4-③ 一敗
それは、初めて見る精霊の姿だ。
絵本の中で、子どもの頃に出会ったことを除けば。
その長い首を経て喉から放たれる咆哮は、鈴よりも美しく、風よりも猛々しい。
広げた翼は、世界を包み込むほど大きく、爪は、宵闇を煌めかすほどに鋭い。
鱗は水底に敷き詰められた宝石のように美しく、瞳は、遠い空の星よりも遥かに輝いている。
自分の精霊が何だったのか。
何が傍にいて、何を半身にしようとしてきたのか。鏡を見たとき、そこに何が映るはずだったのか。
今ここで、クーディは知る。
それは、竜だ。
「ォアアアアァッ!!!」
感慨に耽る暇もなかった。
今ここにいるのは、自分と竜だけじゃない。魔物。ついさっきまで、自分たちの命を奪いかけていたそれが、竜を前にその毛を逆立てている。猛っている。
しかも、さっきまでとは比べ物にならない覇気で、飛び掛かってくる。
「ギャアッ!!」
「んなっ――」
信じられないような轟音がした。
魔物が飛び上がって、竜を殴りつけた。それは硬い鱗の前に阻まれる。でも、それだけじゃない。
空間がたわむような、凄まじい衝撃が走る。
さっきまでとは、段違いだった。
「これ……!」
どう考えても、この場が影響している。
〈ハートグラス〉がもたらす光。それは自分たちの傷を癒しただけではなく、魔物にも力を与えてしまった。
そうなると、だらだらやっても勝負はつかない。
一発、火力勝負。
竜が、魔物を弾き飛ばす。竜ってどう戦うんだよ。初めて見るタイプの精霊の傍で、クーディは、その火力勝負に適した手札を探そうとする。
「――待て。お前、まさか」
そうしたら、共鳴するように理解した。
名前が頭に浮かんだのと同じ。竜との間に生まれた繋がりが、探した手札の在処を教えてくれた。
「ああ」
そんなのどこにもありませんよ、と。
「俺は治癒と支援が専門だ」
「その図体でぇ!?」
「ウォオオオアアァッ!!」
魔物が、もう一度飛び掛かる。
竜は、鱗でそれを弾く。するとどういうわけだろう。フィードバックが、クーディの身体にまで走る。右足が痺れた。かくん、と膝が折れた。それでも魔物は弾き飛ばされる。一度凌いで、次はすぐ。
今度は賢いことに、竜ではなく、人を狙った。
目にも留まらぬ速度で、魔物が突進してくる。
「ヴィスタ!」
「ガウッ!!」
それを、横合いから現れた虎が弾き飛ばしてくれる。
声のした方を見れば、息荒く少女が立っている。
「クーディ!」
テテリッサ。
すっかり自分の足で動けるようになった彼女が、駆け寄ってきていた。
「テテリッサ、怪我は平気か!?」
「何これ、どういうこと!? らぶ――ラブが何とかとか、なに!?」
「お前ら、話は後にしろ!」
積もる話をしている時間も、どうやらない。
あれだけ偉そうなことを言って、満を持して登場したはずの竜は、すでに焦った声を出している。
「小僧、お前のコントロールが甘すぎる! このままでは際限なく魔物が膨れ上がるぞ!」
そして実際、彼の言う通り。
魔物は一撃一撃を放つごとに、周囲の光を取り込んでいる。むくむくとその身体を膨らませ、今ではすでに、ヴィスタより遥かに大きくなっている。
もう数分もすれば、竜をも超えて、この洞窟の天井を突き破るだろう。
そしてクーディは、コントロールをと言われても、日の光を瓶に集めて閉じ込めるような真似はできない。
竜と合わせて、一撃で相手を倒すこともできない。
だから――
「テテリッサ」
隣にいる友達の手を、握った。
「力、合わせてくれるか?」
問いかけには、案外大した意味はなかったのかもしれない。
テテリッサは握られた手を見つめていた。ゆっくりとそれを持ち上げる。へそとへその間。胸と胸の間。やがてそれは、口と口の間まで持ち上げられる。
そして自然と、ふたりの目が合う。
クーディは、彼女のきらめく瞳を、まともに見た。
「うん」
あんまりにもそれが、不敵な笑みだったものだから。
つい、クーディも釣られて笑ってしまった。
「動きを止める!」
叫んで、まずは彼の方から。
「俺たちで押さえ込むぞ!」
「努力はするが――」
竜が吠えた。
翼を羽ばたかせ、飛び掛かる。同じく飛び掛かった魔物と空中でぶつかり合う。けれど、そもそも場所が悪いのかもしれない。十分な速度が出ていなかった。弾き飛ばすまでは至らない。ただ、空中で魔物の動きを止めただけ。
半身で足りないなら、もう半分で補う。
「〈伸びろ!〉」
竜の力で活性化したのは、何も〈ハートグラス〉だけではない。人間、精霊、魔物……そして、植物。
地面の上に投げ捨てられた〈梯子草〉。
それが一息に伸びて、ぐるぐると魔物に巻き付いた。
「ギャァアアアァッ!!」
魔物が叫ぶ。
こっちを見て、口を開いて、信じられないことをする。
その喉の奥に、魔法の光が見えた。
飛んでくる。
「インターセプト!」
「ガオォッ!!」
それを、虎が防いだ。
クーディと竜では全く反応できない速度で、テテリッサが指示をして、ヴィスタが応えた。下から飛び掛かって、頭突きで顎をかち上げる。
動きは止めた。
手足は封じた。
奇襲だって阻んでのけて、だから最後の仕事が始まる。
