛び掛かってくる。


 ランタンが照らし出したそれは、どう見ても野生動物なんかじゃなかった。


 普通の生き物の姿には、全く似ていない。あれならヴィスタの方がまだ「猫です」で通る。人間の仲介なしでこの世に出てきた、荒ぶる魔の物。理性なんかどこにも見当たらなくて、どう見ても人間を食い散らかすつもり満々で、〈精霊王〉の時代にいなくなったんじゃなかったのかよなんで今更こんなところに――


「ぐぅっ!」


 肩に掠った。

 それだけで、信じられないほど吹っ飛んだ。


 地面の上でバウンドするなんて初めての経験で、全く意味がわからない。色んなところがバラバラに痛くなって、右も左も上も下もわからなくなる。ランタンが吹き飛ぶ。暗闇はさらに闇に返っていく。


 それでも、手の中のトゲザラだけは離さない。


 踏みつけられた。


「げっ――」


 内臓が口から出そうになる。

 咄嗟に背中で庇って、背中が固くてよかったと思って、背骨が折れたらどうしようと思う。


 めきめきと、力が込められていく。


 身動きが、一個も取れない。


 俺はどうなるんだろう。妙に冷静な頭で、クーディは考えていた。やれることがなくなったら、考えられることが増えた。こいつ、やっぱり俺のことを食うのかな。背骨なんか折ったら食いづらいだろうに。でも、生きたまま食われるのもごめんだ。きっと苦しい。ここってどこなんだろう。無我夢中で走って、吹っ飛んで、見当もつかない。出口に近いのか、遠いのか。


 遠かったらいいな、と思った。

 何もできなかったよりは、囮になった方がまだ格好がつく。そう思ったから。


 でも、


「――て、」


 ごろりと転がったランタンが、萎れた〈ハートグラス〉に火を点けた。


 それほど燃えやすい植物じゃない。けれどそれは、明かりになって伝播する。燃える絨毯のように、洞窟の中を少しずつ、少しずつ照らし上げていく。


 それがやがて、彼女の足に辿り着いた。


「てて、」

「――お前、」


 見たこともないような顔をしていた。


 良い意味でふざけたやつだから。いつも明るくて、ちょっと抜けてて、憎まれ口を叩いてたって「本気じゃないんだろうな」と簡単にわかるようなやつだから。


 本気で怒った顔なんて、見たことがなかった。



「触るな!!」



 虎の、吠える声がした。



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