手の中に、不思議な熱をクーディは感じた。
テテリッサと握った手が、やわらかくてくすぐったい、不思議な温もりを宿している。
彼女の鼓動まで、クーディには伝わってきた。
何がしたいのか、何が必要なのか。もしかしたら、テテリッサも同じだったのかもしれない。彼女は、驚いた顔をしてクーディを見上げた。
いつの間にか、こんなに背丈に差はついて。
握る手が、こんなにも頼もしい。
「〈咲く花は、君のために〉」
信じられないくらいキザな呪文が、口から出てきた。
でも仕方ない、とクーディは思う。頭の中に浮かんだものが全てだ。それは、光を集めていく。日の光を全て瓶の中に閉じ込めることは、クーディにはできない。けれど瓶の底に光を集めて、どこかを照らすことくらいはできるから。
スポットライトは、彼女に当たる。
「〈白雷――」
テテリッサは、まるで問題にしなかった。
スポットライトが当たってびっくり、なんて時間は彼女にはない。クーディはそれを不思議に思わない。自分が主役。自分が一番。隣で見てきて、そういう人間だということはわかっていたから。
光り輝いて、眩しくて。
自分ができることは、向こうもできる。そんなライバルだから。
好きだから。
心の底から、彼女を信じた。
「――閃光〉!」
無骨な呪文と共に、テテリッサが光を放つ。
闇なんて、もう話にならない。この大地を根こそぎ照らし上げるような魔法が、古い時代の悪霊を消し去っていく。
テテリッサは、雷と唱えたけれど。
クーディには、太陽に見えた。
△ ▼ △
きっといつか、この世で一番の魔法使いになる。
自分の右手を見ながら、テテリッサは不思議な確信を得ていた。
今放たれた魔法の感触が、忘れられない。
膨大な力だった。でも、わかる。
いつか自分は、これを自分で扱えるようになる。
けど、それはともかく。
「……えーっと、何が何?」
「ダンジョンになっていたのだろう。この洞窟が」
とても大きな精霊が、首をもたげて答えてくれた。
トゲトゲでザラザラ。そして超巨大。ヴィスタとはだいぶ毛色の異なるそれが、こっちを覗き込むようにして近付いてくる。
「昔と違って今は、精霊界とこちらの壁も厚くなった。が、〈ハートグラス〉が自然に光るほどの濃魔力地帯だ。形を失うことなく、かつての魔物がここに居座り続けていたのかもしれない」
どうもありがとう、とテテリッサは言いたくなった。解説してくれて、とても助かりましたわ。
でも、そういうことではなくってよ。
「…………」
ちら、と横目でクーディを見た。
ん、と彼はそれに応じる。でも、彼は彼で困ったような顔をして、
「あー……」
逆の手で、頬を掻きながら、
「〈ラブコメドラゴン〉くん?」
「なんだ」
聞き間違いだと思った。
聞き間違いじゃなかった。
「わ、」
何も言えずに唖然としていると、ヴィスタにべろりと頬を舐められた。いつの間にか、駆け寄ってきてくれていた。一度は後ろ足で立って、前足で抱き締めてくれもする。「大丈夫?」と訊かれている気がしたから、大丈夫だよありがとう、と伝えるように、テテリッサは彼女を撫でた。
もふもふした感触。
倒れている間も、必死になって守ってくれた。
ヴィスタ。
……精霊の名前って、みんなこういうのじゃないの?
「すごい名前だな」
直球で、クーディが言った。
「良い名前だろう」
直球で、竜も返した。
クーディは何も言えなくなっている。そりゃそうだ、とテテリッサは思う。精霊がいて、なのに全然話もできなくて、と思ったらそれが竜で、ピンチに覚醒して、名前がラブコメドラゴン。
困って普通。
本当だったら大喜びして、周りの人たちから祝福の言葉を貰って、幸せな一日を送ったっていいのに、上手く反応できなくても、仕方ない。
しかもここには、周りの人はひとりしかいない。
だから、まあ。
「よ、」
テテリッサは、クーディの手を握った。
彼がこっちを見る。目が合う。目が合ったから、言う。
「よかったです、ね」
言ってから、「これじゃなかったかも」とテテリッサは思った。
だって、何だか他人事みたいだから。こんな目に遭わせておいて。というか、先に謝るべきだったかも。ごめんこんなところに連れてきて。いや、その前にお礼か。ありがとう。助けてくれて。
やっぱそっちだ。
そう思うのに、クーディは妙に優しく微笑んでいる。
もう三年も一緒にいたのに、そんな顔は初めて見た気がした。
全然知らない顔だから、全然知らない人みたいに見えた。そのせいだと思う。急に、手が気になった。握っている手。汗ばんでるかもとかそういうことじゃなくて、いつまで握ってるんだってこと。でも、今離したら感じ悪いよね。いやでも汗ばんでるの、結構気になってきたかも。なんか変に焦ってきたかも。
知らない人と手を繋いでるみたいで、ドキドキする。
目が合って、なんでかわからないけど、上手く逸らせない。
逸らせないでいたら、なんだか不思議と、近付いてきた気がする。
クーディの顔が、よく見える。形の良い鼻とか、目とか、口とか、顎とか、前髪とか。
目が合ったまま、どんどん近付いていく。
そして彼は、とうとう瞼を閉じた。
バチーン!
「……」「……」
「……」「……」
と音が鳴ったとき、呆然としていたのはテテリッサだけではなかった。その場にいる、全員。
でもやっぱり、一番気が動転していたのは彼女だったと思う。
ぶった手のひらがじんじん痛むくらいのその衝撃に、自分でびっくりしている。
ぶった。
ついさっきまで謝ろうとか感謝しようとか思っていた相手に、思いっ切りビンタをした。
「だっ、」
頭の中は完全にぐちゃぐちゃになっている。
思ったことが、そのまま出てくる。
「だって今、キスしようとしてた!!!」
誰が見てもそうだった。
誰が見ても、そういう感じになっていた。
ビンタをかまされた方はといえば、普通に瞼を開いて頬を押さえている。ふつふつとテテリッサの中に罪悪感が湧いてきて、いや謝ってたまるかという気持ちも対抗し始めて、さらにぐちゃぐちゃになっていく。
クーディが、口を開く。
「そういう雰囲気かと……」
「ない!! キスしていい雰囲気とか、この世にない!!!」
あると思う。
実際、この世にはキスとかしている人がいるわけだし。
でも、一度言ったら引っ込みがつかなくなった。
ぐるぐると、ぐちゃぐちゃの頭の中でテテリッサは色んなことを考える。気分はもう、荒れ狂う虎だ。冬の日の、毛糸のセーターを百枚着込んで、触ったら静電気が弾けてみんな黒焦げに変えてしまう虎。
え、何、そういうこと?
クーディって、私のこと好きなの?
同時進行で、頭の中で荒れ狂う虎たちのレースが始まる。それいつから? いやでも好きでもない人にとりあえずキスする人とかいるらしくない? そんなタイプじゃないでしょ! じゃあ真剣ってこと? いつから? そういう感じだったら、え、じゃあ昨日のお泊りとかヤバくない? ふたりで出かけようとか誘ってるのもヤバくない? ほんといつから? 私が今までやってきたこと全部大丈夫?
私はどうなの?
「く、」
苦し紛れに、すごい言葉が出てくる。
「クーディのことは、双子の弟みたいなものだと思ってるから!!」
本当にすごい。
本当にすごい言葉の数々が、本当に滑らかに口から出てきた。本当にすごい、ということにテテリッサが自分で気付くまでには、それなりの時間を要した。具体的に言うと、こういうことを口にし始めたあたり。
「だからその、もうひとりの自分みたいなものだと思ってるっていうか――」
普通に「私も結構いいなと思ってるかも」みたいなことを言っておいた方が、全然傷は浅く済んだと思う。実際そうと思っているかまだわからなくても、とりあえずそう言っておけば、こんなすごすぎることまで伝える必要はなかった。
自分が何を言っているかわかり始めて、テテリッサはどっと冷や汗をかき始めた。
私、めちゃくちゃ気持ち悪いこと言ってる。
「もうひとりの自分だと思ってるってことは」
だからクーディがもう一度口を開き始めたときは、完全に後退りしている。けれど、それも大した距離にはならない。ふたりの間は、それほど開かない。
だって、手を握られたままだから。
「世界で一番可愛い存在だと思ってる、ってことか」
罠だ、とテテリッサは思った。
絶対、これは罠だ。
こんなこと真剣に言う人間がこの世にいるわけない。クーディは、絶対に普通に怒っている。反応したところを指差して笑いにくる。そうに決まってる。そもそも論理が飛躍してる。だってそれ、私が私のことを世界一可愛いって思ってることになるじゃん。そんなにナルシストに見える? そんなわけない。
こういうのは、照れた方が負けだ。
向こうがちょっとでも自分の台詞の馬鹿馬鹿しさに照れて笑えば、こっちの勝ち。
だからテテリッサは、待った。
クーディが照れ笑いするのを、待った。
のに、意外な才能を発揮される。
微塵もクーディは照れない。笑わない。何ならじっと目を覗き込んでくる。普通人間ってもっと人の目を見るとき躊躇しない? やり取り関係なしに疑問に思ってしまうくらい、まっすぐに。
そうして、結果。
テテリッサの口からは、こんな声が出た。
「ぅあ」
耳まで真っ赤にしながら、彼女は思う。
帰ったら、ちゃんと勉強しよう。
次は絶対、負けないように。




